それからどうやって帰ってきたのか全く記憶にない。気が付けば玄関に立っていた。漂う料理の匂いを嗅ぎながら自分の部屋へと向かう。誰もいない。幽がいなくて良かったなと思ってしまった。最低だと思うけれど、今は少しだけ一人になりたい。

胸にぽっかり穴が空いてしまった気分だ。喪失感、というんだったか。その穴を埋めようと無意識が呼び起こすのは、今までの楽しかった日々。それすらも今は少し辛い。仕方ないでごまかしていた心にどうやら限界がきたらしい。一人になった途端これなんだから、本当俺はどうしようもないな。いつのまにこんなに弱くなったんだか。幽がいつも眠るベッドに顔を埋める。幽の、香りがする。

部屋の戸が開く音が聞こえたが、顔は上げなかった。それがお袋でも親父でも幽でも今の俺の顔は見られたくない。きっとすごく情けない顔をしている。

「おかえり…」

声は幽のものだった。このまま寝た振りでやり過ごそうともしたが、それではダメなことぐらい分かる。顔を上げて「大丈夫だ」と言わなければ。絶対に心配をかけてはいけない。

「兄さん、泣いてるの?」

ドキリ、と胸が跳ねた。泣いて、泣いてはいない。涙は目から一滴も零れていない。でもだからといってこのまま塞ぎこんでいても駄目だ。

顔を上げ幽に笑いかける。多分、見ていられないほどぐちゃぐちゃな笑顔だっただろう。俺自身上手く笑えている自信はない。でも無理矢理にでも笑っていなければ本当に泣いてしまいそうで、それだけは絶対に嫌だった。

「泣いてねえよ、眠いだけだ。なんだよ、もう飯か?」
「まだじゃないかな。後2、3品は作るって言ってたし」
「どんだけ作るんだよ」
「さあ。冷蔵庫の中の食料全部使い切りたいんだって。勿体ないから。父さん、つまみ食いして怒られてたから避難してきたんだ」
「あー、なんつーか。親父らしいな」
「うん」

俺の隣でちょこんと体育座りをする幽。何か言いたげに口を開いて、閉じる。そして、もう一度ゆっくり口を開いた。

「楽しかった?」
「まあな」
「よかった」

そして沈黙。元からお互いに口数は少ない方で、だからこそこの沈黙も全然苦痛じゃない。

「幽」
「何」
「ありがとな色々と」
「…俺もありがと」

言葉でしか伝わらないことも、言葉では伝わらないこともある。多分今は後者だろう。これ以上の言葉は野暮だ。それからお袋が俺達を呼ぶまで、無言のままずっと寄り添い合っていた。




『起きてた?』

新羅から電話がかかってきたのは風呂からあがり、居間で一休みしていた時だった。時間は23時。普段だったら「こんな時間に電話するな」と怒っていたところだ。でも今日は世界の終わりとやらをこの目で見ようと寝るつもりもなかったし、何を思うこともなく電話に出る。

「ん、起きてた」
『そうかい。それは良かったよ。君のことだからてっきりもう寝てるかと思ってね』
「今日は寝ねえよ。お前こそ寝ないのか?」
『僕も今日は寝ないつもりだから』

新羅の声を聞いて安心している自分がいた。居間ではなんだからと玄関へ移動して、ふと外に出たくなり靴を履いてドアを開ける。昼間よりも冷たくなった風が風呂で火照った身体を冷やした。

『あれ?何処か、外にでもいたのかい?風の音が聞こえるよ』
「いや、なんか外に出たくなって今出ただけだよ」
『…今日は星が綺麗だからね。実は僕もベランダから電話してるんだ』

空を見上げる。新羅の言うようにかなりの数の星が瞬いていて、世界がもうすぐ終わるから空がサービスでもしてるのかとさえ思えてきた。月も星もない真っ暗な夜空よりは数倍もマシだが、少し嫌味にも思えてくる。

『セルティにさ、あの画像とか見せたんだ?すごく笑ってたよ』

無意味な考え事をしていると静かに笑いながら新羅がそう言った。セルティ、何回かしか会ったことはないが新羅が好きな女で、セルティ自身も新羅のことを男として気にかけていたように見えた。それでも恋人とは程遠い。新羅は思いを伝えたんだろうか。首のない最愛の彼女の笑顔を見れて、満足しているんだろうか。それを俺が尋ねるのは野暮な気がして好奇心を殺す。

「…そうか」
『門田君のことは知らないみたいでね?かっこいい子だなとか言っちゃってんの!僕ってば嫉妬して門田君に電話掛けちゃった』
「門田は今頃、何してんだろうな」

素朴な疑問。新羅が知っているわけないか、と言ってから気付いたがどうやら答えを持っていたらしい。「ああ、門田君なら多分」と前置き。

『親父さんが、なんかやり残した仕事があるとかでその仕事についていってるらしいよ?詳しくはよく分からないけど』
「なるほどな」
『うん。親父さんのこと本当に尊敬してたからね。最後までついていく、って言ってた。多分…、もう連絡はつかないんじゃないかな』

その声に寂しさが混ざっていて、ぎゅうと胸が締め付けられる。あれが門田との最後か。まだ声も表情もはっきりと覚えていて、もう会えないんだと実感した途端目頭が熱くなった。泣くな、堪えろ俺。

『じゃあ、それだけ。せめて一回くらい解剖したかったな』
「お前は相変わらずだな。……いいぜ、次会ったら解剖させてやらなくもない」
『静雄は意地悪だなあ。じゃあ本当の本当に…、またね。またどこかで』
「おう、またいつか」

プープー。
電話の切れた音がやけに耳に残る。しばらく無言で、携帯を耳に当てたまま動きを止めていたが、ようやく電源ボタンを押し完全に通話終了。画面には何事もなかったかのように待受画面が映し出されている。何気なく時計を見ると、終わりまでそう時間が残っていないことに気付いた。

たくさんの人間がこの星空の下で生きている。しかしそれも後何分かの命だ。時間がくれば全て消える。俺も、あいつらだって。

そう思ったと同時に、情けなくも今まで我慢していた涙がこぼれた。家族の前では絶対に見せられないと涙を止めようとしても止まらなくて。本当はずっと怖かった。死ぬことがじゃない。別れがくるのが怖かった。あの時子供に、どうしても泣き止んで欲しかったのはそれだ。自分の姿と重なってしまうから。ごまかしていた思いが溢れ出しそうだったから。

たっぷり5分ほど泣いたところでいい加減家に戻らなくてはと振り返る。これ以上外にいてはお袋や親父達が心配する。無駄な心配はかけたくない。そう思いながら振り返ると、すぐ後ろに幽が立っていた。

「っわ!?お前、いつから」
「見てたよ」
「な、何を」
「全部」

あっけらかんと答える幽は、涙を拭い濡れた俺の手を取りじっと見つめている。

「別に俺の前で泣いてもいいのに。それくらいの不安喜んで共有するよ。兄弟なんだから」
「な、んだよ。それ」
「大丈夫。兄貴は俺が守ってあげる」

胸を張る幽にふは、と笑いがこぼれた。これじゃあどっちが弟か分からない。涙でぼやけた視界の中幽を見ると、微かに微笑んでいる気がした。俺を安心させようとしているんだろうけれど、手の震えだけはごまかせられなかったみたいだ。強がっているだけでこいつも相当怖がっている。

怖い、でもだからって泣いてばかりもいられない。世界が終わる時に笑っていられたら、そしてそんな中ででも世界が終わって寂しいなと思えたら。泣いて後悔して、そんな結末よりは遥かにマシだ。

「寒くなってきたね。そろそろ入ろっか」
「だな…」

俺達を見下ろす星空は相変わらず嫌なるほど綺麗で、それを見て最後に一滴だけ、涙が頬を伝い落ちた。





ぱちぱち


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