夏の雨はじっとりと重く、軒下の私をも濡らすように降っていた。名もなき里の寂れた茶屋の屋根の下、町はしんしんと静まり返り、雨の音だけが無性に叫び回っている。閉じた傘はしんみりと濡れそぼり、どこか誇らしげに立てかかっている。それでも濡れてしまう足元だけ、今はなんだか愛おしく感じた。

「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな」

ぼそりと呟いた恋の歌は雫につられ水溜りに溶けていく。その水溜りはゆらゆらと揺れると、ざばりと形を成した。

「相変わらず、しけた面して待つもんだ」

首から上だけをのぞかせて、彼は私をじっと見やる。「水月さん」愛しい名前をゆっくりと、思いを乗せて囁けば、彼は少し頬を赤らめて水溜りから姿を現した。その姿は生まれたばかりのそれだから、私はすかさず持ってきていた布を彼にかける。

初めはただの旅の男と宿の女。
しかし、一目見た瞬間私はあなたに恋に落ちた。それからは必死で必死で、僅かな宿泊の日にちだけでもと声をかけ、やっとの事で名前を聞いて、そして私を気に入ってくださったのか、時たま宿に遊びに来てくださるようになった。それがどれほど嬉しかったか、きっと誰にも伝えきれないだろう。

会えない日もたくさんあった。
長い間待ち惚けだった。
それでもこの想いだけは変わらなくて、ずっとずっと焦がれて来た。

久しぶりに会った彼はずいぶん大人になっていて、私に「簡単には会えない」と告げて消えていった。ただ、水溜りができるほどの雨の日だけ、茶屋の下で雨宿りをしていてほしいとそう付け足して。

会えない、その言葉を受けた私にできるのは、言われた通り待つだけだった。毎日毎日太陽を恨み、雨よ降れとそう願って…。

だから夏は好きなのだ。たくさん雨が降る。その雨に追いやられて人もいなくなる。実質的に二人きりになれるから。

「お待ちしておりました、水月さん」
「よく知ってるよ。というか、よく待てるよね」
「どれだけでも待てます。こうやって会えるなら」
「ボクには絶対無理」
「ええ、だから私が待つのです」

「なにそれ」少し不満げに唇を尖らせてそっぽを向く水月さんに不安が湧き上がる。彼は少々気分屋だから、それを阻害していないといいのだけれど。

「ボクが来なくなっても、君は何年と待ちそう」
「待ちますよ」
「バカだね」

誠心誠意を込めた私の言葉に、彼はケラケラと楽しそうに笑われた。その笑顔にそっと胸をなでおろす。よかった、私は水月さんの笑顔が見たかったのだ。

「雨、止みませんね」
「止んで欲しいんだ」
「まさか!」

彼の笑顔に照れくさくなり、そっと頬にかかる髪をかきあげながら呟くと、水月さんは遊び甲斐のあるおもちゃを見つけた時のように笑みを深くして、こちらを覗き込んでくる。慌てて否定すると「顔真っ赤」とさらに笑われた。

「か、からかわないでください…!」
「からかうもなにも、ボクは事実を言ってるだけ」
「変わりませんね、あなたは…」
「なにそれ、ボクがまだガキだって言いたいわけ?」
「そんなつもりは…!!」

がしゃん!

大きな音が一つ。飛び散る水滴に髪が濡れた。振動に耐えれず、立てかけた傘はかしゃん…と転がる。誇らしげな姿は無残にも消え失せ、濡れぬ地面の色を次々と変えていく。

しばしの静寂。真っ先に耳に入る雨の音。まるで私の心音を消すように強く強く。

目の前の彼の瞳が吸い込まれそうなほど綺麗で、圧巻。雨の色だ、と直感的にそう思った。

「これでも、まだガキだって言える?」

私の背中にある格子戸に両手をついて見下ろしてくる彼に言葉が出ない。
逃げ場はない。
逃げれない。
逃げたくない。

子供だなんて、思えるものか。
こんなに好きになった人を。

「いいえ…」

口から出せたのはそれだけで、強い衝撃に頭が追いつかない。布の隙間から逞しい身体がちらついて、熱くなって死んでしまいそうだ。

「いいえ、いいえ、決してそんな。私は一度もあなたを子供だと思ったことはありません」
「じゃあ、今は…?」

耳を濡らすその声に、破裂して死んでしまいそう。全部全部知られていると言うのに、今更こんなに苦しくなるなんて思ってもいなかった。

「ずるいじゃありませんか。あなたはだって、私の気持ちを知っている。なのにこんな仕打ち、あんまりです…っ」
「仕打ち?そう言うなら、離れようか?」
「え!」

思わず出た驚愕の言葉に水月さんは口角を上げた。この人に敵うことは一生ないのだと気付く。
本当に、ずるいお方。

「ねえ、ボクのこと、好き?」
「………言わせるのですか?」
「言って」
「もちろん…です」
「好きって、言って?」

はっきりと言葉にするには羞恥が強すぎて、口ごもると、彼が私から離れようとするから咄嗟に手を伸ばした。
行かないで、置いて行かないで、ひとりにしないで。私はあなたが…


「好き、です…っ!!」


最後に見えたのはニッと歯を見せて笑う彼で、次の瞬間には水の一滴も残っていなかった。
じとりと振り続けた雨はいつの間にか上がっており、ゆっくりと太陽が雲の切れ間から覗く。
つかの間の逢瀬は終わりを告げ、私は転がる傘を拾い上げると軒下を出た。

全て瞬きの間に消え失せ、ただ、少し濡れた毛先だけがあなたの残り香になりうるのだろう。

ゆるりと活気を取り戻す町中で、そっと空を見上げる。きっと明日は晴れるのだろうと、一人傘をさして頭を垂れた。



ー雨、降り続く恋情のようにー

by 杏菜