ずうっと昔に、静雄が泣いた姿を見た。 私が飼っていた小さなうさぎ、それが病気で死んでしまった時。 うちへ遊びに来てはよくうさぎと戯れていた兄弟はまだ幼くて、死の概念なんて分かっていなかったと思う。 それでも「この子はもう動かないんだよ」と幾度か言い聞かせて、先に変化があったのは幽の方だった。 無表情の上を音もなく涙が滑り、床にぽたりと落ちた。 その時分から感情の起伏が乏しかった幽の涙に、静雄はぎょっとしたようだった。 僅かに俯き表情一つ変えず、ただ涙をはらはらと流す幽を慰めている内に静雄の目はだんだんと潤んでいった。 お兄ちゃんだからと自分に言い聞かせて静雄は目尻いっぱいに涙を溜めていた。 私が何かをする前に、静雄のまばたきで涙の粒はころころと落ちていった。 自然に溢れ出た涙を流したままにする弟と、堪えながら小さく小さく泣く兄。 三人の中で一番年嵩の私は腕にうさぎを抱いたまま、ぼんやりと思ったのだ。 人の涙とはこんなに愛おしいものであるのか、と。 あれほど綺麗なものが人から生まれてくることに、幼い私は心を震わせたのだ。 「静雄はいつ泣くの?」 「お前、またその質問かよ。いい加減やめてくれ」 煙草をふかしながら静雄は苦い顔で笑った。 あれ以来、私は兄弟二人と少し変わった付き合い方をしてきた。 どんなに遊んでも楽しくても、年を重ねても、不意にあの出来事が甦っては私の胸が高鳴った。 私は幽も静雄も好きだった。 二人が悲しむのは嫌だし、ましてやこの年で泣くことがあったならば悲しみも相当のものになるだろう。 泣いてほしい訳じゃない、泣かせたい訳でもない。 けれども、あの涙を再び垣間見れるのならば、私のおかしな衝動は止むだろうと、ただそれだけのことだった。 「今、休憩だからな。そろそろしたら俺は行くから」 「うん」 静雄はいつからこんな大人のような話し方をするようになったのか、たまに考える。 高校の卒業式にだって彼は泣いたのだ。 一足早く卒業していた私は保護者席からその姿を見たけれど、静雄の頭を撫でてやりたい気持ちしか湧かなかった。 それは違うのだ。 あの時の衝動は何か条件があるらしく、静雄の欠伸から出た涙だとか幽の出演したドラマで見た涙とは決定的に違っていた。 ただ悲しいだけでは、きっと違う。 幽もそうだけれど、きらきらした静雄の涙が忘れられない私はたまにこうして静雄に付きまとい、今でも未練がましく涙を乞う。 静雄自身は当時を覚えているのかいないのか、私のことを心底不思議に思っているようだ。 もちろん、私は幽と静雄が好きだから一緒に居るという理由もちゃんと持っている。 「ほら静雄、幽だよ」 「…ああ」 池袋の大きなスクリーンに馴染み深い姿が映っていた。 私が向けた指先に従って視線を滑らせた静雄は、それをじっと見上げていた。 そういえば、幽が正式に事務所に採用された時も静雄は涙ぐんでいた。 彼のサングラス越しの瞳を見つめ、思う。 私は、あんなに幸福な涙を見たのはあれが最初で最後だった。 人は嬉しくたって涙が出る、その事実をひしひしと感じたのも静雄が居たからだ。 何が足りないのか。違うのか。 あの涙は幸せの欠片のようだったのに、私が求める涙とはどこかずれていた。 「静雄」 「ん」 「少し思ったんだけれど」 「なんだよ」 「私が死んだとしたら、きっと静雄は泣いてくれるよね」 うさぎ、小さな身体、死んでしまったあの子。 ふと思いついたのはそれだった。 今のは喩え話で別に死のうだなんて思ってはいないし、まだまだ私は人生を楽しむつもりだ。 だから今の言葉に深い意味合いはなかった。 ただの一つの可能性の提示だった。 肩を掴まれた瞬間、私は涙に取り憑かれるあまり静雄本人を蔑ろにしていたことを知る。 「…二度と言うな」 「…、静雄」 「冗談でも、軽はずみにそんなこと、二度と言うな」 ぺちん、と頬を叩かれた。 静雄はこんな力加減もできたのか、とおかしなところに驚いていると喉がひゅう、と鳴る音がした。 目の前には背の高い静雄が居て、彼がぐっと息を飲んで何かを堪えているのが分かった。 手を伸ばしサングラスを取ってやると、簡単に溢れ出す。 泣き顔が小さい頃と少しも変わらなかった。 「ごめん、静雄」 「…名前は、馬鹿だ」 「うん、うん。私が悪かったよ」 静雄があの時と全く同じ、美しいと形容しても差し支えない涙を流しているのに、私はそれを無感動に受け止めた。 あんなに焦がれて、待ち望んでいたのに。 静雄の涙はとても悲しかった。 今になって気付く。 誰かの死を愁い、生きてほしいと思う気持ちがきっと涙を綺麗に見せるのだ、と。 けれどそんな考えは後付けで構わなくて、私は静雄からすっかりもらい泣きをしてしまっていた。 悲しみに打ち震える心から涙が止まらない。 彼が悲しいと私も悲しい。 「静雄、ごめん、」 「…るせぇ。許さないからな」 私よりいくつか年下の、心優しい彼を思う。 顔つきも、声も、幼い頃とは随分と変わってしまっている。 それでも涙を拭いもせずに居る素直な静雄はとても、愛おしかった。 きっと泣いてなんていなくても。 彼は剥き出しの無防備な面を私にこうして見せてくれた。 その信頼はなんて幸せなことだろう。 「静雄、泣かないでよ」 「最初と言ってること、違ぇし…」 私の言葉に静雄が口元を緩めた。 泣き笑いの表情は少し悲しそうで少し嬉しそうだった。 そうしてまた、昔とは違う何かから心が震える。 そうだ、これからは彼が泣くような悲しみは、二度と起こりませんように。 やっぱり私は最初から最後まで、静雄を泣かせたい訳ではなかったらしい。 落ちた宝石は 彼女が受け止め 彼が掬い、 奥へ奥へと大切に 仕舞われるのだ 20101215 もう子供ではないのだから |