一瞬だった。

触れるだけの短いキス。唇の柔らかささえ感じる余裕もないまま、閉じていた目を見開く。ゆっくりと時間を掛けて離れていった臨也の顔は、後悔で満ちていた。

そんな臨也にキスの理由を問えるわけもなく、俯いて俺の胸に顔を埋める臨也の頭をただじっと見つめる。何か言うべきだと理解していても、その何かが思いつかない。せめて言葉の代わりにと、臨也の頭を撫でてやれば胸元に縋り付く臨也の手に力が込められた。それでも顔を上げる気配はない。

正直、臨也の気持ちが分からなくなった。こんな状況で嫌がらせをするなんて考えられないけれど、そうとでも考えないと、このキスに意味がなくなってしまう。無意味なはずなんてないのに。

「…あはは、自信、あったんだけどなあ。やっぱり駄目だ。…気持ち悪かったよね?嫌だったよね?ごめんね。ごめん……」

自嘲気味に小さく笑いながら俺の足元に力無く座り込む。今の臨也は親に叱られた子供のように見えた。子供の悲しみよりも、後悔と絶望の二つが色濃く滲んでいるのだけれど。俺は何も反応していないし、何も言っていない。自分の中の何かと戦っているんだろうか。

こんな弱々しい姿、生きている時には見たことなかった。俺が頼りないからそんな顔をするのか?もしかしたら前に告げた「辛い」という言葉が臨也の中で壁になっているのかもしれない。もしそうならば、臨也が今こんなにも辛そうにしているのは全部俺のせいだ。


もう限界だった。頭よりも先に体が行動を起こす。しゃがみこむとさっきぶちまけた水が制服に染みてくるのが分かった。床に散らばっているはずの花瓶の破片は、いつの間にか何事もなかったかのように枯れた花を挿し、机の上に戻っている。

臨也と同じ目線になると、うっすらと涙を浮かばせている瞳が、怯えるように俺を見た。逸らしかけて、堪える。これはきっと何も行動を起こさなかった臆病な俺に対する罪だ。もう逃げはしない。

「俺は、お前を気持ち悪がったりしねえし、拒絶もしない。……大丈夫だから」

真っ直ぐ目を見てそう告げると、口をわななかせながら臨也はこくこくと何度も頷いた。

臨也が俺にキスをした理由について、一つだけ思うことはある。でもそれはただの希望的観測で、臨也の口から真実が言われない限り俺の勝手な思い込みでしかない。手を伸ばさずとも触れられるくらい近いのに、その頭の中の考えはちっとも読めない。なのに、苦しんでいることだけははっきりと伝わってきて、それがとても悔しかった。

臨也の心が、届きそうで届かない。

臨也の両手が、俺の頬を包んだ。何をされるのかもう考えなくても分かる。誰に言われるでもなく目を閉じると、再び唇に柔らかいものが当たった。臨也の「最後の願い」それがこのキス。キスをしたかったのは誰だ?俺じゃない。臨也が自分の意思で俺に触れて、自分の意思で俺にキスをした。この行為が意味する結論は。

つまりは、そういうことだ。そういうことでいいんだよな?臨也。

浮かび上がってはありえないと消してきた可能性は、何度も繰り返されるキスによって確信へと変わっていく。

「シズちゃん……」


ぽたり、ぽたり。

温かい何かが手の甲に落ちた。臨也の涙か俺の涙か、もうどっちか分からない。あるいはどっちもかもな、なんて思うも生憎俺の景色は霞んでなんかいないし、頬も濡れていない。いっそ俺も泣けたら良かったのにと思いながら、両手で顔を覆う臨也を黙って見ていた。

臨也が苦しみを抱いているのなら共有してやりたい。何かを俺に伝えたいのならば、いつまでもその言葉を待ち続けたい。気持ちを、苦しみを全て分かり合いたい。臨也にはもう俺しかいないんだから。

臨也は指の隙間から嗚咽をもらし、肩を大きく震わせ泣き続けている。死して尚苦しむなんて、あまりに可哀相だ。臨也の背中を優しく、安心させるように一定のリズムを刻みながら叩く。

苦しげに息を吐き目元から手を離した臨也は、ほんの少しも止まる気配のない涙を流しながら無理矢理笑顔を作りあげた。赤い目元が痛々しい。

「…優しいね。あぁ、俺が死んじゃってるから同情かなぁ」

そのまま笑顔を壊さず、俺の胸に頭を押し当ててくる。は、と熱を伴った吐息が臨也の口からこぼれた。

「もしそうだったら、…すごく悲しい…」

同情。臨也に対するこの感情が同情?そんなのありえない。俺はこいつが生きている時からずっと好きで、死んでからもずっと好きで。言葉にしなきゃ伝わらない思いというのは、まさにこのことだ。俺の想いが、何一つ伝わっていない。


「……俺もだからだよ」
「え?」

無意識に発せられた自分の声を聞きながら臨也に笑いかける。

これが最後だ。
長かった夢を終わらせる最後の言葉。言いたくて、ずっと言えなかったこの言葉。


「好きだ」


瞬間、世界が止まった気がした。それと同時に俺の中の時間は音を経てて動き出す。もう後には引けない。

ようやく涙が止まったのか臨也の目から涙が零れることはなかった。つい何秒か前まで涙で濡れていた目は、いつの間にか大きく見開かれている。明らかな戸惑いの色が見てとれたけれど、ここで止めるわけにはいかない。

何年間も募った想いを言葉にするのに、時間は掛からなかった。頭には思い出が映像となって流れ出す。一番鮮明に浮かぶのは、最後に見た臨也の笑顔だ。きっとあれは気のせいなんかじゃなかった。

「ずっと、ずっと好きだった。お前が死んで、夢の中で話せるだけで満足だと思ってた。でも、こんなの違うよな?考えれば分かるのに、逃げてたから。だから今お前が泣いて…、臨也、俺な?本当はさ」


喧嘩でもなんでもいいから臨也と繋がりを持ちたかった。いつかお互い大人になった時に昔を思い出して、あの頃は若かったなんて言えるような関係になれればそれで満足だった。どんな関係であれ、あいつの近くに居ることが出来れば。

あの約束の裏に隠れた本音。「ずっと追い掛ける」なんて言葉で隠された、もっと単純で単純だからこそ伝えられなかった想い。

「お前ともっと、ずっと一緒にいたかったよ」

もっと早くに伝えればよかった。勇気を振り絞っていれば、ここまで臨也が苦しむ必要もなかったのかもしれないのに。いつだって後悔した時には遅いんだ。

「……俺もっ、俺もね、……シズちゃんが、……シズちゃんが…!」

そこで一旦言葉を区切った臨也が涙で濡れた手を喉に当てる。驚いたように一度息を吸ったかと思えば、今日何度目か分からない涙を再び流し始め、そのまま俺へと抱き着いてきた。それが何を意味するのか俺には分からなかったけれど、臨也の言葉を抱擁を全身で受け止める。

「ずっと…好きだった。言いたかった!ずっと、ずっと!!……なのに、なのにね俺…死んじゃったよぉ…!!死にたくなんて、なかったのに…!俺だって、…シズちゃんとずっといたかったのに……!」


ああ、そうか。
これが答えだったんだ。

切羽詰まったように俺へとそう告げる臨也は、一度唇を噛んで何か言うのを躊躇う素振りを見せた。それも数秒と持たず、押し寄せる衝動に身を任せるかのように口を開く。

「……ほ、本当にシズちゃんは俺のこと好きだったの?嘘じゃないよね?ねえ…っ本当なんだよね?」

縋り付くような目が俺を離さない。確認するように何度も同じことを繰り返すのは、俺の言ったことを信じられないからか。でも俺はこんな状況で嘘をつけるほど器用な人間じゃない。全て本当だ。

「好きだ。…今だって、まだ」

要するに俺達は互いに互いのことが好きで、でもそれを伝えることをしなかった。そのせいで、こんなにまでなってしまったということか。伝えなければ、届かないなんて当たり前のことだったのに。

思いが通じ合ったところで、俺達に選択肢はない。元々問題すら与えられていなかったにも関わらず、無理矢理問題を作り上げたようなものだ。付き合うといったことが出来るわけもなく、ただ互いを大切に思っているという事実だけが残る。

それが悲しいのかどうかは分からない。それにもう、臨也は死んでしまった。曲げようのない事実を目の前にしながらも、不思議と俺は冷静でいられた。だって、例え夢の中だとしてもこうやって臨也に触れることが出来る。

「臨也、顔上げろ」

涙でぐしゃぐしゃになった顔をおずおずといった様子で素直に上げる。ようやく俺の言葉を信じたのか、柔らかい表情を見せる臨也はこれから何をされるのか見当がつかないみたいだ。

訝しげに俺を見つめる臨也の頬に唇を押し付けると、ちゅ、という音と共に口の中に涙の味が広がった。目尻に溜まる涙に口づけをすれば、臨也の目がぎゅっと閉じられる。その姿があまりに愛らしくて、抱きしめる手に力を込めた。触って、抱きしめられて、キスが出来て。それ以上に何を望む必要がある。

「臨也、好きだ」

何年間も募らせていた想い。回り道をして、ようやく言えた。同化するんじゃないかと思うくらい密着している臨也は、俺の胸元で小さく身動ぎをして俺に笑顔を向ける。

「俺も、シズちゃんが好き…」

この言葉が、欲しかった。

何か臨也に言い掛けようと口を開こうとして、自分の体に起こっている違和感に気付く。目の前の景色が歪みだし、色を失っていく。眩暈とはまた違うこの感覚は、嫌というほど経験したことがあった。でもまさか、このタイミングでなんて。

夢が、終わる。

世界が動き出す。それなのに臨也の姿だけは一切のぶれを見せることなく、俺の視界の中に存在していた。その顔は、幸せなような寂しげなような複雑な笑顔を浮かべていて、思わず臨也の頬に手を伸ばす。その手をとって自分の頬に触れ合わせる臨也の笑顔には、今までのような悲しみは見えない。

「シズちゃん。新羅とドタチンに迷惑かけちゃだめだよ。2人とも優しいから、甘えたくなるけれど」

子供に言い聞かせるような穏やかな口調でそう言う臨也は、俺の手を握っていた手で今度は俺の頭を撫でた。その言葉の意味を理解するより前に喉の奥がひりひりと痛む。泣いてしまいそうだ、なんて思うもそれだけは堪えた。

「………嫌だ、離れたくない」

思わずこぼれた本音に臨也は一瞬目を丸くして、再び穏やかな微笑みを顔に浮かべる。

「仕方ないよ。…本当は俺だって離したくない」
「いざ、や」
「おやすみシズちゃん」

目の前がぐるぐると渦を巻き、その中に臨也も取り込まれた。もう目の前のほとんどが白に侵されて、今臨也がどんな表情をしているのかさえ分からない。「おやすみ」という言葉と同時に意識が深いところへ落ちていく。

夢は絶対だ。最後は俺から臨也を奪う形で夢が締め括られる。それに今回の夢の終わりは今までとは違う。臨也の未練がなくなったであろう今、もう二度と臨也との夢を見ることはないだろう。この夢が終わってしまえば、臨也に触れることも出来なくなる。

「また、あえる…か…?」

朦朧とする意識の中、そう臨也に尋ねかけたのはただ安心したかったからなのかもしれない。根拠も何もない口約束に、また縋りたかったのかもしれない。

「…待ってるから」

だから臨也がそう答えてくれて本当に救われた。「そうか」と返事をすれば夢の終わりはもうすぐ後ろまで近付いてくる。これで全て終わりだ。夢の続きが本当に存在するのならば、今まで、そしてこれからの分臨也を思い切り甘やかせてやりたい。だからそれまではお互いに我慢だ。寂しいけれど、また会えることを信じて。


最後に臨也の言った言葉が、完全になくなった意識の中で何度も反響していた。いつかそれに答えられる日がくれば、その時は笑って抱きしめてやる。だから、おやすみ。臨也。「シズちゃん、愛してる」





俺も、ずっと愛してるよ







ぱちぱち


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