短編 | ナノ
紫陽花の花束を君に


六月。一刻前まで降っていた雨の香りが鼻の奥をツンと刺激する。日が落ちてから数分、里の中は薄ぼんやりとした暗がりに落ち着いていて、雨によって流された雑念を感じない肌触りのいい空気がゆっくりと肺を満たす。するすると減って行く彼の煙草を瞳の端っこに捉えながら、私は手にしていたグラスを傾ける。こんなに味のしないお酒なんて久しぶりだと、少し泣きそうになった。
私の家の近くにかかる橋の手すりに二人して肘を置いて、川を眺めるでも空を眺めるでもなく、チグハグに呼吸を繰り返すこの時間が痛いほど好き。こんな時間ももう最後かもしれないと思うと手放したくなくなるが、何もかもが今更で手遅れ。もっと大事にしておけばよかったなんて、間違えても口にできない。
ふと通り過ぎた風は隣の煙草の苦い匂いを連れてきて、胸の奥を叩いた。距離は50センチ。多分これ以上近づくことはないだろう。それがわかっているからこそ私はこの苦さが嫌いだった。
彼の煙草は湿気を含んでどこか元気がないように見える。いや、それは私か。こんなものに自己を投影するなんて、なんて情けないのだろう。自嘲の笑いすら出てこなくて、いっそ泣いてしまえば楽になるんだって、何度も言い聞かせたくせに自分が思っている以上に私は頑固で分からず屋らしい。彼を思って泣いた夜は一度たりともなかった。

「アスマ、煙草」
「ん、あ、あぁ」

今にも落ちそうになる燃えかすが見えて声をかけると、彼はトントンとそれを落とす。それでもほんのちょっとだけ残った灰色の残滓が愛おしくて苦しくなった。ああ、そんなに必死にしがみついて。捨てられたくないって、離れたくないって、そんな声が聞こえてくるみたいだ。馬鹿らしい。

里の中でちらほらと見える紫色は紫陽花だろうか。花言葉はなんだったっけ。昔はあんなにまじまじと見つめていたその花の形を今はもう曖昧にしか思い出せない。大人になるってこういうことなのだろうか。もしそうだとしたら、私は案外子供のままでよかったのかもしれない。こんなに未熟な思いを抱えて生きて行くなんて、私はそれに耐えれるほどできちゃいないのだから。

今日アスマを誘ったのは私だった。忍者学校時代の同期である私たちは、時々こうやって何の目的もなく二人で過ごす。決まってアスマは煙草を吸って、私はお酒を飲む。誘うのはどちらかというわけではなく、互いの気分と時間があった時だけ適当に約束して、適当に待ち合わせをして、どこかの店に入ることもなく、関係をうやむやにしながら、この橋の上でお互いの顔が認識できなくなるような時間まで。こういうのが楽しいのだと、昔の私にはわからないだろう。あの頃はなによりも、太陽に反射する水面を覗き込み、なんでもない魚を見つけては一喜一憂するのが楽しかった。今、川を覗き込んでも、黒く淀む負の感情のようでもう何も見えない。

気を紛らわすためにグラスを再度傾ける。しかし中身はもう一滴も舌の上に落ちてはきてくれなかった。こんなんじゃずっと逃れられないじゃないか。はぁとため息がこぼれたのにアスマはギョッと肩を揺らす。小さくごめんと謝ると、いや、話せよ、と返されて唇を一文字に結んでしまう。お前に言えないからお酒に甘えたんでしょうと言えたら楽だったのに。いつまでもぐるぐると、溜まった鬱屈とした悪意が胸の奥底をかき乱す。私は一人で生きて行けるほど立派にはなれない。

「アスマ」
「どうした。話す気になったか」
「……」

吸いきった煙草を携帯灰皿に押し付けると真摯なその視線に撃ち抜かれる。そういうところが嫌い、と呟いた声は彼に届いただろうか。届かなくていいのに。幸い彼はこういう時にあからさまに反応するほど子供じゃない。羨ましいほどに先を歩くその背中は、ずっと見ていたってふといなくなってしまいそうで心がざわついた。楔でもなんでも打ち込んでしまいたいなんて私らしくない。いなくなるのは私の方なのに。

「なんでもない」
「なんでもなくはないだろ?」
「んー…ただのマリッジブルー」

アスマは視線をそらさずにああ、と頷いた。いっそ視線をそらしてくれたら微かな希望に縋れたのに、どこまでも現実は残酷で、夢を見る暇さえくれやしない。

両親たっての願いでお見合いをして、そんなに悪い相手じゃかったから流れでお付き合いを初めて、何度かデートもして肉体関係だって持った。もちろん嫌だなんて思ったことはない。彼はこんな不誠実な私に対してとても優しく触れてくれる。それが私にとっては違和感そのものだった。

彼から煙草の匂いがしない。
彼はいつも綺麗に髭を剃ってしまう。
彼は目元を緩めるように笑う。
彼の手は繊細で細い。
彼は私を割れ物のように撫でる。
彼の声はいつも甘い香りがする。

全てが違う。その事実に向き合ってなお、いやだからこそ、彼のプロポーズに私は頷いた。
逃げてしまえばいいのだ。一人で逃げてしまえばそれほど楽なことはない。

「悪いやつなのか?」
「ううん。アスマと違って優しくて可愛い人だよ」

悪態とも取れる私の言葉にアスマはふっと小さく息を吹き出して目元をくしゃくしゃにして笑った。
アスマとは違う、それは自分に言い聞かせる言葉だ。だからこそ本人に何を言ってしまったんだと泣きたくなる。いつの間にかあたりを漂っていたあの苦みがどこかに消えてしまっている。私の心に根付くアスマも、強い風で攫って、消えてしまえばいいのに。ああ、嘘。やめて。

日は完全に落ちて、徐々に互いの顔が認識できなくなってきた。もうそろそろお別れの時間だ。

「お前、時間はいいのか?明日早いだろ」
「準備はもうできてるから」

そうか、静かに呟いてアスマは手すりから肘を動かした。カウントダウンは始まっている。きっともう止められない。私にも、アスマにも、彼にも。

今でも時々夢に見るのだ。もし私が意気地なしじゃなかったら今頃違っていたのかなって。橋で他愛のない話をして、ふわりと煙草を燻らせて、カラコロと氷の鳴るグラスを傾けて、同じ場所に帰っていたのかな。手なんて繋いじゃってさ、恥ずかしさもいつかどこか行くんだろう。そして翌日の話をして、約束なんてなくてもまた一緒にここにくる。
とか言ってみて、全然想像がつかなくていっそ笑えてきた。多分何度繰り返しても私とアスマがそういう関係になることはないのだろう。

じゃあな、そう片手を上げてアスマは暗闇に溶けていこうとする。彼は私を家まで送ったりしない。だって彼の中じゃ私は女ではないのだから。彼の背中をじっと見つめて、自分の中に居座る女な部分が忌まわしくなる。彼の姿が見えなくなるまで、私はずっと「振り向いて」と願っていた。振り向いて、振り向いて、振り向かないで。
どうせこんな気持ちも明日で終わりだ。いや、今で終わりかもしれない。なんでもいい、早く終わって欲しい。もう、叶わないものに胸が裂けるほどの痛みを抱きたくない。彼は一切足を止めずに消えて行く。少し足元に残る燃えかすを片足で踏みにじっては目尻が熱くなった。こんなもの、と足首を動かすたびに鼻の奥がすんっと音を立てた。

ぐいっと目元をぬぐい、真っ暗な空を見上げる。曇り空に月を浮かばない。まだ残る雨の香りも明日には無くなっていることだろう。明日は晴れると誰かが言っていた。雲ひとつない晴天だと、きっと天もお祝いしているのだろうと。あははと笑って返したあの時の私は、何を思っていたのか必死に手繰り寄せても糸の先はどこかでプツリと途切れていた。

橋から少し身を乗り出して、ずっとここで使っていたグラスから私は手を離した。呆気なく落下するグラスは水面につくとトプンと音を立てて闇に紛れていった。さよならと呟くと、むしろおかしくなってきて少し笑えた。

私は橋から肘を動かし、アスマとは逆の方向に歩き出した。しまった、明日来いよって釘をさすのを忘れていた。でもまあくるだろう。ヨレヨレのスーツをピッと伸ばして、呑気に私を祝福するのだ。私が好きになったのはそういう男だ。

六月。ジューンブライド。永遠を誓うその日。私は幸せから手を離す。それはまるでブーケのように、いつかまた誰かの手に渡ればそれでいい。
ふと思い出した紫陽花の花言葉に、私は鼻を鳴らして笑った。


六月。
私は二番目に好きな人と結婚する。

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