「ただいま」
臨也さんのマンションはとても広い。
ぱたぱたとスリッパの足音が聞こえる方向へ、おかえりなさい、と返す。本当は玄関まで迎えに行きたかったのだが、料理中、しかも炒め物をしていたため手が離せなかった。ぱた、と足音がすぐそばにやってくる。
「あれ、波江さんは?」
「今日はもう帰るそうです」
「ふーん……」
臨也さんはフライパンを覗き込んでから、機嫌よさ気にキッチンを後にした。嬉しい事に、臨也さんは私の料理が好きらしい。
なぜ私が今ここに居て、臨也さんの夕食を作っているのか。はじまりは一ヶ月前に遡る。
一年以上勤め続けたバイト先が潰れた。元々あまり流行っていない喫茶店だったが、景気の煽りを受け、ついに閉店してしまったのだ。
新しいバイト先を探すにも良い所は見つからず、借りていたマンションの家賃さえままならない。この世の終わり、といった顔で池袋を歩いていたのだった。
「あれ、かなえ?」
街中でそう呼ばれ、私はのろのろと振り返る。そこには白衣の青年が立っていた。眼鏡をかけていて、人懐い笑みを浮かべている。
「……新羅?」
「やっぱりかなえだ!久しぶり!」
新羅と私は父親同士がちょっとした知り合いで、幼なじみ、とまではいかないが、そこそこ親しい間柄だ。お互い成人してから連絡を取り合わなかったが、彼はすっかり医者をやっているらしい。
新羅に誘われるまま新羅のマンションに行けば、そこにはセルティが居た。
もちろんセルティの事も昔から知っているから、怖くはない。新羅とセルティが恋人同士と聞いても驚きはなかった。最初こそ昔話に花を咲かせていたが、話題はやはり現状の事に。私の体たらくを話すと、新羅もセルティも一緒に悩んでくれた。
「じゃあ、今どうしてるんだい?」
「貯金を切り崩してなんとか……でも貯金ももう無くて……」
『バイト、見つからないのか?』
「この際えり好みしてる余裕は無いと思うんだけど、良い所がなくて……」
はぁ、と深いため息が出た。
新羅とセルティも一緒に悩んでくれた。
新羅が「うちに住む?」とか、「僕の手伝いする?」とか言ってくれたが、セルティとの生活を邪魔するのは気が引けた。私がやんわりとそれを断る。
ふと、新羅が再び口を開いた。
「君、家事得意?」
「え、あ、まぁ……」
高校生の時から一人暮らしはしているので、人並みには出来るだろう。そういう意味で頷けば、新羅はニッと笑った。
「適材適所だ!君にとっておきの仕事を紹介しよう!少しクセがあるけど、ね」
新羅に貰ったメモの所までセルティに送ってもらった。セルティは少し不安そうに『嫌になったらすぐにでもうちに来い』と何度でも確認する。「分かってるから」、聞かれるたび、そう何度も返した。
指示されていたのは高級マンション、しかも最上階。
「ここ……かな……」
恐る恐る、チャイムを鳴らす。あ、履歴書とか忘れたけど大丈夫かな。それにしても何の仕事だろう。
考えを廻らせる私をよそに、インターホンのガチャリという音と共に『どちらさま?』という女性の声が。
「あの、岸谷新羅の紹介でこちらに伺いました、篠宮かなえです」
『あー……話は聞いてます。どうぞ』
「は、はい」
「ああっ!セルティ!」
『どうした?新羅』
「かなえに雇い主の事言ってなかったよ!」
『お前……っ』
最上階に着き、部屋のドアを空けてくれたのはやはり女性で綺麗な顔立ちをしたひとだった。声もよく聞けば透き通るよう。スタイルも抜群。なんて美人だろう、と思った。
「入って。そこの廊下進んで」
「え、あ、はい」
この人が雇い主ではないのだろうか。言われた通り進めば、そこには、夕陽をバックに座る一人の男。
「やあ。あ、波江さんはもういいよ。お疲れ様」
「ええ」
「あ、篠宮かなえです。よろしくお願いします」
そう言って私が頭を下げると、ギィ、と彼が立ち上がる。
「そういう堅苦しいのはいいからさ、とりあえず得意な料理教えてよ。あと給料、これは君の働きぶりにもよるけど、いくら欲しい?参考にするかもしれない。ああ、君は住み込みがしたいんだよねえ。一部屋あげるから好きに使ってよ。荷物は自分で持ってきて、適当に置けばいい。この家はどこでも見て良いけど、あんまり触らないでね。特にパソコンとか」
「は、はい……」
返事する頃には彼はもう目の前にまで来ていた。よく喋る人だ。
「得意料理は和食、煮物が得意です。えっと、お給料は……」
「一日三万くらい?」
「えっ、いや、あの、お任せします」
一日三万って。そんなバイト見た事ない。
私をからかったのか、彼はくすくすと笑って私を見た。
さっきは逆光のせいで分からなかったが、少し近付けば分かる。綺麗な顔。眉目秀麗ってこういう人のためにあるんだろうか。声も心地好いアルト。すらりとした体躯。さっきの女の人を並べるときっと美男美女。すごいカップルだ。
「誤解を招かないよう言っておくとねえ、さっきの女性は波江さん。俺の秘書ってやつ。彼女、ちょっと気難しくてね。今まで家事もしてもらってたんだけど、それは今日から君の仕事」
ああ、だから新羅は「家事は得意?」と聞いてきたのだろう。私の仕事は家事洗濯掃除、つまり家政婦だ。
それに、あの波江さんは恋人じゃないのか。少し残念なのか、ほっとしたのか。
「その様子じゃ新羅に何も聞いてないみたいだけどさぁ」
「はい」
「俺は情報屋をしていてね。名前もちょっと売れてたりする。イザヤ。折原臨也」
ポカーン。まさにそんな顔の私を見て、彼は笑った。
そう、臨也さんとの生活はこうして始まったのだ。
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