何もかもを忘れたくないと思っていた。
焼けるように熱い屋上のアスファルト。
安っぽいジュースの炭酸の味。
雨上がりのむせるような空気の湿気。
溶けていくアイスが落ちてできた小さな染み。
鮮やかに過ぎていく夏の日々。
季節の足跡。
それを残らず抱えて未来に持って行けたなら、私はそう思っていた。


「忘れていこうよ」


彼は歌うようにそう言った。
それが当たり前であると、大人が子供に打ち明けるように。
彼の居る方からざあ、と潮風が吹きつけてきて思わず目を眇める。
白い学校指定のワイシャツを纏ったその細い肩の向こうに見える海の水面は、終わりなく太陽にきらきらと光っている。


「じりじり焼けるアスファルトも、甘ったるいジュースも、肌についた雨粒も、あたりが出たアイスの棒も、何だって。俺たちはなくしていくんだよ」


まるで私の知らない数式や外国語をすらすら述べていくように。
彼は世の節理をいとも簡単に説いていく。
まだ子供でいたい私を、同じくまだ子供であるはずの彼が先へ先へと引っ張っていくようだ。
ここからまだ遠く見える海を身近に引き寄せて、その水面に優しく沈められていくような、感覚。
首筋に汗がつたい流れていくのを感じながら、私は服の裾をぎゅっと握りしめた。
そうした手のひらだって、じわり汗をかいていく。
同じ日差しを浴びているはずの彼は相変わらず涼しげで、何でもないように立っている。
それでも彼の黒髪の先からはぽたり、と水滴が落ちた。
どこか浮き世離れした彼も私と同じ人間であると、それで知る。


「人は小さい手のひらしか持っていないから、全部を持って行こうなんて無理な話だ。成長をするのも、大人になるのも。何かを手に入れるなら同等か、それ以上の何かを捨てなくちゃいけない。それくらいは、分かるだろう?」


頷くのが怖かった。
そう全てが優しいわけではない世界であることは、ずっと前から分かっているつもりだった。
私の理想が叶うようなものではないこと、くらいは。
それでも認めてしまうというのは彼の言うとおり、成長、ないし大人に近づくということだ。
誘われるままに頷いてしまえば、私は知らないうちに何かをなくしてしまう気がした。
なくしたことも忘れてしまうような不安さえある。
相手が彼であるならば、なくすというより奪われると形容する方が正しいようにも思えた。


「怖いのかな、君は。確かにこの瞬間にしがみついていたいと思うのは誰しも経験することだと思う。けれど君みたく単純に、利益すら考えず、そう思えてしまうのは若さゆえだね。きっと」


彼は大人の皮をかぶった子供だ。
続いていく言葉からふと思う。
彼の場合は、それが振りではなく必要と必然を持って身に備わったものだから、たとえ最初は偽りにかぶったものだとしても、今はもう彼と一体化して離れないだろうと感じた。
若さ、なんてその小さな唇に似合わない言葉を落とされても違和感がすぐにぼやけてしまうのはそのせいだ。
その唇が笑みを形作り、また私に問いかける。


「ねえほら、だから俺と一緒に忘れていこう?」


ひらりと白い手が私に向けて差し出される。
それは誘惑とするならあまりにも魅力的で、それに私が抗えるとも思わなかった。
そっと手のひらを重ねてみれば最初はゆったりと、次にぎゅう、と指が絡む感触があった。


「よし」


私の手を取るなり、にっと無邪気に笑った顔は今までで一番子供っぽく、どきりとした。
握った手のひらに目を落とし、彼、折原臨也は優しく言った。


「いずれ忘れるからって、諦めなくてもいいんだよ。今は今で、好きなだけ思い出を作ればいい」


その言葉が終わらぬうちにくるりと踵を返した彼の勢いに手を引かれる。
転びそうになりながらもついて行けば、振り返って彼が笑う。
彼の奥の海は変わらずきらきらと眩しいばかりの光を見せている。


「その手始めに、あの海へ行こうよ」


やはり彼は歌うようにそう言った。
手のひらは多分私がどう逃げても離れないくらい強く、彼に握られていて。
普段でさえ鮮やかな夏の匂いは、彼といたならばどうなってしまうのだろう。





20110707
大人みたいな理屈ばかり並べて、欲しかったのは子供みたいに簡単な
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