階段を上る足がやけに重い。

最後の一段を上り終えたと同時に、汗が首を伝い落ちる。上の階に行くにつれ増す異常な室温。最上階であるこの階の空気は、サウナの中にいるような錯覚を覚えるほど暑い。それに加え最早当たり前のように漂う血の臭いのせいで、くらくらと目眩がした。

窓を開けてみても、校舎中がこれではほんの気休め程度にしかならない。教室に入ってしまえばどうってことないのだけれど、移動するにはどうしても廊下を通る必要がある。廊下だけどうしてこんなにも暑いものか。


「…喉、渇いたな……」

これだけ暑ければ少しでも何か飲まないと、かいた汗のせいで脱水症状を起こして倒れてしまいそうだ。それにも関わらず、俺はその貴重な水を一口も飲むことなく、カバンの中に入れたまま体育館へ置いてきた。今なら少しだけ、臨也が常日頃俺に言っていた「単細胞」という言葉の意味が分かるかもしれない。

どうであれ、後悔してももう遅い。今更のこのこと体育館に戻るなんて絶対に嫌だし、誰かが既に持ち去っている可能性も十分ありえる。あの水は諦めた方がいいだろう。

他に水の入手法はと考えても、それがなかなか難しい。水を飲もうと蛇口を捻っても、どこの水道も水の出る気配は無かった。それどころかバキリと音をたてて蛇口が壊れたので、そこからの水の確保はとっくに諦めている。

一つだけ、水を手に入れる方法があるにはある。しかもほぼ確実に。

今にでも実行出来るけれど、それは生きるか死ぬか、本当に水が必要になる時まで我慢しよう。甘いことを言っていられない状況なのは嫌というほど分かっている。そう、だから例え『死んでいった奴らから水を盗んだ』ところで誰も俺を責めないだろうし、むしろ皆が皆「仕方ない」と俺を許すだろう。でもまだ、理性がある内は、してはいけないことはしたくはない。多分これが、甘いっていうんだろうけれど。


ああ、門田だったらこんな時になんて言うんだろうな。あいつ優しいから、自分の分を俺に分けるくらいのこと普通にしそうだ。自分だって辛いのに。門田、門田。


「……つら、…くねぇ。大丈夫だ。大丈夫、大丈夫…」

情けない自己暗示に答える声も、今はもうない。






結局最後の教室にも臨也と新羅の姿はなかった。

この校舎にいないなんてことはありえない。生きていようと(あまり考えたくはないが)死んでいようとこの校舎に二人がいることは事実だ。すれ違ったか、隠れているか、もしくは意図的に隠されているか。最後の可能性は視野に入れずに考えよう。どう考えても幸せな結論は得られそうにない。

早く見付けなければいけないのにという焦りが徐々に俺の心を追い詰める。奈倉にあいつらが見付かってみろ。門田すら殺した奴だ。臨也と新羅なんて殺されてもなんらおかしくない。動機的にも力的にもだ。

門田が死んだ時のことを思い出すと、目の前が霞み出した。時間が経ち大分感情は落ち着いてきたものの、それでも涙は出る。

「弱いな、本当…」

未だ心の何処かで、門田の死は仕方なかったと思う自分と、俺ならば守れたかもしれないと思う自分とがいて、ぐさぐさと俺の心を痛め付けた。門田が死ぬくらいなら、俺が奈倉を。そうだ。門田に近付く奴を片っ端から殺していれば、門田を守れたかもしれない。

誰かを守るには犠牲が付き物なんだ。友人を守るには他人を犠牲にしなければいけない。そのことに早く気付いていればこんなことにはならなかった。俺が奈倉を殺していれば、こんなことにはならなかったのに。あいつさえいなければこんなことにはならなかった?いや、その前にあの場所にいなければこんなことには。あの時奈倉を呼び寄せなければ。でも呼び寄せたのは門田だ。じゃあ自業自得?そんなわけがない。だったらやっぱり奈倉が、俺が。


違う。駄目だ、呑まれるな。何も考えるな。混乱している思考回路じゃ何かを考えたところで同じような結論しか導かない。今は何も考えないで二人を探すことだけに集中しよう。

やっぱり、一人は辛い。不安で押し潰されそうになるし、必死に状況を改善させようとしたところで思い浮かべるのは逃避だけだ。今は一人で不安に駆られている場合じゃない。この階に臨也たちがいないのならば、もうここに用はない。また一階から順番に教室を見て回ろうか。足を動かせ、何も考えるな。俺にあるのは常人離れした体と体力だけだ。今がそれを使う時。





それにしても、これだけ歩いているのに生きた人間と全くすれ違わない。そのくせ、何かを殴った音や悲鳴だとかはしっかりと聞こえてきて妙な気分になる。生きている奴は一体何人いるんだろう。その中に、臨也と新羅はいるのだろうか。

何か音が聞こえる度、無意識に耳を澄ませる自分がいる。その度銃声や臨也たちの声が聞こえないことに安堵するも、それと同時にもしかしたら声をあげられない状況にいるのではという考えが頭をよぎる。

いい加減自分のネガティブさに呆れ果てる。元々精神面が強いわけじゃないけれど、今の自分は驚くほど負の考えしか浮かんでこない。冷静になって物事を考えようにも、今度は暑さがそれを許さないとばかりに容赦なく頭の回転を鈍らせる。

『何も知らないくせに』

何処からともなく奈倉の声が聞こえた気がして頭を振る。被害妄想に幻聴なんて、ちょっと笑えない。少し休んだ方がいいかと思いつつ、足を休めることはしなかった。本当に休ませるべきなのはボロボロになった心の方だ。このままではいずれ使い物にならなくなると知っていながらも、俺はどうすることも出来ずにいた。心の休め方なんて俺には分からない。


異常な精神状態とこの暑さ。普段まともな人間ですら上手く物を考えることが難しいこの状況では、おかしくなってしまった奴らも少なからずいるだろう。俺や門田みたいに自分を保っていられる方が珍しいのかもしれない。そんな俺たちですら、心の中には悲しみと不安とほんの僅かな希望しかなかった。一歩間違えれば狂っていたという可能性が、正直なかったとは言いきれない。

もしかしたら奈倉もこの極限の状況の中、自分の本来の意志とは無関係に門田を殺してしまったのか。

もしそうだとして、奈倉を許すかと聞かれれば答えはいいえだ。門田の罪は許したのに、門田を殺した奈倉の罪は許さない。都合が良すぎるなんて自分でも分かっている。そう思っているはずなのに、奈倉が憎いにも関わらず心の何処かで奈倉でさえも許そうとしている自分がいて、つくづく自分の甘さが嫌になった。

「何も、知らない…か」

何も知らない。門田の涙の意味も、奈倉が門田に怒鳴った理由も、臨也と新羅が今何処にいるのかも、何一つ分からない。分からないから、こうやって知ろうとしているんだ。分からないなりに、無様にもがいているんじゃないか。





一階は暑さも大分和らいでいて、最上階と比べるとかなり快適だ。それは勿論室温だけの問題で、階段に転がる死体を何体も見てきた俺にとって、快適故の清々しさは全くない。

階段脇に備えつけられていた無駄に大きい全身鏡で、何気なく自分の姿を見る。頭から爪先までバケツたっぷりの血を浴びたかのような染まり具合。俺の姿を見た奴に与える印象は最悪だろうな、と思いながらせめてと頬にこびりついた乾ききった血を擦る。取れるわけがないんだけれど。

汗を掻いたせいもあり、血と汗の混合液でワイシャツは元の色を失い全体が赤く染まっている。これでは臨也と新羅に会ったとして、嫌な誤解を受けても仕方ないだろう。なるべくならそんな事態は避けたいのだが。


人を探すということは、こんなにも大変なことだっただろうか。足と手を止めることなく、一つ一つ教室の中を点検していくも結局一階に二人の姿はなかった。

いないならば次の階だ。休んでる暇はない。





2階。特別教室が多くあるこのフロアは、玄関やホールといった比較的広い空間が多い1階とは違い、探すのに結構な時間がかかる。やはりこの校舎内にはいないのかという不安に再び呑まれようとした時、かたりと小さな音が聞こえた。気をつけていなければ聞き逃していたであろうその音は、足音ではなく机に何かをぶつけたような、そんな音だ。

誰か近くにいるのだろうか。それっきり音は聞こえなくなったが、今のは手掛かりになる。誰かいて、まともに話せるような奴だったら、もしかしたら臨也と新羅について何か聞けるかもしれないし、その誰かが臨也と新羅ならば1番ベストだ。

とりあえずと一番近い教室に入ってみる。プレートには化学教室と記されていて、名前の通り実験器具なんかが薄暗い教室の至る所に置いてあった。綺麗に整理された試験管や、棚に収納されたビーカやフラスコ。この教室には妙な不気味ささえ感じる。

比較的広めな室内を一通り回ったが、この教室に人の気配はなさそうだ。早く出ようと戸に手をかけたところで、また小さく何かがぶつかった音が聞こえた。2回目ともなれば大体の場所は特定出来る。

化学教室の隣、暗い室内はカーテンが閉め切られているようで、戸についているガラスから中の様子は見えにくい。耳を澄ませると、小さく鼻をすする音が聞こえた。間違いない、ここに誰かがいる。なんの教室だろうと何気なくプレートに目をやる。


「生物…教室……」


プレートの文字をそう声に出して呟いたと同時に、中で何かが大きく動いた気がした。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -