空高編


第1章 神子と家出



翼に初めて出会って以降、雷希は毎日翼の元へと通った。
剣の稽古は欠かさず行う。
お互いに木刀を使うので、当然一歩間違えれば怪我に発展する。
怪我をすると、翼は必ず包帯や絆創膏を貼って、手当をしてくれた。

「雷希は生傷が絶えないな。」
「どうせ、どん臭い奴って思ってるんだろ。」
「まさか。お前は動きが大きすぎるから、隙が多い。でも。」
「あいたっ」

傷口に触れた消毒液が染みて、小さく悲鳴が漏れる。
ごめんごめん、と翼が呟くと、雷希のぼさぼさな藍色の髪を優しく撫でた。

「お前のその真っすぐ向かって来る所、俺は好きだけどな。」

まぁ当然、それだけじゃダメなんだけどな、と彼は笑った。


第6晶 : 珈琲


稽古をつけてもらうようになって、1週間が経過した。
短い期間だが、それでも翼を見ていてわかったことがいくつかある。
翼は人前では一人称が「私」だが、二人きりだと「俺」になるのだ。
何故一人称を変えるのかと尋ねると、翼は笑いながら「こっちが素なんだよ。」と答えた。
神の子と呼ばれる人間は、表上ではそれなりの振る舞いをしないとなのだと。

「よし、今日の稽古は此処までだ。」

手に握っていた木刀は簡単に弾かれ、雷希の真横に突き刺さった。
眉間に木刀の先が突きつけられ、眉間がじん、と響くような奇妙な感触。
翼が笑顔を浮かべて木刀を下げると、疲労感が一気にこみ上げて、そのまま地面へとへたり込んだ。

「大分動けるようになったんじゃないのか?珈琲淹れてやるから、ちょっと待ってろ。」

翼はそう言って、部屋の奥へと入って行く。
翼は珈琲好きだ。
特に砂糖を入れるでもなく、そのままの味を楽しむ。
まだ10歳の雷希には珈琲の苦さがわかるはずもなく、いつも出されるのは牛乳と割った甘い珈琲牛乳。
翼が淹れてくれる珈琲牛乳は甘くて、すぐに好きになった。

「本当は料理とかも興味があるんだがな。」

珈琲と、雷希専用の珈琲牛乳を持って戻って来た翼は、並々とグラスに満たされた珈琲牛乳を雷希に手渡す。
それを受け取り、縁側へと腰かけると珈琲牛乳を一口飲んだ。

「何もやらせてもらえないんだ。だから俺は、珈琲を淹れたり、剣を振るうことしか出来ない。」

珈琲を淹れる所か、ろくに食器を洗ったりしたことすらないし、剣を振るうことでも、師である翼には到底劣る。
“しか出来ない”のではなく、“これは出来る”というものを持っている翼が、雷希は羨ましかった。
今思えば、翼はこの時から「自分で何かをする」ということに強い憧れを持っていて。
神の子として崇められるだけの日々に、既に嫌気がさしていたのかもしれない。

「師匠の作った珈琲牛乳、俺、好きだよ。珈琲なのに甘いし、牛乳なのに美味しい。だから師匠は凄いや。」

当時10歳だった雷希には、特に気の利いた台詞が思いつく訳もなく。
当たり障りのない言葉しか言えなかった。
それでもその時、雷希を撫でた時の表情は、今にも泣きそうで、それでも、とても嬉しそうで。
翼の心に、雷希の言葉は確実に届いていた。

「俺はな、雷希。いつかは此処から出たいと思ってるんだ。」
「どうして?」
「そうだな…どうしてだろう。きっと、“翼様”じゃなくて、“翼”って呼ばれたいんだろうな。」
「ふーん。師匠は師匠なのにね。」
「あぁ、そうだな。」

気がつけば空は日が沈んで炎のような燃える紅色へと変わっていた。

「今日はもう帰りなさい。また明日、相手してやるから。」
「えー。」
「もう夜も遅いだろ?夜になったらもっと帰るのが怖くなるぞ。」
「べ、別に怖くないし!」
「わかったから。な。また明日。」

雷希は頬を膨らませ、俯く。
それでも自分を納得させるかのように、残った珈琲牛乳を飲み干し、翼へとグラスを返した。

「わかった!また明日!ありがとーございました!」

雷希はがに股で、ぎこちなく身体の上半身を前に倒し、すぐに身体を上げる。
恐らく本人なりに、お辞儀をしてるつもりなのだろう。
そのまま慌ただしく走って行く幼い弟子の後ろ姿を眺め、翼は思わず微笑んだ。

この2年後、雷希は空然地から姿を消すことになる。

 


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