幼い頃、祖父が病になった。 まだ小さい私に分かるはずがないと思ってか、親類は隠すこともなく祖父の容態を話題にしていた。 実際分からなかったのだ。 祖父が癌の末期だと確かに聞いた私は末期という言葉を勝手に解釈してしまった。 末期とは終わりのことで、つまり祖父の病状は快方に向かいつつあるのだと。 そのことを一人で信じ切っていた私を知ることもなく、祖父は亡くなった。 どうして知らなかったのか、知ろうとしなかったのか、分かったような顔つきで話し合う大人たちの胸倉を掴んででも聞き出さなかったのか。 あの時に思い知ったのだ。 何かを知らないということは恐ろしいことであると。 無知は、罪だ。 「君の知識欲は異常だよ」 男の言葉はさして気にならなかった。 似たような台詞はあの日から飽きるほど浴びせられてきたのだ。 何でも知りたがり、知識に執着する様は誰から見ても不気味であるらしい。 別にどう思われようと構わない。 私は知らないで後悔をするのは二度と御免だ。 「仕事は終わったんだけど、まだ話続く?」 「君のためを思って言ってるんだよ。俺の貴重な仕事相手としてもさ」 ここまで相手を思いやらないのが丸分かりな「君のため」は初めて聞いた。 折原臨也という人間が特別な感情を持って誰かを気遣うなんてことは一生起こらない。 その事実も私の知識通りだ。 どうせ台詞が続くとしても、仕事を頼むような相手が勝手な行動をするのに自分まで巻き込まれては迷惑だとか、そんな程度だろう。 テーブルの上にある黒々としたコーヒーから湯気が立つ。 出されてから一切口を付けていなかった。 「私は知りたいことを知るために生きている。世の中に知らないことなんて尽きないだろうから、死ぬまでそうするだろうね」 「全部何もかも知ってたら面白くないと思わない?」 「お前みたく自身の愉悦に知識を使う訳じゃないんだよ、こっちは」 へらへら笑っていた顔が僅かに無表情へ戻りかけた。 私が本気で苛立っているのを察してのことだろう。 今の折原の表情が作り笑いであることくらい知っている。 取り繕われても不愉快だ。 噛み合わない知識との齟齬にいらいらする。 折原だって分かっているはずだ。 それでも笑うのは、相手を説き伏せる際の癖のようなものか。 「…君はね、色々と知りすぎているんだよ。俺は情報網の一部が君であることを誇りに思ってる。これは本当だ。正確無比な何でも知識屋なんて変わり者で貴重な人材、他に居ないしね」 「それが私の仕事で存在意義なんだ。お前は自分の欲しいだけの情報を買えばいいさ。街、カラーギャング、組、その他諸々…他にも私の知識欲から得たものは数あれど、お前には必要ないだろう?美味しい煮物の作り方や蝶の鱗粉の構造、宇宙理論とか十一次方程式、軍事情報に爆弾の作り方…こんなのは私が知りたくて知ったことだからね」 「だから、必要ないって言ってるんだよ。俺みたく有効活用できるだけの情報で上手く生きていけばいい。簡単なことじゃないか。危ない橋を渡る意味なんてない。不必要な知識まで得るための不便さや不利益は君にはいらないよ」 「知りたいと思ったことは知る。それが何であれ、ね。これは私の病気だとでも思ってくれよ、情報屋。なんだか今日はやけにつっかかるじゃないか。珍しく人間を憐れにでも感じたかい」 自分の荷物を纏めつつ言うと、向かい合って座っていた折原はただ黙ってこちらをじっと窺っているようだった。 気分の悪い表情だ。 先程の考えと矛盾するが、笑いもしない喋りもしない折原もひどく違和感がある。 「…それとも、私が知識を得るルートを自分のものにしたいのかな。奪えるようならこんな厄介な相手殺すのにって?」 「そんなこと言ってないだろ」 「疑り深いのは仕事柄さ。種類は違えど似たような仕事なんだ、気持ちは分かるだろう?」 「………」 「まあ、お前がどう思おうと勝手だが。ビジネスとプライベートを分けるくらいはするんでね、首は突っ込まないでもらおうか」 言葉を並べるほど、折原の口数が減っていく。 その何かを言いたそうな口からわざわざ言葉を引き出してやるのは仕事の範囲外だ。 今日の分の知識は売った。 それを情報と言い換えて、折原があれやこれやと画策するのも私の知ったことではない。実際は大体把握しているが。 卑怯だろうが姑息だろうが、買ったものの使い道は自由だ。 私は折原に干渉しないのだから、折原にも干渉してほしくはない。 きっと折原も私がこうなったきっかけくらいは調べているのだろう。 責めるような慰めのような視線が痛かった。 「コーヒー、ごちそうさま」 相変わらずそれは一滴も減っていなかったが、嫌みではなくきちんと礼のつもりで言った。 私が飲まないと知りながら、わざわざ時間を使い折原がコーヒーを二人分用意することくらい分かっている。 興味からか、彼が私の本質を知りたがるような素振りを見せることも。 彼の言う人間愛を受け入れてしまったら、それはそれで仕事がやりにくそうだ。 というより、恐らく仕事にならない。 仕事相手から観察対象に格下げは流石に癪に触る。 「それじゃあ、帰る。邪魔したね」 「…見送るよ」 冷めきった私のコーヒーを不味そうに飲み干した折原は玄関まで一緒にやって来た。 文字通り苦い顔の彼に毎度お馴染みの言葉を別れの代わりに告げた。 「あなたの欲しい知識は何でも、その日の時価で売りましょう。折原臨也さん、どうぞ今後もご贔屓に」 重ねて言うが、別にこれは嫌みではなく、本心だ。 20110306 情報屋と知識屋 |