彼女は水の中に棲んでいる。
一人分の水槽といったサイズのガラスケースに水を満たし、いつだってその中で膝を抱えていた。
その姿は学校の理科室で必ず見かける水槽標本のようだった。
目は閉じている。
ただじっと、こちらから構おうとしなければいつまでも眠っているような少女だった。
ひたり、ガラスに手のひらを触れれば硬質な感触を通して水の冷たさがじわりじわり染みてきた。
生を思わせない冷水の温度ばかりを感じていても味気なく、ガラスの開いている上部へと手を伸ばした。
とぷん。
指先が水圧に押し返され、ゆるり液体に沈む。
ただの水というには少しばかり違和感があって、彼女の住処である水は蜂蜜のようにとろりとしていて、また目を見張るほど鮮やかな青色をしていた。
指先で水中を探り、重力に縛られずふわりふわり泳ぐ髪を撫でた。
水槽の奥で、未だにじっとうずくまる彼女と対照的に自由に泳ぐ滑らかな髪先をつい、と弄んだ。
水の中で触れるそれはつるりと柔らかい。
摘み、また離せばゆらゆら水に揺れている。
しばらく遊んだあとに手を水中から引き上げた。
入れた時と同様、とぷんと音がした。
指先から床へ滴る雫にも構わずに、もう一度ガラスへ手を当てる。
水に入れたことで先ほどより冷えた体温は触れた部分の冷えきったガラスと同化してしまいそうだった。
目を閉じたままの彼女を見つめるために屈む。
ガラス越しの彼女の睫毛には小さい気泡がついていた。
きらきらしている。
目の前の彼女と自分を隔てる壁に身を寄せた。
ガラスに唇を押し当て、囁く。


「お は よ う」


ゆったりと息を含んだ声は内部まで届いたはずだ。
少し間が空いて、彼女の瞼が静かに持ち上がる。
まばたきする瞳と、色素の薄い唇からはこぽこぽと泡が生まれては水面に上っていった。
彼女は久しぶりに開けた視界に俺を認めて、その唇を薄く開いた。


「    」


ごぽごぽっとさらに増した気泡に音はおろか、口の動きを読むのさえ難しい。
それでも、既に彼女との会話に慣れきった俺には分かることだった。
眠りから覚めて一番のおはよう、と次いで呼ばれる自分の名前を。
確かに見て取れたい、ざ、や、の口の動きに微笑んだ。
水槽の中の彼女と距離を詰めるように、青い青いガラスを覗き込む。
揺らめく水の青に浸された彼女の肌は不思議な色合いに映った。
青白いと一言で済ますのもまた違う。
俺が置いた手へ重ねるように彼女が向こう側からガラスへ触れた。
視線が交わって、どちらからともなくガラス越しのキスを交わす。
これは、彼女が起きる時の合図だ。
そうして俺は彼女を水から引き上げて、今度は水ではなく空気を声で振るわせて、いつもと同じく彼女の愛を恋う。
彼女の白い爪先から滴り落ちるいくつもの水滴には、きっと甘い何かが溶けているんだろう。


20110515
青にまみれて泳ぎ遊ぶ彼、彼女
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