ふよふよ、すいすいと、音をつけるならばそんな感じだろうか。 壁に手をつきながら上方をじっと見やれば、あちら側からするとデスクトップの中央あたりを泳いで見えるだろう電子の熱帯魚がいた。 よくよく目を凝らせばそれは透けていて、画面の向こうである彼女の部屋まで見えた。 先ほど彼女が置いたばかりのそれはまだ安定していないのだろう。 長い間ここに住んでいる自分とは、違って。 「サイケ」 ぽん、と後ろに現れた津軽が呼ぶ。 振り向いた先の姿は仕事上がりのためか眠そうだった。 目をこすりこすり近付いてきた彼も、先ほどの俺と同じく熱帯魚を見上げている。 「お疲れ、津軽。随分長いこと起動されてたみたいだね」 「ああ、課題とやらに取り掛かっていた。俺たちの主人は、多忙だな」 文書作成ソフトなど仕事関連のソフトウェアを担う津軽が起動されることは多い。 その分一回の疲労が大きいらしく、起動されなければいつまでも眠っているような癖もあった。 ただ単に、津軽がのんびりするのが好きだということも関係しているかもしれない。 俺は常設タイプのメッセンジャー管理。 メール受信やSNSの情報をデスクトップで彼女に伝えるのが役目だ。 当の主人は何やら部屋のあちこちへ歩き回り忙しそうに見える。 「このまま出掛けるのかな」 「多分提出をするんだろう。ほらサイケ」 津軽が笑顔で指差した先、こちら側、画面を覗き込んだ彼女が居た。 俺がずっと壁(液晶というのだろうか)に向かって手をついていたからか、あちらからは手を挙げているように見えるのかもしれない。 もしくは、手を振るみたいに。 くすりと笑ったらしい彼女が電源を落としたことで、空間がわずか薄暗くなる。 俺と津軽の会話や表情といった情報は目には見えない電子の交換だ。 彼女からはただ人型のアイコンが並んでデスクトップに見えただけなんだろう。 踵を返して歩き始めた津軽へ声を掛ける。 「寝るのかい?」 「ああ。また彼女に起こされるまで、な」 「おやすみ、津軽」 「ああ、またな」 手をひらりと振って津軽は自分の寝床へと帰っていった。 上を見やれば、光源を失ってふらふら迷うように泳いでいる熱帯魚が見えた。 指先で軽く呼んでやると、すいと下まで流れてきた。 近くで見ると俺よりも一回り大きいくらいだった。 「これから、よろしく」 物言わぬ魚に語りかける。 俺のようなメッセージ機能や津軽のような文章作成機能がない彼は言葉を発する術がない。 賑やかし用の、デスクトップの飾りなのだから。 ひたりと触れてみると彼はもう透けてはいなかった。 次の日に俺が魚に乗っている姿を見て、彼女は小さく笑ってくれた。 それで十分だ。 「セキュリティソフトのデリックだ。ま、仲良くやろうぜ」 どこか自分とデザインの似た新入りが続けて顔を見せたのは、そう日も経たない内だった。 魚の上に横たわらせていた身を起こし、じっと目を見張る。 彼は最初から、はっきりとした存在感を持ちデスクトップに現れた。 言葉も話せる。 この熱帯魚とは大違いだ。 「君は、俺と同じだね」 重要性、有用性の高いプログラムソフト。 だから早くもここに馴染んでいる。 肩をすくめてみせた彼に真意は伝わったか否か、その場にあぐらをかいて座り込んだデリックは煙草をふかしている。 その煙が流れていくのに目がつられて、そのまま俺は液晶の外へ目を戻した。 そこにはソフトウェアの説明書を真剣に読む彼女が居た。 俺はいつだってこうしてあちら側を見ている。 俺が初めて起動された日から、熱帯魚が来る前も、今インストールされた彼が来る前も。 「初仕事までにはもう少し時間かかんだろ」 「…そうだね」 俺が尚も彼女への視線を逸らさずいるのを不審に思ってか、背後から声が掛かる。 「お前メッセンジャーか?そんな監視みたいに張り付いてなくてもいいだろ。気ぃ抜こうぜ」 「うん」 「…お前以外に話せるソフトは?」 「いるよ。今は眠ってるけど、津軽っていう作業用のソフトウェアが一人」 彼女はセキュリティレベルを引き上げるのだろうか。 少し困ったような表情でパッケージと説明書を見比べる姿を見つめる。 すると、後ろからため息が聞こえてきた。 ちらりと振り返り見れば、デリックは理解できないと言いたげに首を振る。 「わかんねぇな…その津軽って奴は何も言わないのかよ」 「何のこと?」 「分かってんだろ。お前、もしかしなくとも『外』が恋しいのか?」 俺を乗せた魚がつい、とデリックに向けて泳ぐ。 向かい合った瞳は俺への非難の色を少し滲ませている。 当たり前のことだけれど、少し寂しい。 「あちらを見るのはそんなに悪いことかな」 「そうは言わないけどよ、俺はあの人に買われてここに来た。ようやく自分の役目として働けるんだ。だからお前が理解できない」 「……」 「『ここ』に居るのが自然なんだよ、俺たちは。違うか?」 「うん、君の言う通りだとは思うよ。でもね」 また視線を彼女へ戻してしまう。 これは癖だ。 長年積み重ねられた俺の思いは変わらない。 「俺は名前が、好きだから」 「名前?」 「彼女のことだよ。俺たちの主人はそういう名前なんだ」 デリックも俺の隣までやって来て彼女を見やった。 不意にこちらを見た彼女と目が合った。ような気がした。 いつものように、彼女が笑う。 黙りこくるデリックに尚も続けた。 「俺はメールのアドレス帳も管理してる。津軽はレポートで何度も彼女の名前を見てる。二人だけで知ってるのはもったいないくらい、いい名前でしょ?」 「…ああ」 「俺たちが働くようプログラムされたソフトウェアである限り、円滑な活動のために主人への愛情は多少組み込まれてる。でも、きっとそういう理屈とはまた別なんだ。津軽も、俺も」 「名前のことを、か?」 「うん。デリックもいずれそうなるよ」 驚いたような顔をしてみせるデリックに笑いかける。 「俺と津軽とで違ったのは、外への関心だよ。津軽は彼女の役に立つ仕事ができればそれでいいと言った。でも俺は違う。自分の声で彼女と話してみたいし、自分の手で彼女に触れてみたい」 「でも、そんなのは」 「無理だろうね」 「外に出るって、つまりはソフトの形としてアンインストールされることだろ」 「うん。俺の望む形じゃないんだ」 俺は今触れている電子の熱帯魚と何ら変わりはない。 ここという水槽から出ても彼女の手のひらの体温で火傷を負い、いずれ弱り死ぬだろう。 なんて、そこまで言うと笑われて終わりかな。 「この形…人の姿として、彼女を愛せたなら」 ぎゅ、と手のひらを握る。 とても小さく呟いたそれが決して叶わないものであり、同時に望んではいけないことだというのはデリックの表情から窺える。 分かっているよ。 だからこうして見つめるだけに留めているんじゃないか。 俺がここに居続けるのは課せられた仕事であって、そして自分の我が儘だ。 「俺たちが感情を持って互いに意思疎通をすることも人間にとっては0と1の組み合わせで、見えるはずもない。だけれど俺は、幸せだよ」 「…報われねえなぁ」 もはや呆れたと見える笑い方をするデリックに対して、俺も笑う。 傍観者からすればこれほど不毛で滑稽なものもないのかもしれない。 そう思った時、目の前に小さなパネルが現れた。 仕事だ。 その中のあるキーを押せば頭上にウィンドウが開く。 こちらを振り向きたまたまそれに目を留めた彼女へ向けて、精一杯愛情を込めて笑いかけた。 俺の声ではない声が、あちら側へ響いた気がした。 『メッセージを 1件 預かっています』 20110826 そこに好きだよ、と打ち込めたらいいのに |