「静雄先生さよーならー」
「おー、寄り道すんなよー」

きゃあきゃあと無邪気な笑みを浮かべながら、廊下を走る子供達の小さな背中を見守る。放課後を迎えた校舎内は嫌なくらいに静まりかえり、日中とは違った雰囲気を醸し出していた。最後の生徒を送り出し廊下を歩くと、こつこつというスニーカー独特の音が廊下に反響する。騒がしい学校も良いが、静かな学校もなかなか良いものだ。

職員室まで戻るがてら、他のクラスの教室を見渡し残っている生徒がいないか確認をする。自分が受け持っている5年2組の教室を通り過ぎ、6年生の教室が羅列する、通称6年校舎へと足を踏み入れる。自分一人だけの足音しか聞こえない空間に、子供の頃ならば恐怖を抱いていたかもしれないが、大人となった今となれば新たな学校の一面を見れたような気がして妙な高揚感さえ覚えた。

「…先生、か」

普段から子供達に言われる自分の呼称。教師と生徒という立場上、当たり前のものだが改めて口に出すと頬の筋肉が緩んだ。

平和だ。自分が居る環境は平和で静かで、自分が望んだ生活そのものだった。間違いなく、自分は今幸せだと言える。教師になれて、この学校に来れて俺は本当に良かったと思う。


6年の教室の前を通るとある教室に一つ小さな影があった。夕日によって橙に彩られた室内に存在するそれは、空間に溶け込むように激しい動きを見せること無く眼下へと視線を落としていた。

ぱらり、と小さく紙をめくる音が聞こえる。静かに本を読む姿は子供なのにも関わらず、近寄りがたい印象を与えていた。

「……折原…?」
「…え」

声を掛ければ、そいつは落としていた視線を俺へと向けた。夕日のせいか赤く見える瞳は、少しだけ見開かれている。

折原臨也。
生徒会役員に自ら立候補したということで、今時珍しい真面目な子供だと職員の中で噂になっていたはずだ。それが例え副会長という二番手なものだとしても、正直職員達はこの子供に会長以上の期待を持っているといってもいい。礼儀正しく、真面目で優秀な子供は職員達にとって手のかからない貴重な存在なのだろう。大切にされて当然だ。

しかし俺自身はそんな子供に積極的に関わろうという気にはなれなかった。廊下で度々すれ違う程度、ただそれだけ。


下校時間を過ぎたらすみやかに帰る、なんてどこの学校にでもある決まり事を目の前の子供に言おうと教室内に足を踏み入れる。それとほぼ同時に、折原はガタと無機質な音をたてながら立ち上がった。目線は既に俺から離れている。

「もうか」
「もう帰るよ」

一瞬の間を置いて、

「君と同じ空間にいるくらいなら、帰りたくなくても帰る」

ぷちり、と何かが千切れる音がした。元来キレやすい性格なのに、こんなことを一回りも年下の子供に言われてしまえば、細い理性は簡単に切れる。気怠さをはらんだ表情でカバンに机の中の教科書を仕舞う折原の前へと移動する。バンと机上に手をつけば、折原の目線が再び俺へと向けられた。その瞳に怯えの色が浮かんでいないことに少し違和感を覚えながら、ぎこちない笑みを顔に貼り付ける。

「折原、臨也…君だったよな?なんか岸谷先生や門田先生に聞いた印象とは結構違うみたいだけど、俺なんか知らない内にお前を怒らせることしたか?」
「あー…。俺、外面だけは良いんだよね、むしろこっちが素?」

そう言って、にこりと笑う折原の笑顔は凄く純粋そうでつい数分前に見た子供達の笑みと大差ないほどだった。

確かに外面だけは良いらしい。

「あっそう。まあいいや、下校時間だろ。さっさと帰れ」
「帰るって言ったでしょ。少しくらい待ってよ、今ちょっと人を…」

そんな折原の言葉とほぼ同時に廊下に今まで聞こえなかった足音が響いた。
その音が耳に届くやいなや、折原の顔には周囲の子供達よりも明るく無邪気な笑顔が咲き、俺を置き去りにして廊下へと駆け出した。突然の行動に逃げられたのか、と危惧して折原の後を追い教室から一歩出たが、そこには最初から逃げる気などないと言わんばかりに廊下の真ん中に佇む折原の姿があった。

廊下の向こう側を見て大きく手を振る折原に倣い、俺も廊下の向こうを見ると見慣れた人物が歩いていた。そいつが誰かを認識するのと同じくらいに、折原がそいつ目掛けて再び走り出す。

「ドッタチーン!遅いよ、俺待ってたのに!!」

そんなことを叫びながら、歩いていたそいつに小さい身体でタックルをしかける。ドタチンと呼ばれたそいつは折原の突撃に困ったような笑みを見せ、頭を撫でた。

「悪い、悪い。ホームルームが終わってから、ちょっと用があってな」
「えー、俺とその用とどっちが大事だったの?」
「お前の方が大切だから、こうして急いだんだろ?」
「うん、ごめんね。ただ困らせたかっただけ」

年の離れた兄弟のような二人のやり取りを呆然と見る。
人間誰しも二面性があるとは知っていたが、こんな幼い内から性格に裏表があるというのはよろしくない。何より、その裏を見せる相手が俺だということが面白くない。

自分でも分かるくらい不機嫌な顔をしていると、折原の相手をしているドタチンこと門田と目が合った。

「臨也、平和島先生に見られてるぞ?」

いたずらめいた口調で門田がそう言えば、折原は一度後ろを振り返った。その表情は門田と話していた声色のような柔らかく、子供らしいものではなく、心の底から嫌悪感を抱いているようなもので。

「知らなーい。ねぇ、ドタチン。あの人誰なの?事務員さん?」
「は!?お前ふざけて」
「あー…、静雄落ち着け。臨也も大人をからかうなっていつも言ってるだろ?」
「はーい」

門田の制止により、無意識に握り締めた拳から力を抜いていく。授業中に煩い子供の相手をしている時ですら、こんなに苛々することは無かったのに。何故こいつ相手だと怒りの感情が爆発しそうになるのか。

これで同い年、ましてや同じ職場じゃなくて良かった、なんてことをぼんやり思う。もし、そうだったら一年中苛々しっぱなしだ。
そりが合わない相手とは距離を取った方がいい。例えそれが子供だとしても。自分の中で存在を消し、ひいきにならない程度に接してやればいい。

「……帰り、あんま遅くなるなよ」

折原とは、今まで全く接点は無かったんだ。これから先も、もう無いだろう。どうして初対面の俺にこんなに敵意を剥き出しにしてきたのか、気にならないといえば嘘になるが、気にしないことにする。自ら不快な感情に足を踏み入れるなんて馬鹿な真似はしない。

二人に背を向けて、元来の目的地であった職員室へと再び足を進める。窓から見える空は橙から紫のグラデーションを作り、夜が近いことを知らせていた。カラスの鳴き声が聞こえ始める。カアカアとうるさいそれを聞きながら、無意識に記憶が過去へと引き戻された。

何かを思い出しそうになり、目を閉じる。


「ねえ」

嫌に澄んだ声だった。
声変わりを迎えていない幼さの残る声だが、やけに低くも聞こえる。振り返ると折原は笑っていた。いや、嘲笑っていた。

真っ直ぐ俺のことを見ているその笑みは、かつてどこかで見たことがある気がした。遠い記憶の中にその笑顔が。

「どうしてあんな時期にこの学校に来たの?」
「あんなって、」
「どうして?」

折原の言葉が頭の中で何度も反芻される。どうして、どうして。
どうして突然そんなことを言い出すのか。

「普通、夏になんて先生って来ないものだよね?春先になら見るけどさ」

頭の中で何かが音をたてた。ガラガラと、パラパラと。これ以上この場に居てはいけないと、第六感が告げるが足がすくんでしまう。
何を話そうとしているのか、聞いてはいけない。しかし、そんな俺の心の内を見透かしたかのように有無を言わせない笑顔を作る。

「…喧嘩、強いのってどう?先生が喧嘩しちゃ駄目だと思うんだけど」

どうして、なんて俺が聞きたい。何も話した覚えはない。なのに、何故こいつはあのことを知っている?

カラスの鳴き声、橙の校舎。子供の泣き声、人を殴った感覚。過去の光景が断片的にフラッシュバックする。
自然に呼吸が荒くなった。視界も何故かぐにゃり、と歪みだす。折原の後ろに居るはずの門田の姿が目の前から消え、歪んだ視界の中には折原の嘲笑が浮かんでいた。

「臨也だからお前…」
「あはっ、ごめんね!もう帰る、本ありがと」
「おいっ、たく…」

バタバタと、まるで鬼から逃げる子供さながら折原は俺の前から姿を消した。橙色に染まった廊下の向こう側に消えていく小さな背中を睨む。





カラスの鳴き声は煩さを増し、嫌に耳に残る。

「静雄、大丈夫か?」

相手は子供だと分かってはいるけれど。

「ああ、大丈夫だ」

俺は再び、握り締めた拳を開くことが出来なかった。





ぱちぱち


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