ストレス、不健康、睡眠不足。 そんな言葉がひとつひとつ浮かぶたびにぶるぶるっと首を振る。 そんなので思考にこびりついたそれは振り払えないし、身体に纏わりつく倦怠感だって振り落とせやしないのだけれど。 ヒールを鳴らしながら家までの階段を上がる。 疲れた、なあ。 ため息と共に伸ばしかけた鍵はしかし、突然開いたドアに遮られた。 思わず驚いて身を引いた私と、驚きはしたものの逆に身を乗り出してきた彼と。 先に口を開いたのは私だった。 「あ、れ…静雄」 「おう」 「来てたんだ」 「ああ、仕事が早く終わったからな。お前は仕事忙しかったみたいだけどよ」 煙草の箱とライターを手にしているのを見る限り、留守中に合鍵で上がって、一服しようと外へ行きかけたところに出くわしたらしい。 そのまま入れ違いで出て行くかと思いきや、私の鞄をひょいと取り上げた静雄はすたすた室内へ戻っていく。 慌てて後を追いかけるように扉を閉めた。 「煙草吸いに出たんじゃなかったの」 「あー、あとでいい。それより着替えてこいよ」 適当に鞄を置いて台所に引っ込んだ静雄は、がちゃがちゃと何かやっている。 おそらくお茶でも注いでくれているのだろうけれど、それより先に目に留まったのは中途半端に出された皿や調理器具だった。 また夕食作りに挑戦しては挫折したらしい。 うちに来るたび発揮される静雄のチャレンジ精神には拍手を送りたい。 その努力が報われたことはないのだけれど。 「ん」 「ありがとー」 なみなみと縁いっぱいまで注がれた麦茶を受け取る。 こくり、飲み干すと自然とため息が出た。 気が抜ける。 偶然だけど静雄が居てくれて良かったなぁ、なんて思った。 そんな私をじっと見て、静雄は何でもないように言った。 「仕事、どうなんだよ」 多分それは調子はどうだ、みたいな意味合いで紡がれたのだと思う。 けれど、途端に走馬灯みたく今日一日のあれこれが一気に思い出されて息が詰まった。 うちに帰ったら静雄が居て、彼がくつろいでいる様子に自分も気を緩ませていたというのに、まだ駄目なのだ。 私の疲労は取れていない。 黙り込んでしまっていたからか、静雄はほんの少し眉を寄せてこちらを見ていた。 「おい、名前」 「…何もないと言えば、何もないんだけどね」 ぐるぐる日常を繰り返して、たまにうんざりして、疲れが溜まってきたりして、そんなのは誰だって同じだとは思う。 でも、目の前の彼は違うんじゃないだろうか。 平凡にも普通にも捕らわれない、静雄ならば。 「どうした?何でも言ってみろよ」 わしゃわしゃと頭を撫でられて、次いで髪先を軽く弄びながら静雄は言う。 静雄の言葉は空気を溶かすみたいだ。 気負うのも緊張もいらない。 何のてらいもなく、ぽろりと本音をこぼしてしまう。 「こんなこと言うと、静雄は困るかもしれないんだけど」 「あ?」 「ちゃんと言いますって。…簡単なことでさ、世界がもっと単純で、ある程度は認めてくれたらいいのに、って。都合良く聞こえるけど、そうだったらな、と」 とても率直に言ってしまった。 ちらと静雄を見やると、何か考えているような顔をしていた。 少し気まずくて、わざと声を上げて付け加えてみる。 「あ、あと静雄にも会いたかったかな」 「そんくらいは俺自身に言えよ。飛んでくっつーのに」 格好良いことを言われた。 じゃなくて、未だに静雄は気難しい顔をしたままだ。 今度は静雄がちらと視線を上げて、私とばっちり目が合った。 「なら俺がやってやる」 「え、」 「褒めるのも慰めるのも、俺の役目でいいだろ」 「だ…駄目駄目そんなの」 「なんでだよ」 その声が僅かに苛立って、すぐに引っ込んだ。 おそらく私の顔を見たからだ。 自分で分かるくらい、きっとだらしなく緩んで、なおかつ赤いに違いない。 「静雄は私を甘やかし過ぎだよ。優しくされすぎて自分が駄目になる」 「お前が嬉しいんなら、駄目だろうが何だろうが俺はやる」 「だから、そういうのが…!静雄は…もう、」 だんだんと項垂れる私を落ち込んだと見たのか、距離を詰めてきた静雄にぎゅうと抱きしめられた。 少し煙草の香りが残る静雄の身体。 結局私は我慢できずに彼へと腕を回してしまうから、本当にいけない。 辛いからって毎回頼ったら、私は本当に駄目になってしまうよ。 静雄なしでは生きられなくなっちゃうよ。 「無理すんな」 「そこまで落ち込んでないです」 「心配しなくてもお前は俺の一番だからな」 「…それ慰めてるの?」 「…ああ」 「ふっ、ふふ」 「笑うな」 不機嫌そうな彼の表情が目に浮かぶ。 これだけ引っ付いていれば見えるはずもないけれど、彼だって私がこぼしている笑顔は分かってくれていると思う。 あーあ。 また、静雄には敵わなかったなぁ。 今まで何度こうやって不安を溶かされてきたんだろう。 まるで甘い海に突き落とされるような、感覚。 いつもこうして、私は優しさに溶かされている。 一家に一台 うそ、やっぱりこの人は私の腕の中に一人だけで十分です。 他の誰にも、あげられません。 20110615 |