さよならすら忘れた



お前が嫌いでも俺は好きだ。彼は一面の銀世界を指して言った。北国生まれの私達にとって雪は珍しいものではないし、嬉しいものでもない。そりゃあかまくらとか雪合戦とか、その季節に食べるお餅は大好きだけど。けど、雪自体は冷たいし痛いし、滑るわ転ぶわで迷惑な存在だ。見ているだけならいいのに、とぼやく私にアツヤが少し不機嫌に言い放った。夕暮れ時の雪原のような髪がさらさらと風に遊ばれている。

「けどさ、雪降ったらアツヤの好きなサッカー、できなくなっちゃうよね」

「許す」

思えばあの頃の私達はまだまだ幼かった。

「アツヤって、自己中」

「なんだと」

小学生の口喧嘩なんて可愛いもので、その後もすぐに仲直りした。けど、なんていうの、少しもわもわとした気分だけが残って、アツヤと士郎と遊ぶため通い慣れた公園からの帰路も随分退屈に感じたと思う。



中学生になってからの私は席替えをすると、何故か必ずグラウンド側の窓際の席になるようになった。退屈な授業はグラウンドを見て過ごす。今日、月曜の数学の授業はいつも士郎のクラスが外で体育をしているっけ。見るとグラウンドにはマフラーを着けて寒そうに縮こまる士郎が居た。彼はどちらかというと考え方は私に似ている、というより雪がどうであろうと気にしないらしい。雪崩さえ無ければ平気だ、と言う。
あ、士郎がこっち気付いた。

深緒ちゃん

彼の口がぱくぱくと私の名前を呼ぶ。士郎は少しはにかんでからまた口を開いた。

すき

唇で紡がれた、士郎の言う「好き」は恋愛的なものではなく、良く言えば「友情」、語弊を無くすとすれば「依存」だ。
幼い子供は何かに掴まらずして歩く事は出来ない。突如として歩きだす事は無く、必ず誰しもが何かに寄り掛かって、初めて一人で歩けるはず。士郎の私に対する依存は、元は家族が担っていた「支え」という役割を私で充たそうという本能的な反応なのだろう。いつも私はそれを拒むつもりも受け止めるつもりもないから、その時はいつも曖昧に笑う。すると士郎はどこかほっとしたようにどこか寂しげに微笑むのだ。授業も終盤に近付く頃に、窓の外ではしんしんと雪がばらつき始めた。きっと体育は早めに終わるだろう。

雪が嫌いだ。アツヤからサッカーを奪ってしまうから。私からアツヤを奪ってしまうから。雪さえ降らなければ今頃グラウンドで駆け回るアツヤを見られるような気がして、私は無人になったグラウンドを睨み続けていた。

101016