教室から一歩外に出ると廊下には妙な熱気が篭っていて嫌な暑苦しさを感じさせる。その暑さのせいか、むせ返るくらいに強烈な血の臭いが廊下中に充満していた。思わず鼻を覆いたくなるその臭いに眉を寄せたのは俺だけではないようで、隣にいた門田も心底嫌そうに顔を歪めている。

一瞬教室から出た事に後悔しかけたが、どの道進まなきゃ始まらないんだと頭から雑念を追いやる。止まっている時間なんか少しもない。


「………あ」

警戒しながら周囲を見渡す俺の視界に入ってきたのは、目を見開いたまま絶命している宮坂の姿だった。鬱血で顔が赤黒く変色し、変な方向に曲がっている鼻からは今も血が溢れ出ている。てらてらと光るその一筋の血を見ていると胃から何かが迫り上げてきて思わず目を逸らした。

肉の色が血の赤が。映画や漫画などとは違うリアルなそれを見て、身体が拒否反応を起こしているかのように口内に嫌な酸味が広がる。込み上げる吐き気を堪え、視線を宮坂から少し離れた場所に倒れている女に向ける。

顔を青や赤に変色させながら死んでいるのは門田が守ろうとした女の姿。瞼や口元がどす黒く変色し顔中が膨れ上がっているそいつの死体は、仲の良かった友人が見ても最早誰か分からないだろう。髪の間から覗く生々しい肉の色に気付き直ぐに目を逸らす。宮坂もこいつも、こんな姿なんて見られたくないはずだ。

「……悪かった」

そう言いながら宮坂の目を静かに閉じさせる門田を見つめる。生きている人間とは違う体温と感触、それらを確かめるかのようにそっと触れる門田とその門田に殺された宮坂。それを見て浮かぶ感情は仕方なかった、ただそれだけだ。

「なあ、静雄?」
「…ん」
「少し、手を貸してくれ」
「いいけど、何をどうするんだ?」
「こいつらをちょっと移動させたいんだよ」

門田に死体を廊下の脇へとずらすよう頼まれ、2人を廊下の壁にもたれ掛かるように座らせる。首はかくり、と力無く下を向き傷が酷い顔を隠す事が出来た。
二人に対し目を閉じ合掌する門田を静かに見守る。人を殺したことのない俺が門田の心情を理解するなんて出来ないのだから、この空間は門田だけのものだ。俺が踏み入れていい領域ではない。

「…こんなのただの自己満足だな。悪い、時間をとらせた」
「もう大丈夫なのか?」
「ああ、」

俺の方を見る事もなく返答する門田の視線の先は数メートル先、真っ暗な廊下のずっと奥。先に何があるかも分からない、まるで今の俺達と一緒だ。


「……いつまでもお前の前で落ち込んでいるわけにはいかないからな」

振り向いた門田が俺に笑いかける。その寂しげな顔に俺は何かを思うことを止めた。








何処からか銃声が聞こえる度に、首を絞められたような息苦しさに襲われる。

少しずつ進む度に段々と現状が明らかになってきた。廊下を歩いていても教室に入っても何処に行っても、一目で致死量だと分かるくらいに大量の血を流し死んでいる奴の姿を見掛ける。

ようやく生きた人間に出会えたと思えば、大抵の奴が俺と血だらけの門田を見て悲鳴や意味の分からない甲高い奇声を上げながら逃げていく。勿論、話なんてする事も出来ない。中には俺達にナイフを向けてくる奴もいたが、本気で俺達を殺そうと襲ってくる奴は誰一人としていなく、結局最後には皆俺達から逃げていくだけだった。


その代わり、立ち去った後にまるで襲われたかのような絶叫が廊下の奥から俺達の耳に届く。それは体育館で浴びせ掛けられたような「あいつが居るから俺は死んでしまう」というのと何も変わらない。聞いているだけで気が滅入りそうな罵声を浴びせられたりもした。さすがに何度かキレかけたが、今感情を爆発させれば自分を制御出来なくなることは自分自身が一番理解している。沸き上がる苛立ちにひたすら歯を食いしばるしかなかった。


探しても探しても臨也も新羅の姿も見当たらない。本当に校舎内に居るのかとさえ疑いたくなるほど、見つからない二人に焦燥感が募っていく。見付からないわけはないのに、見付からない。蒸すような暑さのせいで汗がぽたりと床に落ちた。窓を完全に閉め切られているのだから仕方ないが、これでは何時間も校舎の中にいるだけで頭がどうにかなってしまいそうだ。ただでさえ色んなことが起こり過ぎて精神が参っているというのに。

「いねえ…」
「校舎が広いんだよ。ほら、まだ階段がある」

門田が指し示す先には上へと繋がる階段があった。見たところ上にまだ2階分くらいはありそうだ。

「移動されてたら元も子もないが…、まあその時はその時だろ」
「…ああ」

早く無事を確認したいという気持ちを抑え、階段を上る。不意を突かれて襲われないように常に周囲を気にしながらの移動は神経を使い、自分の中でふつふつと苛々が募っていくのが分かる。

階段を上りきり一番手前にあった教室の戸に手をかけ、なるべく音をたてないように開ける。そこには血も死体もない綺麗な空間が広がっていて、安堵とまたも期待ハズレだったという感情が入り混じった溜め息が口から零れた。


「もしかしたら、臨也と新羅も俺達みたいに一緒に居るのかもな」

一応教室内を見渡し、何も変わった点がない事を確認してからそう言う。こんな状況下の中一人で居るよりは誰か信頼出来る相手と一緒に居た方が身体的にも、そして精神的にも安心なのか確かだ。

新羅と臨也は中学時代から付き合いがあるらしいし、下手に一人で居るよりはとお互いに探し合い、合流したということも考えられないことではない。

それにあの二人には俺には入れない何かがある。言葉ではうまく言い表せられないが、あの二人の距離感はどこか普通の友人ではありえないようなものだ。心の底から信用し合っているような、絶対に裏切られないと確信しているような、そんな仲。俺にはよく分からないが、きっとこういうのを親友と呼ぶのだろう。


ガラリ、と小さな音を立て再び廊下へと通じる戸を開く。隣の教室へ入ろうと辺りを警戒しながら足を踏み出すと、何処かからか何かが床を擦る音が聞こえた。もしかしたらと何度目か分からない期待をしながら、迫る人影を確認するべく教室へ戻り息を殺す。

一目見て臨也でも新羅でもないと確認出来たなら、教室の中に身を潜めるなり逃げるなりすればなんとかなる。話が出来そうな相手だったら会話をする事にしよう。

足音からして相手は一人。走り回る訳でもなくしっかりと定期的に足音が聞こえる事から相手は冷静なんだろうと判断する。

だからといって沢山人が死んでいる中、こうして生き残っているという事はただ単に運が良かったのか、人を殺して生きながらえたかのどちらかだ。とりあえず、と教室から顔だけを出し、警戒を緩める事なく迫る足音にじっと耳を澄ませる。

ぼんやりと人の姿が確認出来、後一、二歩で誰か特定出来る距離にまで差し掛かった時、同じように廊下を見ていた門田が声をあげた。

「奈倉…?」

言われた本人にまで声が届いたのか、突然歩みを止めて辺りをキョロキョロと見渡し始める。

「門田、だよな?何処に…」

声で門田だと分かったらしい奈倉は相変わらず辺りを見渡しながら、ゆっくりと教室の方へ近付いてきた。距離が近くなるにつれ、奈倉の姿がはっきりと見える。茶髪の緩いくせ毛の頭を左右に動かしながら不安に顔を歪める奈倉は、その怯えた動作に似合わないしっかりとした足取りで着実に教室の前まで歩いてきた。

「ここだここ」

声の主が奈倉だと確信し警戒を解いたのか、門田がそう言って招くように奈倉を呼ぶ。その声に安心したのか門田の声を頼りに急いで俺達のいる教室へと入りこんだ奈倉がふう、と長い溜め息を吐いた。

よほど警戒していたのか、憑き物が取れたかのように顔から険しさを無くした奈倉がぺたりと力無く床に座る。その無防備な姿からして俺達相手に完全に警戒を解いたらしい。

「無事だったか?」
「なんとか、って感じだけど。お前らは…平和島もいるし大丈夫そうだな…」

そう言って心底安心したかのように肩に下げていたバッグから、配給されたペットボトルを取り出し一気に中の水を飲み干す。疲れているのか顔にはありありとした疲労の色が見て取れた。


門田は完全に警戒を解いているようだったが、俺は奈倉という人物について少し考えていた。

見掛けは派手な方に分類されると思う。ピアスを開けていたり、制服を着崩していたり。それでも何処か完全な不良になりきれていないというイメージがあるのは何故だろうか。性格もどちらかといえば冗談を言って馬鹿笑いするタイプ、言わばクラスの中心で皆と笑っているような奴だ。実際男女問わず友達も多く、俺も何度か話したことがあるが決して嫌な奴ではなかったと思う。こいつ相手にキレた記憶が一度もない。

そんな奴がよりにもよって臨也なんかに良いように使われていると知ったのは少し前。奈倉と臨也が会話しているのを見て、違和感を覚えたのがきっかけだ。

同級生にさん付け、そして敬語で喋る奈倉に周囲はもちろん俺と門田も少なからず驚いた。普段は何を考えているのか分からないくらいふわふわとしている奈倉が臨也の前になると急に態度が変わる。臨也と奈倉の間にただのクラスメイトという関係がないというのは誰もが気付いていただろう。2人が喋る時だけ、教室の空気が凍ることなんて何回もあった。

門田が奈倉に「何か困った事があったら言えよ」と臨也との関係に心配の意を向けた時なんかは、奈倉はもう臨也から逃れられないと言わんばかりに絶望に満ちた笑顔を向けてきた。

新羅にその事を何気なく聞いてみても「知らない」「分からない」の一点張りだが、新羅の事をも岸谷さんと呼ぶ奈倉を見るに何か昔に会ったのだろう。
そいつが今こうしてこのタイミングで俺達の前に現れる事に僅かな違和感を感じていた。思わず、最低な事を考えてしまう。

こんな殺人が肯定されているような環境で、殺したいほど憎い奴がいたとしたら普通はどうするのだろう。解放されると思ってもおかしくはないのかもしれない。それに臨也も新羅も見付からない。もしかしたらという不安が、明確な何かとなり緩ませたはずの警戒心が自分の中で再び形を持つ。

門田の時のような、人を殺したという目に見えた証拠は奈倉には全くない。むしろ、こんな状況でも俺達に対し友好的な姿を見ていると、俺はなんて事を考えているのだろうという罪悪感さえ覚えるほどだ。

いつまで経っても見付からない新羅と臨也について最悪な結末を想像して。あろう事かずっと腹の中で燻り続けている怒りを奈倉へぶつけようとしている。こんな俺の馬鹿みたいな考えが正しければ、臨也と新羅が見付からないのは全部奈倉のせいで、俺はこのドロドロとした憎しみを奈倉へ向ければいいという事になる。

考えるだけで反吐が出る。こんな考えは今直ぐ捨てなければならない。今は他人を疑ってもどうにもならないし、無駄な争い事や揉め事にでも発展したらそれこそ終わりだ。門田と奈倉は笑みこそぎこちないが何度か言葉を交わしているようだった。そうだ、俺も冷静になれ、冷静に。


「お前、新羅と臨也は?」

頭の中で必死に自分を諌めても、口から出た言葉は嫌になるくらい素直だ。口を開いて自己嫌悪に陥る。

こんな質問、よりによって一番してはいけない質問だろう。何が悲しくてこんな状況で嫌いな奴と一緒に行動するんだよ。それに奈倉は今は一人だ。臨也ならば奈倉を解放したりはしないはずだし、奈倉自身も一人でこんな校内をうろつくぐらいなら臨也と一緒に居た方が良いに決まっている。

一瞬にして門田と奈倉が口を閉じた。その空気にいたたまれなくなり俺は二人から目を逸らす。逃げたい現実から目を逸らしてはいけないと思うのに、逸らさずにはいられない。一瞬、宮坂のように死んでいる臨也と新羅の姿が脳裏を横切り自分の頬をぶん殴りたくなった。

視線を奈倉に戻すと、俺が良からぬ思いを抱いていると気付いたのか、申し訳なさそうに笑みを作っている。

「あー、うん。そう。……もしかしなくても俺、平和島に嫌われてたりする?」

違う、と言ってやりたかったのに。言葉に出来ないのは奈倉への信頼感よりも自分の中の疑念の方が勝ったからだ。だからこそ俺は何も言わず、奈倉の溜め息混じりの笑い声を正面から受け止めていた。

「や、仕方ねえって。だってさほら俺あいつら、ってか臨也と仲いいじゃん?いや、良くはねえけど。平和島に嫌われるのも理解出来るよ。うん仕方ない」

この空気に堪えきれないのか、はたまたこの空気のあしらい方を知っているのか奈倉はただ手をふるふる振るいながら仕方ないと繰り返した。顔には下手くそな笑みを浮かべて。

「悪い」
「いや、だから良いって。にしても平和島って本当に臨也のことが嫌いなんだな。…って悪い、首突っ込み過ぎた」

慌ててそう弁解する奈倉に罪悪感でいっぱいになりながらも軽く詫びを言い、再び始まる二人の会話に耳を傾ける。

「こんなこと言っていいのか分かんないけど、お前らって不器用だよな…。なんか色々とさ」
「それは、正直俺も思うところがある」
「な、門田もそう思うだろ?なんていうか嫌い嫌い言いながら結局一緒にいてみたりさあ。ちょっと変わってるっていうか。臨也も臨也で…、…あ、いや。やっぱりなんでもない」
「お前、臨也に会ったのか?」

発言のニュアンスから、最近臨也から何か聞いたというようにも受け止れたので深く考えず疑問を投げかける。さっきのような嫌味がこもった質問じゃなく、ただの純粋な疑問。もし会っていないのであればそれでも構わないし、会っているのであれば詳しく話を聞きたい。

当の奈倉は、臨也を嫌う俺からそんな質問を受けたことに驚いているようで一瞬言うか言わないか迷う素振りを見せた。

「あー…、悪いけど一回も見てないわ。そういえばさっきも聞いてきたよな?……あの二人に何かあった、とか?」
「いや、知らないならいいんだ。なんかさっきから変な質問ばかりだな、俺。」
「別にいいけど…。あいつらなら大丈夫だろ、心配する必要ないって」

ある意味期待通りな答えに少しだけ落胆しながらも、気合いを入れ直す。奈倉の全てを信じたわけじゃないが、実際に話してみてこいつが二人を殺すなんて想像が出来ない。さっきの妄想も不安が見せたものだ。気にすることはないだろう。


それなのにどうしてだろう。とても嫌な予感がする。

なんだ、なんだこれは。分からない、どうして今俺はこんなことを考えているのだろう。どうして俺は、奈倉が嘘を吐いているだなんて考えているのだろう。

未だに最低な考えが拭い去れていないのか、と目の前で首を傾げる奈倉を見ないようにして横に居る門田の表情を見る。そして直ぐに後悔した。無言の門田の顔には深い嫌悪感と、深い悲しみの色が浮かんでいた。その表情が何を意味するのか気付く前に門田がゆっくりと口を開く。

「奈倉、お前どうして」

それだけ言うと、突然門田の拳が振り上がる。その拳が奈倉へ向けられているのだと気付いたのは奈倉が壁に背中を強打し、疼くまっているのを認識出来た時だった。奈倉は立ち上がる事もせずにげほげほ、と苦しそうに咳込んで、何が起こったのか理解出来ていないようだ。

そんな奈倉に容赦なく、門田の拳が再び振り上がる。そして。






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