おやすみの温度




昼過ぎから降り出した雨は時間が経つ程に緩やかに勢いを増し、窓を激しく叩きつけていた。洗濯物はどうにか濡れずに済んだが、染岡君達と遊びに行っていた士郎はびしょ濡れになって帰って来て、まるで捨てられた犬のようだった。士郎との同棲を始めてから私の母性本能はくすぐられてばかりで、ついつい世話を焼きすぎてしまうくらい。士郎はしょうがない子だね、と言うと、そうかな、夜の深緒程じゃないよ、なんて事を平気で言うから侮れないが。濡れて変色した士郎の上着を剥いでバスタオルを押し付ける。士郎がシャワーを浴びている間に私は昼のうちに焼いておいたチーズタルトを温めて、苺でコンフィチュールを作る事にした。そして飲み物は、よく冷やしたサイダーにミントを浮かべる。シャワーから上がった士郎は嬉しいそうに笑い、今日は凝ってるね、そう言ってタルトにフォークを差し込んだ。時計はもうすぐ6時を指している。雲の上では太陽が沈みにかかっている頃だろう。しかしそれが全く伺えない程の分厚い雲にため息が零れた。

「明日まで降るみたいだね」

ゴールデンタイムに入る寸前のニュース番組に紛れていた気象予報。士郎はチャンネルを回す手を止めて、私達の住む地域に掛かった雨雲を見た。どうやら士郎の言った通り明日の明け方までこの雨は続くようだ。明日の昼には晴れるので、洗濯物を干す事が出来る。

「そっか」

「ねぇ、深緒、今日は早く寝よう」

「士郎、疲れてるの?」

珍しい提案に驚いて士郎を見る。士郎はいたっていつも通りで、疲れているようには見えない。不思議がる私に苦笑して士郎はテレビのリモコンを私に手渡した。

「僕…もう寝るね。晩御飯はいいや」

「え?うん、けど今の時間から寝たら朝早くに起きちゃうんじゃない?明日休みだよね」

「良いんだ。じゃあ」

士郎は微笑んで私の額にキスを落とし、寝室に消えて行った。我慢出来ない程眠かったのか、明日早起きしたいのか、それは士郎の自由だが、私は暇になる。特に面白いチャンネルも無く、暫く天気予報を無心に眺めていた。天気予報なんて見なくてもここの雨が激しい事は良く分かっていたが。それでも液晶の中の女性は淡々と私に気圧の様子を話している。

自分で気付いた時には既に私は二人分の晩御飯を作り終えていて、寂しさが堰を切って溢れ出した。士郎が居ない事なんて滅多に無いから心底退屈で、二合炊いていたご飯も一向に減る気配が無い。夕食にはまだ早かったがそれを終えた私は食べる人の居ない方の夕食にラップを掛けて、冷蔵庫にしまった。シャワーを浴びようかと思ったが士郎を起こしてしまうかもしれないし、雷が遠くから聞こえていて停電でもしたら面倒だ。私も今日は早く寝てしまう事にした。

豆電球も点けずにベッドに潜っている士郎の隣に潜り込む。士郎は熟睡しているのか反応は無い。早い時間のせいで目が冴えていて、しばらくそのまま天井を見つめていた。一瞬、部屋の中が明るくなる。先程までは光っても気付かなかった雷が近付いているようだった。ふと隣の士郎が動き、私の体を抱き寄せた。起こしてしまっただろうか。

「し」

士郎、と私の声を掻き消したのは他でもない雷さまだった。びくりと身体を震わせて、私をきつく抱きしめた士郎に驚いて喉を詰まらせたというのもあるのだけど。

「く…苦しい…」

ぎゅうぎゅうと胸板に押し付けられて、嫌だったのではないが苦しくなった私が抵抗すると士郎はすぐに腕の力を緩めた。

「…ごめん」

なぜ士郎が早く寝たがっていたのか、ようやく理解したのと同時に、どうしてもっと早く私が気付いてあげられなかったのだろうと自己嫌悪した。士郎のトラウマは私も知っているはずなのに。大きな音があの事故を思い起こさせる、幼い頃に刻まれた傷はたとえ彼の心境が変わろうと簡単に塞がるものではなかった。士郎のために防音のよく効いたこの部屋を選んだ。明るくなった士郎に安心して、満足して、私が彼をちゃんと見ていなかったから。士郎は一人で我慢していたのに。

「士郎」

今度は私が士郎を抱きしめた。士郎は一瞬戸惑って身じろぎしたが、部屋がまた明るくなるとぎゅうと私に抱き着いた。

「おやすみ」

それは次の雷鳴にかき消されてしまったが、私の胸に顔を埋めた士郎は一度だけ頷いた。




100912