「旅に出ます。捜さないでください」


目の前で向き合って座っていた臨也が微笑んで言った。
綺麗な、綺麗な表情で。
携帯を開いて、今日の日付を確認する。
確かに4月1日ではない。
私がそうしてパチンと携帯を閉じる間も、臨也は柔らかく笑ったまま黙っている。
そうか、と納得した。
こうして家に二人で居る時、下らない冗談はあっても臨也は私に嫌な嘘を吐いたことがない。


「いつ、旅に出るの?」

「今すぐにでも、と言いたいところなんだけどね。いろいろ用意があるから明日の朝早くかな」

「そう」


そう、としか言えなかった。
あぐらを崩した臨也が近付いて、俯きがちな私の頬に触れた。
いつの間にか力を込めていた手のひらもやんわりと解かれて、臨也の手と繋がれる。
覗き込んできた表情は、私が見る限りはいつもと変わらないように見えた。


「さびしい?」

「……、そうかも」

「俺、居なくなるよ」

「うん。わざわざ口に出して言わないで」


消え入りそうな声は降ってきたキスに飲み込まれた。
笑顔に少しだけ悲しみを溶かし込んで、臨也は私の両頬を支えて真正面から向き直る。
赤い瞳に映り込む景色は、そこに映った私は、今まで臨也にどんなものを与えてきたんだろう。
焼き付けるように忘れないように、時間がどこか遠くへ行ってしまうほど、私たちは長いこと見つめ合っていた。
愛おしい赤色が揺らめく。
ふと、臨也が思案するように言った。


「今日の晩御飯、どうしよう」

「何食べたい?お寿司食べに行く?」

「んー、家で鍋にしよう。具材たっぷりの二人鍋」


こつんと触れ合わせた額を離して、臨也が私を促すように立ち上がる。
一緒に家を出て、鍵をかけた。
手を繋いだまま外を歩く。
最後の晩餐、なんて言葉はきっと心に浮かんでいただろうけれど、お互い口にすることはなかった。
行きも帰りも、いつもと同じ道をいつもと同じように歩いた。
買い物袋は一個ずつ、見上げた先の臨也は遠足を楽しみに待つ子供みたく笑っている。
私は違和感なく笑えているだろうか。
まだ現実味がないから、きっと笑えている。


「ただいまー」

「誰も居ないけどね」

「もう癖だよ、癖」


二人で料理をして、二人で晩御飯を食べた。
洗い物を済ませて部屋を覗くと、私物の片付けをしている臨也が腰を下ろしていた。
項垂れているようにも見える白いうなじがやけに目に付いて、わざと音を立てて部屋に踏み込む。
私に気付いた臨也はちゃんと優しく迎えてくれる。


「片付けお疲れ様」

「臨也こそ」

「こうして見ると物ばかり多くて嫌になるね。しかも仕事関連ばかりだし」


書類や書籍、パソコンやその周辺機器を見つめて臨也は「大切なものはみんな形がないのに」と小さく呟いた。
再び私を見た臨也の瞳は揺れていた。
二人揃って床に座り込んで、向き合って他に何も目が入らないようにする。
お互いに大切な話はいつもこうしてきた。


「ねえ、名前」

「なに、臨也」

「俺は大切にできてた?」


何となく予想はついていたけれど、それは答えるにはあまりに難しい質問だった。
言葉が見つからない私に臨也が自嘲気味の笑みを浮かべる。
やっぱりと言いたげに。
首を振るよりも先に臨也に飛びついた。
完全に気を抜いていたらしい臨也は頭を床で強かに打ちつけて、痛そうに呻いていた。


「名前…」

「そうやって訊くのが一番失礼だよ。臨也は馬鹿だね」

「…そっか。ごめん」


臨也の問いに見合う言葉は見つかるはずがなかった。
生きてきて一番の幸せをしっかり実感していた私には、どうしても答えることができなかった。
申し訳なさそうに私を見る臨也に言葉を落とす。


「今日は隣で寝てもいい?」


答える代わりに臨也は両手を広げた。
おいで、の意図に私は気恥ずかしく、また胸が苦しくもあった。
この夜が過ぎれば終わり。
臨也の腕の中でその事実ばかりが頭を占める。
一緒に布団へ潜り込んだあと、少しでも気を紛らわせたくて臨也といっぱい話をした。
お互い、おかしいくらい目が冴えていた。
臨也から話してくれた。
ここを離れること、それが自分の意志で決めたものであること、けれど元々は止むを得ない事情があったこと。
一つ一つを噛み締めるように聞いて、布団の中で身震いする。
こんなに怖い夜は、初めてかもしれない。
私の様子を見た臨也が、腕を引き寄せて抱きしめてくれた。
溢れてきた涙が臨也の服に吸い込まれていった。


「まだ桜も咲いてないよ。見に行こうって話してたのに」

「…うん、ごめん」

「臨也が居なくなるの、嫌だよ…」

「本音を言うなら俺だって嫌だよ。でも多分、俺はきちんと見送られるべきではないって思ったから」


そんなことはない。
臨也はちゃんと私を愛してくれた。
なら、彼は他の人と何も違わない。
負い目とはまた違うのに、臨也の決心は私が踏み込めるようなものではなかった。


「黙って行こうとも思ったんだけど、やっぱり話しておきたかった。君には辛い思いをさせるけど、こうして一緒に居られる最後なんだから、これで俺は良かったかなあ。我儘なんだ。ごめん」

「そんなことない、話してくれてよかった」

「でも、ごめん」


泣き止まない私へ数え切れないほどのごめんを唱えて、同じくらいのありがとうを言った。
溶けて消えてしまえるんじゃないかと錯覚するくらい涙は流れていった。
いっそ彼と同化してしまいたいと願って臨也を隙間なく抱きしめる。
困ったように笑う声が耳の近くで聞こえた。
子供みたいなのは自分でも分かっている。
頭を撫でる手のひらと泣き疲れで、ほんの少し眠気が顔を出す。


「ずっと好きだから。忘れないから。俺が離れるのは君じゃなくて俺の為なんだ。傷付くのが嫌だから逃げるんだよ。でも、最後は絶対、君を思うから」


弱々しい臨也の声に、意識はぼやけていく。
待って。待って。
別れの時には何を言えばいいの。
見送るくらいは許されるでしょう。
あなたは悪くない。
一つも言葉に出来ずにいる私を変わらずぎゅうと抱きしめて、構わないという風に臨也が首を振った。
優しい手がわざと私の眠気を促していた。


「おやすみ」


意識がふつりと途絶えてから、朝はすぐにやって来た。
時刻は早朝だけれど、既に空っぽの隣にゆっくり息を吐き出した。
見慣れた黒い携帯も、仕事に使う全ても、臨也の私物はそのままの形で置いてあった。
一体何を持って行ったのかと疑いたくなるくらい当たり前の部屋のままで、悲しみが現実的に感じない。
寒がりな臨也がどこかを歩いていると思うと、捜し出してマフラーを巻きつけてやりたくなる。
そういう関係でいた。


「もう、居ないんだ」


触れるのも声を聞くのも叶わないと、その独り言は言っているようだった。
泣いてしまっても臨也は戻ってこない。
あの優しい手は私を慰めてはくれない。
ぽたり、ぽたりとシーツに染みができる。


「…臨也、いざや、」


なんて弱い声なんだろう。
今なら死んでしまえるんじゃないかな、なんて。
それほど臨也の存在が大きくて、それほど好きだった。
どこにも行かないでよ、と言えたらよかったのに。
私たちは不器用で、どうしても悲しい終わりを一緒に過ごすことができなかった。
猫が死んじゃう時に姿を消すって、本当なのね。


20110301
そしてひとり、病で逝く人
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