家に、大きな寒椿の木があった。
以前の土地の持ち主が置いていって、そのままにしてあるらしいそれは結構立派なもので、特に誰かが世話をせずとも常にどっしり立っていた。
当時、中学生だった俺はまだ家族と同じ一軒家に住んでいて、それなりに騒がしくまた充実した日々を過ごしていた。
何かと破天荒な双子の妹も居るし、興味深い友人も出来た。
それでもまだ幼かった俺の世界は狭く、ほとんどは学校と家のみで成り立っていたと言ってもいい。
狭い世界。
それがあるきっかけで少し広がったのは、確か寒い雪の日のことだった。


「イザ兄、はよー!」

「朝…」

「お母さんが雨戸開けてって!ほらほら起きて!」


朝早くから小学生の双子に起こされ、まだ薄暗い空を窓に見ながら階段を下りた。
時計を見れば普段よりずっと早い時間で、これが済んだら二度寝しようかとも考える。
歩けば歩くほどに、きんと冷えた空気が目を覚まして俺は一つ身震いをした。
ったく、うちの妹は何故ああもうるさいんだ。
僅かに苛立ちを覚えながら窓の鍵に手を掛ける。
氷のような金属の桟に触れて、雨戸を開けて、そこで俺は女の子を見た。


「(…寒いと思ったら雪だったのか)」


そう口に出せなかったのは、家の庭から道路へせり出している寒椿の枝をじっと見上げる人が居たからだ。
黒いローファーが、雪が降り積もって白いだけのアスファルトを踏んでいる。
俺とそう年の変わらないように見える女の子は、コートにマフラーの姿で寒そうにしながら家の前を動かずに居る。
よく見れば、肩に掛けた学生鞄のロゴには見覚えがあった。
電車でいくつか先の駅の、有名私立中学校の名前をぼんやり眺めていると、女の子は少し背伸びをして寒椿の蕾へ手を伸ばしていた。
取ろうとするでもなく、ただ指先で愛でるみたいに触れる仕草は幼子が猫を可愛がるのとよく似ていた。
その口元が緩く弧を描いていて、すぐに気が付いた。
この子は寒椿が好きなのだと。


「あ…、おはようございます」

「…おはよう」

「すみません、勝手に」


ふと目が合って、女の子は伸ばしていた手をぱっと引っ込めた。
何故かそれを見て「もったいない」と思う自分が居た。
他所の飼い犬に構っているところを当の飼い主に見られた小学生のような顔をして、彼女がさくりと雪を鳴らしてこちらへ向き直った。
そこで自分が寝起きであることを思い出す。
それなりにまともな服装をしていて良かった。


「君は…こんなに早くから学校に行くの?」

「あ、はい。少し遠いから、いつもこのくらいの時間には家を出るんです。それで、行きがけにここの寒椿を毎朝見て素敵だなぁって思っていて…」

「花は好き?」

「花というより、この寒椿が好きです」


両方の手のひらを合わせて微笑んだ彼女。
窓に手を掛けたまま、俺は息を飲んだ。
まだ蕾の、咲いてもいない花をあんなに嬉しそうに眺める人を初めて見た。
笑顔も仕草もきらきらと眩しく優しく見えるのは、いつの間にか出た朝日の光を雪が反射しているからか。
知らず知らずの内に、俺は手のひらを握りしめていた。


「イザ兄ー?って、寒ーい!なんで窓開けっ放しにしてるのー!?」

「わ、お前ら、飛び付くな!」


周りに群がってきたちび二人を慌てて追い払おうとすると、また外の彼女と目が合った。
彼女は笑ったあと、一つお辞儀をして足早に駅の方へ歩いて行った。
舞流が俺の袖を引く。


「イザ兄、今の人、誰?」


それには答えず、俺は雨戸を開け放した。
まだ寒く空気の澄んだ朝、まっさらな雪の上にはあの子の足跡だけが残っていた。


20101207
君に会うための早起きが始まる
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