門田の拳が再び振り上がる。目の前に広がる異常ともいえる光景を、恐怖の表情で見上げる奈倉。身体は小刻みに震え、歯がカチカチと小さく音をたてている。

それもそうだ。何の前触れもなく今の今まで普通に話していた相手にいきなり殴られるなんて、誰だって驚くだろう。現に、俺だって驚いている。どうして突然門田が奈倉を殴ったのか、理由が微塵も思い付かない。

しかし今の俺には深く考えている暇もなく、すぐに我に返り門田の腕を掴み動きを止める。不快そうに顔を歪ませた門田と恐怖に顔を歪ませた奈倉が同時に視界に入り、俺の心を混乱で満たしていく。

小さく息を吐くと、なんとも言えない不快感が胃から迫り上がってくるような感覚に襲われる。歯を食いしばり、その感覚から意識を逸らし門田の腕を握る手に僅かに力を込める。門田は無言で俺の手を振り切ろうしたが、俺相手に抵抗は無駄だと判断したのか力無くだらり、と手を下ろした。

俺に視界を合わせないように床に視線を落としていた門田が、ちらりと俺の顔を盗み見る。何か物を壊してしまって、それでも壊れた物はもう直すことも出来なくて。見付かるのは時間の問題、見付かってしまえばどうなるか分からない。それでも直すことは出来ないし、なかったことにも出来ない。誰でもいいから自分を助けて欲しいと願うようなそんな絶望に塗れた表情で。

ダメだ泣いてしまう、と思うのと同時に門田の目からは何度目か分からない涙がぽたりと落ちた。それでも今は泣く状況ではないと判断したのか、鼻水を啜りながら目元を乱暴に拭う。未だ握っていた腕を離すと「悪い」と掠れた声が返ってきた。


「痛えよ、意味、分かんねえよ。俺は、なんで、門田に、殴られて、」

ぶつぶつと譫言のように呟く奈倉に薄気味悪さを感じつつも、今は門田の変化の方が重要だ。こいつは何の理由もなくこんなことをする奴じゃない。それは精神が極限まで擦り切られている今でもだ。


「……どうしたんだよ。殴る必要なんてあったか?」
「殴る必要がなけりゃ俺だって殴ったりしないさ。殴る方も痛いんだ」

吐き捨てるようにそう告げた門田は乱暴に、それでいて申し訳なさそうに未だ這いつくばる奈倉の髪を掴みあげる。空になったペットボトルが虚しく床を転がる音が聞こえて、その次に痛みに堪えきれないのか、暴れだした奈倉が傍にあった机や椅子に身体をぶつける音が聞こえた。

そんな中でも奈倉は自分のカバンだけは守ろうと必死に胸の前に抱えている。そのせいで上手く抵抗も出来ないのか、門田が力強く髪を引っ張ると成す術もなく奈倉の上半身が無理矢理起こされた。不自然な体勢で恐怖半分、苦痛半分な状態の奈倉は俺に助けを求めるような目を見せたが、それも一瞬ですぐに苦痛に顔を歪めてしまう。

「痛っ、マジで痛いって!離せって!門田!!」
「お前、一回も会ってないって言ったよな?間違いないんだな?」
「それが…、それがなんだよ…!痛い痛い痛い!」
「どうして、どうしてお前は嘘を吐くんだ!」

奈倉の悲鳴と門田の怒鳴り声が不協和音として俺の耳に届く。目の前で繰り広げられる光景を、何処か冷静に見ている自分に気づいた。奈倉も門田も完全に我を忘れている。だからこそなのかもしれない。何が起こっているのか理解出来ていないのは、きっと俺だけだろう。奈倉も門田もお互いに大声で口論を続けている。俺はそれを止めることもせずにただ見つめていた。だって俺は、完全な部外者だ。

「だから、知らないって!焦るのは分かるけどちょっとは落ち着けよ!!」
「焦る?そりゃあ、焦るさ!お前がそんな嘘をつかなきゃな、俺だってこんなガキみたいな事してねえんだよ!」
「だから嘘って何」
「……俺はっ!!…臨也と、新羅に会ってんだよ!」

最後に門田がそう言い放った瞬間、奈倉は目を見開いて口を閉じた。微かに奈倉の雰囲気が変わったような気がして凝視してみると、髪を掴まれたままにも関わらず抵抗を忘れたのか身体の力を抜いてガクガクと震えている。心なしか、息が荒い。

「だからお前が嘘をついているかどうか、俺には分かる。…どうして今、そんな嘘を吐くんだ?」
「俺は嘘なんて、」
「友人なんだよ、あいつらは。お前にとっては嫌な奴らだったかもしれないけれど、大切なんだよ。次こそはあいつらの傍に居なきゃいけない。だから奈倉、分かってくれ」

門田の息が震えている。もう何がなんだか俺には理解出来ない。今分かるのは、俺の知らないところで何かが起こっている、もしくは起こっていたということだ。もしかしたら今この瞬間にも、何かが起こっているのかもしれない。その何かに臨也と新羅が絡んでいることは、2人の会話を聞いていれば明らかだ。

それでも俺は、門田が何を見たのか、奈倉が何を隠しているのか、何が起きているのか何一つ分からない。

「…なあ、奈倉お前何を隠してる?」

そんな俺の思いを代弁するかのように門田が奈倉の髪から手を離し、優しく諭すように問い掛ける。目線を合わせるためにしゃがみ込み、悪さをした子供に自分のした行為を反省するよう促すような門田の口調に、先ほどまでの覇気はない。

身体が自由になり、ゆっくり奈倉は身体を起こし立ち上がる。力なく首をだらり、と下に垂らす様子は宮坂の姿を思い出させた。それでも、奈倉は生きている。目の前でしっかりと立っている。それなのに目は虚ろで、光りを宿しているようには見えない。

ふと、奈倉の呼吸が先ほどよりも荒くなっていることに気付いた。過呼吸気味になりつつある呼吸を、学ランを強く握りしめ耐えているようだ。尋常じゃない汗が奈倉の額に浮かび、輪郭をなぞって落ちていく。

一目見て分かる奈倉の突然の変化に、門田も怪訝そうな表情を浮かべ次の行動を黙って窺っている。奈倉の細い身体じゃ、もし門田に殴り掛かってこようともすぐに返り討ちにされてしまうだろう。その余裕もあってか、門田は奈倉から距離を取ることもせずに自分より身長の低い奈倉に見下すような視線を向ける。

奈倉は落ち着きを取り戻したのか、一度深く息を吐いて固く目を閉じる。首は下を向いたままの状態で、奈倉は口を開いた。

「……俺、さ。お前ら知らないと思うけど昔人を刺したんだ。あれから何年も経つのに刺した感覚も、血も何も忘れられねえんだよ。気持ち悪いんだ。だんだんとシャツに血が染みてきて。それなのに目の前は真っ暗で。それがずっと、頭の中に残って、消えなくて…。はは、復讐なんだかなあ。一生復讐してやる、って言われたしなあ。俺にもよく分からねえわ。あいつ、ほら昔からちょっと変わってたし」

ベラベラと息を吸う事も吐く事もなくそう続ける奈倉の手が仰仰しく広げられる。その姿に臨也の面影を感じたのも束の間、奈倉の手がバッグの中へと入る。何をする気かと身構えるのと同時に、バックから覗いた黒い光沢に気づいた時にはもう全てが手遅れで。



何か大きな音が聞こえて。その次に見たものは、崩れ落ちる門田の背中だけだった。


「か、どた…?」

現状を理解する間もなく、強い衝撃が身体に走る。微かな痛みを腹に感じ視線を下へと落とすと水色のブレザーに赤い染みが広がっていた。思わず腹に触れると、ぐちゅという水音と共にびりびりとした感覚が下腹部を支配する。手を離して見ると、紛れもなく俺から出た血で手が赤く濡れていた。

続いて右足の太股とふくらはぎにも同じ衝撃を受け、俺の身体はゆっくりと右へ傾き門田の近くへと倒れ込む。赤黒い血が床に広がり、門田の近くまで到達しようとした時に身体に冷たい何かが走った。嫌な予感しかしない。

何が起こったんだ、一体何が。

バランスを崩し床に倒れこんだ俺に、奈倉は銃口を向けながら近寄る。立ち上がろうと身体に力を入れると、再び右足に衝撃。痛みこそ大したことはないのだが、右足に3発も鉛玉を打たれては流石の俺でも立てなくなってしまう。少し時間が経てば歩けるようにもなるのだろうが、今立ち上がれないのであれば意味がない。右足に力を入れ無理矢理立ち上がろうとしたのだが、そのせいで傷口が開いたのか血が体外へ流れていくのが鮮明に分かった。

「そうだよ、臨也にも岸谷にも会ったよ。……これで、お前は満足なんだろうがよ!」

吠えるようにそう叫ぶ奈倉は、床に転がっている門田の頭に銃口を向ける。

そうだ、門田。門田は無事なのか?



門田の方を見ると、右胸辺りに開いた小さな穴から俺より遥かに大量の血が次々溢れ出ていた。口からはこぽこぽという音と共に血がとめどなく垂れ、つい数秒前まで開いていた目は今では固く閉ざされている。

「何が、は…っ?」

目の前が真っ暗になった。それと同時に自分の中で何かが千切れたような音が聞こえる。

「門田、おい。おい、なあ。大丈夫かよ、なあっ。門田……、……あっ…あぁああ…!」

目を閉じたまま返事をしない門田の姿に、言葉にならない叫びが喉から溢れ出す。突然の出来事に頭がついていかない。事の発端は門田が奈倉を殴ったことだ。それがどうしてここまで捩れた?

今すぐ立ち上がれ、立ち上がってくれ。

「…どういうことだよ、奈倉!」

俺の声に身体を大きく跳ねらせる奈倉の目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっている。さっきまでとは打って変わって、深い後悔がありありと顔に浮かんでいる。それでも銃口と視線は門田に向けられたままで、今にももう一発撃ちそうな雰囲気さえ漂わせていた。

「…だって、結局、こいつは何もしなかったじゃねえか!逃げたんだろ!?あいつから逃げたんだ!だからこうなった!違うかよ!門田が止めたら、あいつらは!…俺は、俺は…ぁ…!」

そう言うや否や、子供のように嗚咽を漏らしながら奈倉は泣き始めた。銃は未だ門田に向けられていて、それでもその銃口はぶるぶると震えている。例え今発射したとしても門田に当たるより、床に当たる確率の方が高いだろう。幼い子供を連想させる奈倉の様子はついさっきまでの奈倉とは正反対だ。

突然の奈倉の変わりように、混乱に包まれる。冷静になり我に返ったといえばそれまでだが、さっきまでの様子はなんだ。なんであんなに激昂する必要があったんだ。

分からない。奈倉は何を考えている?






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