「新羅、居るか?居るよな?返事しろ、今すぐにだ」

あれから門田と別れた俺は、当初の目的地であった職員室ではなく保健室へと向かっていた。今は他人に会いたい気分ではない。仕事中、それも自分が成人を迎えた大人だということを理解していても自然と足は教師達が集う職員室からは離れてしまう。


保健室の戸には、可愛らしいイラスト付きのポップがかけられていた。そのポップの中央部分はホワイトボードになっており、普段は保健室へ来る子供達への歓迎の言葉が書いてある。しかし生徒が帰った今、そこに書かれていたのは『ようこそ!』等といった歓迎の言葉ではなく、寧ろ冷たささえ覚える事務的な連絡事項だけだった。

『書類整理の為、午後6時半までは保健室に居ます。急用の方はノックの後お入り下さい』

何が書類整理だ、何が。実際こういう時のこいつはすることもなく、コーヒーでも飲みながら読書に耽っているというのがオチだ。ノックというのも他人が入ってくる前に仕事をしている振りをするための合図。これで生徒中から信頼されているっていうんだからつくづく頭の良い奴だな、と思う。ちなみに褒めてない。

「新羅」

返答がない。戸を開こうとすれば内側から鍵を掛けているらしくガタガタと虚しい音が響く。
ガタガタガタガタ。長いこと戸を揺らすが開ける気配は全くない。

「あ、け、ろ」
「嫌。折角一人でゆっくりしてるんだから」

ほらみろ。職権乱用もいいところだ。これぐらいの鍵ならば力づくで開けようと思えば開けることも出来るが、わざわざそのために学校の物を壊すというのも憚られる。ここは穏便に話し合いで解決したいところだ。ふう、と溜め息。よし落ち着いた。

「いいから」
「そういう我が儘は良くないよ。大体君がこうやって現れる時は面倒事しか持ってこないしね」

お前も巻き込むぞ、と言い掛けて口を閉じる。こんな事を言えば「じゃあそれが解決するまで傍に来ないで」と言われかねない。こいつはそういう奴だ。

「話を聞いてほしい。別に、巻き込むとかそんなんじゃねぇし」

こういう時は素直に思っていることを伝えるのが一番だ。遠回しに伝えても面倒なだけだし、何より俺にそんな話術はない。

もしここで新羅が俺の頼みを拒否したとしても、悲しいとか憎いとかそんな感情は一切湧かないだろう。寧ろこいつが相手の場合断られる可能性は大いにある。それでも高校からの友人である新羅に話を聞いてもらいたいと思うのも事実だ。

「……どうしたのさ」

黙って俯いていると鍵を外す音が聞こえた。そして僅かな戸の隙間から覗く成人男性にしては幼さの残る瞳と視線が合う。その声色にはほんの少しの心配が混ざっていた。

隙間に手を入れ戸を大きく開いてやると、白衣を着た新羅が驚いたように目をパチクリとさせていた。鳩が豆鉄砲を喰らった、それを体現したような表情だ。どうしてそんな表情をするのかと首を捻ると、新羅は今だにきょとんとした表情で俺へと疑問を投げ掛ける。

「怒ってないの?」
「なんで」
「こういう時、いつも怒ってたから」

失礼な奴だな、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。今までの自分の行いを省みれば確かにそうだった気もしなくもない。だからといって、そんなに驚かなくてもとは思うのだが。

「コントロールくらい出来るっての。あれから時間も経ったんだ」

俺としては高校時代を振り返って言った言葉だったのだが、ぐんっと引っ張られるように再び意識が過去へと引き戻される。

助けを呼ぶ声、戸を開く音。目の前で広がる常識から離れた光景。聞こえるはずのない音たちが頭の中を反響する。あれから時間も経っている、それなのにどうしても忘れられないあの時の記憶。そういえばあの時も保健室で、そこまで考えた時目の前に居る新羅がこの世で最も汚らわしい男の顔になった。抑え切れない興奮を隠そうともせず、だらだらと涎を垂らすあの男。生理的不快感から吐き気を覚えていると、次の瞬間にそれは元の新羅の顔へと戻っていた。

吐き気を堪えようと口元を押さえる。すると何かを察知したのか新羅は俺の背中を優しく何度か摩った。それだけで嘘のように吐き気は収まり、新羅へと軽い礼を告げる。

「……静雄、もう忘れなよ。昔のことさ」
「…知ってるよ」

そんなこと、俺が一番知っている。嫌なことは忘れるべきだ。いつまでも覚えていて一体何になる。

「忘れるように、頑張る」

自信はないけれど、と弱気な気持ちを抱きつつも新羅へそう告げれば、一瞬だけ新羅の表情が泣きそうなほど歪んだように見えた。どうしてそんな顔をするんだ、と聞きたくなったと同時に目頭が熱くなる。

なんで、どうして。泣く要素なんて何処にもないのに。精神がこんなに不安定になるほど、俺はまだ過去に縛られているのか。だからといって、泣く訳にはいかないのだ。そんな暇があるなら、過去の出来事を自分の中で清算する方がどれだけ有意義か。

「…おいで静雄。ココアで良いでしょ?」
「いいのかよ」
「君から来ておいて何を今更。別にいいよ、友達じゃない」
「……甘える」

落ち込む俺を見兼ねたのか新羅は始めと比べて柔らかくなった口調でそう言い、はにかんだ。

「そうそう。落ち込んだ時は素直になるのが一番さ」

身につけた白衣を翻し奥へと消える新羅についていくようにして俺も奥へと足を進めた。勿論、戸の鍵はかけて。









「で、何があったの」

窓によしかかりブラックコーヒーを啜る新羅は、普段生徒に向けているのと同じ視線を俺に向けている。先ほど廊下で折原に向けられた敵意の篭ったものとは正反対の、慈愛に満ちた新羅のそれに思わず感心してしまう。流石保健医、本来保健医とはこうであるべきなのだ。
受け取ったココアを一口飲む。じんわりと広がる甘さに思わず口から溜め息が出た。

「…甘い」
「そりゃあ、君のために甘めに作ってるからね。まだ飲む?」
「ん」

とぽとぽとカップに注がれるココアを見ながら折原のことを思い出す。どうしてあいつはあんなに俺だけに。ぐるぐると俺と門田への態度の違いについて頭が回る。

考えられる答えは2つ。
1つは、他の奴らにも知られていないだけでああいう態度をとっているというもの。もう1つは、何か俺に思うことがあり、あんなひねくれた態度をとった、というものだ。

どうなんだろう。どちらなのだろう。ふむ、と顎に手を当て考え出す俺に新羅はふはっと笑った。

「なんだ、来たのに俺には話してくれないの?」
「いや…、そうじゃなくて」
「さーみしいなあ、俺信用出来ない?」
「…話す」
「うん、話してよ。一人で抱えこむよりは、楽になるよ」

それが本音なのかどうかは分からないが、とりあえずついさっき俺と折原にあったことを話す。その間、珍しく無表情の新羅が一度溜め息を漏らしたのを俺は見逃さなかった。話し終わり、空になったカップに自分でココアを注ぎ足す。たっぷり20秒ほどかけて入れたそれに漂う湯気が静かな室内に霧散した。

「つまり、君は折原君が君の昔話を知っているかも、と危惧してるということだね?」
「知っているかも、ならいいんだけどな」

あの口ぶりはかもしれない、なんて曖昧な表現じゃない。知っているんだ。でも何故折原が知っているのかという疑問が残る。誰かが教えなければ分かることのない事実を誰かが教えたのだ。でも一体誰が。

「俺じゃないよ」

くすり、と新羅の口元が弧を描く。

「確かに折原君は保健室をよく訪れるけどね。でも俺は何もあの子に教えていない」
「知ってるよ」
「本当?疑ってるんじゃないの?僕のこと」
「なんでお前のことを疑うんだよ」
「真っ先に俺のところに来たんでしょ?こういう時の人間の心理って、疑いをもつ人間のところに行くものだよ」
「…知らねぇし、疑ってねぇ。そもそも、俺は怪しいと思ったら力づくで聞くよ。それにとっくにキレてる」

何を言うかと思えば。折原も何を考えているのか分からない奴だったが、こいつに至っては素でこんなことを言うから折原よりもずっとタチが悪い。

「それは良かった。一応確認だよ、確認。もし疑われていたら俺だって嫌だしね」

くすくす笑う新羅を見るが、そこには微塵も疑われたら悲しいなどといった感情は見えなかった。まあ、それでもいいか。こいつは元からこういう奴なのだから。


こんこん、と控え目にドアを叩く音が聞こえた。今まで飲んでいたココアのカップをドアから死角になる位置にずらす。保健室でココアを飲んで談笑していることがバレた日には、職務怠慢を疑われても何も文句が言えなくなる。実際は、談笑だなんて可愛らしいものではないのだが。

新羅を見ると、何処から取り出したのか生徒の顔写真が貼られた書類を机上に広げ、あたかも仕事をしている振りをしていた。こういう時だけ動きの早い新羅を半目で見ながら、俺も自分のクラスの生徒の写真がついているプリントを手にとる。傍から見れば、生徒について相談を交わす教師と保健医に見えるだろう。

「はーい、誰でしょうか。今鍵を開けますね」

愛想よく、声高にそう言ったかと思えば焦る様子もなく戸へと近付く。躊躇なく鍵を開け、ガラガラと戸を開けると戸の向こうには門田が気まずげに頭を掻いて立っていた。


ぱちぱち


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