たとえば俺は息を止める。 少し離れた先で一番嫌いなあいつに寄り添う彼女を見る度に。 その肩に手を置いて身長差から空く距離を背伸びで詰めて、どこか楽しそうに彼女はひそひそ話をする。 これだけ距離があれば内容が聞こえるはずもないし、近くに居たとしても聞きたくなかった。 知りたがりの俺が唯一知りたくない二人の関係のこと。 彼女が何か、あいつに耳打ちした。 聞かされた相手は珍しいくらい顔を綻ばせ、小さく言葉を返す。 それにまた彼女が笑う。 そんな繰り返し。 たとえば、だ。 あの子が何かの偶然であいつではなく俺の隣に居て、ああしてくれていたら。 俺はどんなに胸が苦しく、また嬉しく思うんだろう。 彼女の潜めた声音が鼓膜に落ちてくる度、きっと死んでしまいそうになる。 幸福に溺れ死ぬ、のだ。 もしもの話をしたって詮無きこと。 それなのに、あんな風に笑いあう二人を目にすれば俺はいつだってその詮の無いことを考えた。 嫉妬のような羨ましいような、ぐちゃぐちゃしているようで心の底では嫌になるくらい落ち着き払っている。 自分を傍観する癖から気付いてしまった。 俺では駄目なんだ。 好きで好きで仕方ない彼女の一番の笑顔は常にあいつの、平和島静雄の隣にあったから。 食事の味がしない。 眠れない夜が来る。 呼吸が意味をなくす。 言葉なんて出てこない。 身体は言うことを聞かない。 俺という存在が揺さぶられる。 全部全部君のせいなんだと吐き出してもいいけれど、君はおそらく笑ってくれない。 だから、学生時代はただ無為に過ぎていった。 たまに目に入る二人の姿を視界の外に追いやりながら、それでも彼女を見ていたい気持ちはあって、たまに、泣いた。 「折原くん」 追憶に揺らめいていた思考を彼女の声でゆっくり引き戻した。 忘れはしなかった恋の記憶が浮かんできたのは、今まさに目の前に居る彼女が原因だと思う。 あの頃よりずっと女性らしく、髪も伸びて、笑い方も少しだけ大人びたような。 新宿に仕事で来たらしい彼女と会って、さらにはお茶の誘いまで承諾してしまって、未練たらたらじゃないかと自分で笑う。 ただ、彼女の手に光るそれを見つけてやっぱりと納得している反面、今すぐ池袋に行ってあいつと殺し合いをしたいような衝動もあった。 彼女の相手は変わっていないはずだ。 わざわざ確認をしなくても、分かりきっている。 「…ごめん、少し懐かしくてね」 「何か思い出してた?」 「うん、色々と」 高校生以来だからね、と彼女はカップを手にして言った。 俺が相も変わらずあいつと戦争紛いのことを続けていることを彼女は知っているのだろうか。 彼女なら悟っているかもしれないし、あいつは話さないかもしれない。 どっちにしろ二人の関係が思いやりと優しさで出来ていることに変わりはなくて、やるせない。 そして、どんな意味でも俺が彼女にとっていい存在になり得ないのも変わらないことだ。 今と高校時代と、一体いくつがどれだけ変わったというのだろう。 「折原くんは変わらないね」 不意に紡がれた彼女の台詞にどきりとした。 どこまでを見透かされて言われたものなのか、分からない。 俺の片思いは未だ変わっていないようだけれど、多分そのことではないだろう。 平静を装ったつもりでも動揺から口数が減るのは仕方のないことで、俺は言葉少なに話の続きを促した。 「…どこが変わらないかな」 「見かけは人当たりがいいんだけれど、雰囲気が少し尖っているところとか。だからすぐに折原くんだって分かったんだよ」 少し寂しそうに笑った彼女は俺が変わっていることを望んでいたんだろうか。 こんな悪人じゃなくて、あいつとさえ普通に付き合えるような。 そんなことは有り得ないし想像したくもないけれど、君さえ居ればと思わずにいられなかった。 自分の好きなように生きてきたから何も言い訳はしない。 それでも、あいつをあんな人並みに変えたのは紛れもなく彼女だった。 それなら俺だって、と考えてしまう。 欲しくてたまらないものは手にしていたいに決まっている、のに。 「失礼だったかな。ごめんなさい」 「ううん、いいよ。何となく分かっていたし、ね」 じっと彼女を見返していた俺の視線をどう受け取ったのか、取って付けたように言われてしまった。 俺からすれば、よく見られているなぁ、なんて嬉しささえ伴うものだったのに。 全然構わないという意を込めて笑った。 果たして上手く笑えているだろうか。 いつからか、ずっと胸がきりきりしている。 「それじゃあ、そろそろ仕事に行くかな。俺、用事あるんだ」 「ああ、うん。長いこと引き留めちゃったね」 俺から話を切り上げたことに違和感のないらしい彼女に、俺の本拠地が新宿だとは最後まで伝える気はなかった。 気にさせたくない、いや、こんな些細なことを悩んで気にしているのは俺くらいか。 自嘲として勝手に浮かぶ笑みを見てか、言葉に迷ったように彼女の口は開かない。 勝手に好きになって、それで告白して、なおかつ返事がほしい、なんて。 そんな図々しい真似はできないし、したくない。 そう思っていた。 しかしこの機会が名残惜しく、血迷った俺はぽつりと、言ってしまった。 「好きだよ、君が好きだ。女の子として、ずっと」 ざわざわと周りの喧騒がうるさかった。 そしてきっと、俺はこの時見た彼女の表情を忘れることはない。 告白したって決して笑いはしないと思っていたはずなのに、彼女が見せたのは笑顔だった。 悲しくて諦めを混ぜたような、それだけで答えが分かってしまった笑顔。 逃げなきゃ、と思った。 俺の知らない表情で紡がれた言葉は決定打となって、ずっと俺を苦しめ続けるだろう。 俺はこんな彼女を知らない。 彼女だってあいつによって変わっていったと、どうして予想できなかったんだろう。 折原くん、と彼女が俺を呼んだ。 ああ言わないでくれ。 彼女は笑っていた。 だけれど君は、そんな風に笑う女の子だったかな。 まだ何も聞いていないのに視界がじわり、滲んだ。 20110701 |