随分と昔の話だ。
クルリとマイルがかなり小さかった頃だったから、自分が中学に上がったくらいのことだっただろうか。
当時の俺といえばそれはもう多忙で、学校帰りに保育園のお迎え、ついでに夕飯の買い出しをしてお転婆な双子を見張りながら帰宅の毎日。
我ながらよくやっていたものだと思う。
ある日、帰り道でのことだった。
買い物から帰る最中、マイルがぐずりだしたのだ。


「イザ兄、ドーナツたべたいよう」

「はあ?ドーナツ?」


マイルが小さな手で差す先に、黄色い看板が特徴的な某ドーナツ屋があった。
そのことで大人しかったクルリまで目を向けて、物欲しそうにしている。
面倒なことになったな、と思わずにはいられなかった。


「駄目に決まってるだろ。第一、お前らドーナツ食べてから夕飯入るのか?」

「でもたべたいのー!」

「金だって渡された分のお釣りしかないし。諦めろよ、帰るぞ」

「やーだー!」


マイルがべそをかき始め、クルリまで不安と期待を込めて俺を見上げてくる。
舌打ちしそうになるのを抑えて、財布の中身に頭を巡らせた。
仕方ない。
ここで立ち往生する訳にもいかないし、両手の重い袋を持ち直してマイルの側へ屈んだ。


「わかった。兄ちゃんが買ってやるから一つを二人で分けな」

「やだ、一つたべたい〜…」

「ああもう、泣くなって」


本格的に涙をぼろぼろこぼし始めたマイルともらい泣きしたクルリに挟まれて、頭を抱える。
くそ、周りの視線が痛い。
お節介な奴に絡まれたりする前にさっさと事を収めたいのに。
そもそも塞がっている両手じゃ買いにも行けないし、こいつら二人だけに任せるのも危なくて嫌だ。
無意識にしかめっ面になりつつあるのには気付かないふりをした。


「ねえ、そこの」


ほら来た。
確かに自分たちに向けて発せられた女の声に振り向いた。
いいから関わるなよお人好し、と目一杯の嫌悪感をこめた眼差しはしかし、相手には届かなかった。
視線が合う前に、眼前にずいと差し出された箱に思わず少しだけ身を引いた。
驚きと、僅かに混ざる困惑と。
だから、その箱の向こうでドーナツをかじりながら俺たちをじっと見ている女子高生に対して反応が遅れた。
もしかしなくとも件のドーナツ店の箱を再度突き出し、女は言った。


「まあ、食べたまえ。少年」


お前は誰だとか知らない奴からもらえるかとか、代金はどうするとかそんなの頼んでないだとか。
口にしかけた言葉は、形にならない。
俺をまっすぐ見下ろす女の目は同情でも親切でもなく、ただ普通にそこにあった。


「…おねえさん、ドーナツくれるのー?」

「!バカっ」

「うん、うん。いいよ、ちゃんと三人分入ってるからね」

「やったー!」


俺の制止も空しく、勝手に女から箱を受け取ってしまったクルリとマイルはきゃっきゃとはしゃいでいる。
強く睨みつけると相手は怯んだ様子もなく、俺の疑問に答えてきた。


「私は怪しい者ではないよ。ついでに言うなら、あれだってついさっき店で買ってきたものだ。不安ならレシートでも見せよう。別に礼も代金も求めない。余計なお世話だ、って言うかな?」

「……」


箱を二人で抱えたまま、俺を待ちかねるように見つめてくる妹たちに気付いた。
その蓋を開けて、適当に選んだ一つをかじった。
しばらく経ってみても身体の不調や異変はない。
今か今かと瞳を輝かせる双子に、俺は折れた。


「…いいよ、食べな」

「わーい!おねえさんありがとー!」

「どういたしまして」


二人の言葉には素直に笑いかけた女を再び見た。
立ち上がると、俺より少し背が高かった。
手や口の周りをべたべたさせながらドーナツを頬張るクルリとマイルには溜め息しか出ない。


「座るかい?」


隣を指し示してきた女に首を振る。
そうか、と気にした様子もなくそいつはまたドーナツをかじった。
今見てみると、こいつも幼児並みに食べるのが下手くそだ。
指先についたクリームをひっきりなしに舐めとっている。
警戒心を抱くのは馬鹿らしくなってきたが、不信感は増すばかりだ。
もう一度目をやると、二種類のドーナツをきっちり半分ずつ分け合ったらしいクルリとマイルは互いの口元を拭き合っていた。
手で拭ったって意味がないだろうとハンカチを渡してやる。


「お兄ちゃんだねえ」

「…あ?」


食べ終わるなり近くの公園で遊ぶと言い出したマイルとクルリをもうどうにでもなれという気分で見送っていたら、そんな風に言われた。
至極楽しそうに笑う相手に、生温い微笑ましさを抱かれていると思うとぞっとする。
一口だけかじったまま手に残っているドーナツをどうしようか、なんて思った。


「…あんた、何。言われた通り礼はしないよ」

「ああ、いらないいらない。だって私は、神様だからねえ」


は、と言いかけて力が抜けた手からドーナツが地面へべしゃりと落ちた。
クリームがアスファルトへ飛び散る。
ああもったいない、なんて心底残念そうに言う女から微妙に距離を取った。
何だこいつ、本格的に不審者か。


「ドーナツかじってる女子高生の神が居てたまるか、って?」


あっけらかんと笑った相手は未だにドーナツをもぐもぐと咀嚼している。
あ、れ。
さっきと食べている種類が違うのは気のせいか。
妙に古臭いセーラー服のスカートをひらり揺らし、女は手招きをした。


「最初に言ったじゃないか、怪しい者ではないと。君は随分と用心深い性格なんだね」

「理解できないよ、あんたの言ってること全部」

「…ふむ。確かに私みたいな特例はなかなか居ないけどね。人が作るこれがあまりに美味しくて、ついこの辺りに居着いてしまうのさ」


そう言って、最後の欠片を口に放り込んだ自称神はやはり行儀悪く口端のクリームを舐めとっていた。
その視線を追うと、少し離れた場所で遊ぶクルリとマイルが居た。
さっきまで泣いていたとは思えない、小さく感情豊かな生き物。
同じことを思ったのかどうか、あいつらに向けたものと変わらない笑みを俺にも向ける姿は少し、腹立たしかった。
ガキ扱いされている。


「可愛い妹たちだね」

「…まあね。手が掛かることの方が多いけど」

「それもまた楽し。大いに悩み、共に時を過ごすといい。人はそれが大事なことなのだから」

「分かった風に言わないでくれる。説教みたいで、年寄り臭いよ」

「あはは、悪いね。つい、君が可愛いものだから」


反論は、初対面と同じく喉の奥で消えた。
まただ。
同情でもなく、親切でもなく。
ただ俺を優しく見ている彼女の瞳。
先に視線を逸らしたのは、もちろん俺の方だった。


「年下だからって馬鹿にするな」

「まあ、年下とかいう次元でもないけれどね。君はまだ青くて、可愛いさ」

「…っるさいよ。クルリ!マイル!いい加減帰るぞ」


俺の声に僅かに不服そうに妹たちが駆けてくる。
すっかり下ろしてしまっていた買い物袋を持ち上げる。
そんな俺のことを変わらず眺めていた彼女は笑って手を振った。
両手で振り返すクルリとマイルを横目に、自宅に向かって歩き出す。
重いはずの荷物がやたら軽く感じて、いろんなことを話しながら帰路に着いたのを覚えている。
幼い時の記憶は、ここまでだ。


「やあ、そこの女子高生」


びっくりしたように顔を上げた彼女の前に、俺は今立っている。
あれきり親の都合で引っ越した土地を再び訪れたのは気まぐれだった。
いくら妙な記憶だったからといっても、いつだって彼女のことを覚えていた訳じゃない。
大人になって、しばらくして。
ようやく時間にも仕事にも余裕が持てた頃、ふと頭をかすめたからドーナツの箱を手に来てみたのだ。
記憶と寸分も違わない姿で、彼女はぽかんと口を開けていた。
なんて間抜け面の神なんだ。


「まあ、食べろよ。カミサマ」


あの時もらい受けたドーナツの何倍でも、今なら返してやれる。
とりあえず三つ、箱に収まっているドーナツは無事に彼女の手に渡った。
未だに驚いた顔で俺を見つめてくる彼女はゆっくりと口を開いた。
こちらは十年以上の年を経たっていうのに、そのセーラー服だって、記憶と何ら変わらない。


「…大きくなったね、君は」

「少年、なんてもう呼ばないでくれるかな」

「そうだなぁ、青年に格上げだね」


それをきっかけに、彼女は笑った。
ああ、何も変わらない。
その透明に澄んで嘘のつけなくなる瞳も、おかしな喋り方も、ドーナツをべたべたにしながら食べるところだって。
記憶を鮮明に揺さぶられるような感覚に、息をゆっくり吸って、吐いた。


「元気にしてた…なんて訊くのは変か。あんたは何一つ変わっちゃいないしね」

「お、あれだけ疑っていたけれど、ようやく信じてくれたかな」

「俺は生憎と、無神論者なんだ」

「おや。おやおや、まあ」


俺の持論に対して途端に首を傾げ、彼女はドーナツをかじるのを止めた。
その糖分はどこに吸収されるんだろうね。


「何の因果かな、そんな君と私が出会うなんてとっても珍しいことだよ」

「言っとくけど、あんたのせいも少なからずあるからね。完全に神のイメージを崩されたし」

「はは、ごめんねえ。髭のあるおじいさんや菩薩の方が説得力あるかな」

「うん。だからあんたはいつまでも俺の中で、妙な生き物かつ見た目通りの女の子だよ」


ぱちくりと目を瞬かせた彼女の手の箱から一つ、ドーナツを取り出した。
数は合わなくなってしまうけれど、また買えばいい。
一口かじったそれは予想以上に甘く、子供の食べ物だ、と実感した。
中学生や幼稚園児と味覚の変わらない彼女。
なんだかおかしくて、妙に人間臭い。
本当に、こんな神が居てたまるもんか。


「ねえ、あの時俺たちに声を掛けたのはどうして?何か理由があったんでしょ」

「…理由というほどのものはないなぁ。ただ単にいじらしく思って、お節介をしてしまったんだよ」

「あいつらが?」

「あの女の子たちもそうだけれど、妹相手にあくせくしていた君も、十分にね」


俺も妹たちも随分とひねくれて育ってしまったけれど、未だ彼女は青いと、可愛いと笑うだろうか。
そんなこと、させるつもりはないけれど。
すっかり越した身長で見下ろす先の彼女の口元を、昔妹にしたみたいにハンカチで拭ってやった。


20110606
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