「静雄…?」

廊下と教室の境界。そこに居たのは見慣れた顔で。

「…門田」

限界まで高まっていた緊張が、ふっと無くなった。俺が名前を呼び掛けると門田は何か言いたげに小さく口を開いた。しかし何も発することなく直ぐに口を閉じ、変わりに歪な笑みを浮かべる。

それは臨也のような他人を馬鹿にするための笑みでも、新羅のように呆れが混ざった苦笑いでもない。困ったような、悲しいような、全てを諦めた笑顔。笑いたくないのに無理をして笑っている門田にはありありとした暗鬱が見てとれた。

こいつはこんな顔で笑う奴だっただろうか。そんな違和感を感じながらも、俺の心は純粋に数少ない友人との再開を喜んでいた。門田が生きていたという安心感に安堵の息を吐く。幸福とは言い難い状況だが、胸の中にじんわりと芽生えた感情は間違いなくそれに匹敵するものだ。


それと同時に自分の中に友人達を探すという選択肢が無かったことに僅かな罪悪感を覚えた。それと共に、新羅の笑顔や臨也の憎たらしい表情が脳裏に浮かび胸が締め付けられる。今頃、この狭い校舎の何処で何をしているのだろうか。

臨也はきっとこんな状況下でも平気なはずだ。取り乱す臨也の姿など想像出来ないし、精神的に人を傷付けることに躊躇しないあいつはその対象が肉体へと変わったところで顔色一つ変えないだろう。

それよりも、新羅の方が心配だ。あいつは精神こそ正常ではないが、こんな場面を飄々とくぐり抜ける程の精神力を兼ね備えていなかったと思う。


再び、不安が頭を占めるが目の前に門田が居るということでいくらか平静を保っていられた。二人ならばなんとかなる、という根拠の無い自信さえ沸いてくるほどだ。

だけど。

生きて再開出来た、その事実だけに気を取られ過ぎる程俺は馬鹿じゃない。今この瞬間に門田がこの場に居る理由、俺達が偶然にも出会えた理由。僅か数十秒前の廊下での出来事に何らかの形で門田が巻き込まれていた。そう考えるのが普通だ。あれだけ騒がしかった門田の背後の廊下には、先程まで人の気配は一切無かった。

不意に何かが視界を掠める。それが反射した光だと認識すると同時に、その光を反射する何かへと自然に視界が移動した。その正体が門田の右手に嵌め込まれた物だと知った時、その光景に自分の目を疑う。この狭い室内で、門田の手にあるそれは一際異質な雰囲気を醸し出していた。


血に塗れたメリケンサック。
それを確認すると同時に、消えかけていた不安の波が再び俺を襲う。


もしも、門田の背後に広がる廊下に新羅が居たら?あのひ弱な新羅が門田に力で勝てるはずがない。いや、そんなことは有り得ない。だがその可能性が0なんて、門田以外誰にも証明出来ないだろう。
不安が膨らみ爆発しそうになる。門田への警戒心が自分の中で肥大していくのが感じられた。そんな俺の心の変化に気付かない門田は、右手をさりげなく自分の背後へと隠す。そんな動作一つでさえ俺の不安は限界まで膨れ上がっていった。

「静雄、大丈夫だったか?無事…」
「…こっちに来るなっ!」


思いの外、大きい声が出た。

笑みを浮かべ、俺へと一歩歩を進めた門田の表情が途端に無表情になる。当たり前だ、友人から拒絶の言葉を浴びせられたのだからそんな顔をしても仕方ない。それでも一度俺の中で生まれた疑心が晴れることはなかった。


あの声の主は死んだかもしれない。絶叫を、懇願を聞きながらこいつは他人を殴り殺したんだ。いや、でも何か事情があったのかもしれない。それにしてもそれが人を殺していい理由になるのか。死に相当する理由など存在するのか。それに、もしかしたら新羅が。いやそんな訳はない。門田に限ってそれは有り得ない。でももし新羅が廊下に居なかったからといって、俺は門田のことを信じていいのだろうか。

ぐるぐると頭の中には相反する考えばかりが生み出される。その間、無言のままの俺に門田は何も言い返してこなかった。何も言わずに、ただ俺を見ている。

「門田、お前…」
「…どうした?」

今の門田の顔は俺の一番嫌いなものと同じだった。人を見透かしたような、人の心を読もうとしているような目。それを隠そうと無理矢理あげられる口角。目の前に広がる物全てが俺を混乱へと陥れる材料にしか感じられない。疑心暗鬼に陥りかけている心に、落ち着けと命令を出すも不安は色濃くなっていく一方だ。

「お前、何しやがった…」

嫌に舌が乾いている。出来れば聞きたくない質問をぶつけたのは、「違う、何もしてはいない」と断言して貰いたかったからだ。

「おかしなこと言うなよ。俺が何をしたって?」

ガラガラと後ろ手で戸を閉める門田に言いようのない不安を覚える。その顔には、いつもの門田からは考えられない何かが発せられていた。殺気に似た威圧感。何十をも超える喧嘩を経験してきたが、ここまでの威圧感を感じさせたのは門田が初めてかもしれない。

一歩一歩、近付いてくる門田を睨みつける。威圧感に気圧されて後退りなんてことはしない。息を吸う、ゆっくりと吐く。

確信を事実へと変えるために、おそるおそると口を開いた。

「…お前、人を…殺したのか?」

情けないことに、声は震えていた。そんな俺の姿を見て門田は困ったように笑い、頭をくしゃくしゃと掻く。その表情を見て、傷付けてしまったという深い罪悪感に襲われた。そりゃそうだ。友人から「お前は人殺しか?」と聞かれ、傷付かない人間の方が少ない。実際俺が新羅や門田に同じ質問をされれば深く深く傷付くだろう。

そんなことを考えていると門田は何かに吹っ切れたかのように盛大に息を吐いた。隠しても仕様がないと門田の顔に書かれているようにも感じられた。

「……まあ、警戒されても仕方ねえわな」

俺との距離が近くなるにつれ、制服などにも赤い血が飛び散っていることが分かった。制服だけではない、顔にも靴にも。拭ったのか、顔の血に至っては広範囲にまで及んでいる。ふにゃり、と力無く門田の表情が緩んだ。幸せ故の笑顔なんかじゃない。完全に、全てを諦めたその笑顔はこの状況では狂気さえ感じるほどだ。


「人を殺して、何が悪い?」
「は…」
「なあ、静雄?何が悪いと思う?」


戦慄が走る。
普段の門田からは想像もつかない物騒な発言に、頭がしばらく動きを止めた。


人を殺してはいけない理由。法律、理性。それらが通用しないこの状況で人を殺してはいけない理由。正直、俺の頭では何も考えつかない。しかし、それを肯定することははたして正しいのだろうか。


同じような思いを何度も反芻させていると、突然黒板から轟音が聞こえた。黒板を見てみれば、血に濡れた右手で門田は黒板を殴っていたところだ。白い線の上に僅かにだが赤が飛び散った。悔しい、と言わんばかりに歯を食いしばる門田はそのままズルズルと屈み込んでしまった。濁ったような、虚ろな瞳で俺を見る。

「…そう、怖い顔になるなよ。お前に拒絶されると、どうしていいか分からなくなる」

自嘲気味な笑顔は、真っ直ぐ俺へ向けられている。俺の存在が門田を傷つけているのは目に見えて明らかだ。じゃあどうすればいいんだ?門田なりに何か理由があったのかもしれない。それを聞いてからでも遅くはないのではないか、という思いと、それでも人殺しには変わらないという思いとが混ざり合う。
この悩んでいる時間すらも惜しい。でも俺は臨也のように口先だけで今の状況を打破することなんて芸達者な真似は出来ない。


「…悪い……、そういうつもりじゃ」
「お前は思ってることが顔に出やすいんだよ」

苦笑い。笑えていない顔を見るのは嫌だった。乾いた笑い声が足元でしゃがみ込む門田から漏れる。

「参ったな…。俺、お前にそんな顔されるのが一番辛えわ」
「違う!門田、別に俺はお前を責めたい訳じゃなくて、ただ、自分の中で少し整理しときたくて……ああ!だから!」
「……分かった、大丈夫だ。焦んないで落ち着け、な?それに…お前はあいつとは違って、俺なんかじゃ死なないだろう?」

俺への殺意など少しも感じないその言葉に、僅かにだが皮肉が感じられた。

駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ。今の俺も門田も明らかに精神状態が普通ではない。落ち着いて話をしなければ堂々巡りどころか仲間割れを起こしてしまいそうだ。

心臓はバクバク鼓動を打って煩いし、突然の事態についていけてない脳は上手く回らない。考えること全てが門田を傷付けてしまいそうで、そんな自分の思考に嫌になる。


「…何が、起きてたんだよ。まずはその説明からだろ」

落ち着こうと深く息をついて門田の前にしゃがみ込む。お互いの身体が触れるか触れないかの距離で、俺はしっかり門田の目を見ていた。俺の目は不安の色で満ちているのだろう。そんな自分が無性に情けない。それでも門田から目を逸らすことはしなかった。

「お前、宮坂は知ってるよな?」
「宮坂…あの、同じクラスのだろ?」
「ああ」

突然クラスメイトの名前を言われ、面食らっていると話す気になったのか門田がぽつぽつと口を開く。

「あいつが女を殴ってたんだよ。…っていう言い方も変だけどな。だが、きっとお前にも叫び声が聞こえたろ?」

記憶を辿る。確か宮坂は俺より身長も体格も良い奴だった気がする。あまり話したことは無かったが、クラスの中心的人物で何か行事などの時には積極的に俺に話しかけてくれたりして、クラスの輪に入れようとしてくれた。最近では、それでこそ談笑などはしないが下駄箱で会えば挨拶をしてくれるし、俺に関わってくれる数少ないクラスメイトの一人だ。

そんな奴が女子を殴るだなんて、信じられないし考えたくもない。だが門田が言う以上それは事実なんだろう。それだけ皆が追い詰められているということだ。いや、少し考えれば分かる。門田も含め、皆肉を切られたら血が出るし、鈍器で殴られたら死んでしまう。死ぬか生きるか、人間として当たり前の本能が狂気に火をつける。


「聞こえ、てた」
「あ、悪い。別に静雄を責めたいとか、そんなんじゃねぇんだ。そこだけは勘違いするなよ?」
「分かってる…」

俺が門田を殺人者と思っていたように、門田も俺のことを心では女を見殺しにしたある種の殺人者だと思っていたのかもしれない。それでもいい。そんなことはお相子というものだ。

それより俺は門田から伝えられることを一つでも多く受け入れようと心の準備をした。この期に及んで、門田を拒絶したくない。傷付けたくはない。


「手前が生き残りたいからってよ、自分より力の無い女を殴るって最低の事だと思うんだよ。少なくとも俺は。だからって宮坂を殺した自分が正しいか、と言われればそれは違うよな」

ゆっくりと笑みを深める。伏せ目がちに作られた笑みからは狂気の色は消えていた。代わりに深い悲しみの色が浮かぶ。

「俺は、女を助けようとして宮坂を殺した。今思えば、もしかしたら宮坂を説得出来たかもしれない。それをしないで、しようともしないであいつを殺した。少しは罪悪感もあるんだぞ?」

右手をあげる。
メリケンサックの光沢に門田は目を細めた。そして拳を固く握り締める。

「結局、女の方は死んでたけどな…。正直宮坂への罪悪感よりも、守れなかった情けなさの方が強いよ。…なあ、お前は俺が怖いか?平気で他人を殺せる俺が。人を殺しても涙一つ流さない俺が。俺は」

自虐的な言葉を言う門田の口を、思わず右手で塞ぐ。言葉を続けようとした門田の声がくぐもった音になって、最終的には何も喋らなくなった。

長く息を吐く。

普段から正義感の強い門田だ。俺と臨也が喧嘩して、臨也が劣勢になったら俺に殴られるかもしれないのに臨也を庇おうと前に出たり、俺が他校生と喧嘩していたら俺が心配だからという理由だけで一緒になって暴れ回ってくれるような奴だ。そんなこいつが、宮坂の行動を許す訳がない。

仕方ない、仕方がなかった。それが最善策かと聞かれれば確実に答えは「いいえ」だろう。それでも俺は門田を受け入れようと思った。こんな状況では他人を殺すこと自体が悪だとは一概に言えない。その理由が、意味を持つ。我ながらおかしなことを考えている自覚はあった。でもきっと、これは正しくなんか微塵もないが、「正解」なんだ。


門田の口から、ゆっくりと手を離す。


「怖い訳ねえだろ。それにお前、ちっとも平気じゃない」
「……ん?」
「お前の笑顔、さっきから下手過ぎるんだよ。それで笑えてると思ってんのか?少しはノミ蟲を見習え」
「は、…っはは。確かにな。静雄の言う通りだ」

冗談混じりにそう言うと、ぎこちないがようやく本来の笑顔が門田に戻る。それを見て俺にも笑顔が戻った気がした。

落ち込んでばかりもいられない。死ぬ恐怖を抱いている分、門田達の苦しみは俺よりも大きいものなんだろう。それを持っていない分、俺が心に余裕を持たなければ。それが今、善悪が崩壊した状況で出来る唯一の俺にしか出来ない善行だ。


「…今、ここには俺しか居ない。少しくらい、肩の力抜いてもいいだろ。いいよ、別に。俺にだって見ない振りくらい出来る」
「……お前には、敵わないよ。本当…」

そう言って俺によしかかる様に門田が前のめりに倒れてくる。その重さに息を吐いた。幾らか落ち着きを取り戻した空間には、さっきのような殺伐とした雰囲気は無くなっていた。寧ろ穏やかな空気さえ漂っている。

「…情けないな」
「情けなくなんかねーよ」
「ああ、悪い。少しだけ、少しだけだ」

俺の肩口に門田が頭を押し付ける。向かい合った男が抱き合っている構図に見えなくもない今の俺らは、第三者が見れば滑稽なものなのだろう。肩辺りが僅かに濡れているような気もしたが気付かない振りをした。多分、これが門田の本来の姿なのだろうと勝手に思いながら目を閉じる。

今だに門田からは血の臭いがしたが、それにも気付かない振りをした。

少なくとも、今だけは。






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