間抜けな声をあげながら俺から距離をとる男にあえて詰め寄ると、ぐいと肩を押された。その顔には拒絶の色が色濃く滲んでいる。こいつが俺を拒絶することなんて珍しくて、肩を掴まれたままの手を振り払うことすら忘れてしまった。
「あんま、近寄らないでください」
「なんで?」
「……どうしても」
 頬を赤くしながらそう言う奈倉を前に思わずこくこくと頷く。でもこの状況じゃ奈倉に掴まれていて離れることができない。それに気づいているのかいないのか、手が離れる気配はなかった。
 普段は俺に触るどころか会話をするだけで嫌そうな顔を見せるのにこの変化はおかしい。異常だ。少し前までの俺なら原因を特定することに楽しみを見出せていたのかもしれないが、今は違う。
 なんとなく、嫌な予感がした。
「ねえ奈倉、お前もおかしくなったの」
「……ちが、」
「奈倉?」
「違うんです、マジで……。俺は、くそ」
 奈倉の手が震える。まるで、今この状況が受け入れられないと言わんばかりに。
「きし、岸谷がぁ、あいつのせいで変になるし、うえっ。なんか、おれ、べつに……普通だし、なんでなんだよぉ」
 ぎり、と手に力が籠められた。やばい。シズちゃんとは違う危険を今の奈倉からは感じる。それに道の真ん中でこんなことをしていたら、あらぬ疑いをかけられてもおかしくはない。体が逃走体制に入る。一体今日は何人から逃げればよいのだろう。相手は奈倉だし、事務所が目の前だからどうにでもなるといえばなるのだが。
 そういえば俺、奈倉に合鍵を渡していたんだった。いつでも呼んだらすぐ来れるようにという意図のもと渡した鍵がこんなところで裏目に出るとは。いやいい、もしも侵入してきたら波江さんにでも追い払ってもらおうか。相手は奈倉だ、なんとでもなる。
「あんなもの、飲まなきゃよかっ……ふげらっ」
 べそべそと半泣きで情けない声をあげる奈倉の頭に、何かが飛んできた。それはアスファルトの上でくわんという金属音を発てながら回り、やがて止まる。その物体の正体がスチール製の空き缶であるとわかった時、俺は逃げられない運命を悟った。奈倉はというと地面に倒れ、身じろぎひとつしていない。
「おーい、臨也くんよぉ、俺から逃げれるとでも思ってんのか?」
 魔王降臨。
 この言葉が頭を過った。これ以上の面倒ごとは勘弁してもらいたい。今回の非日常の連続は俺にとって不愉快でしかないのだから。
 早くこのくだらない茶番劇を終わらせたい。そのためなら俺はなんだってやってやると思ってしまうくらいには俺は疲れていた。
 近づいてくるシズちゃんの手を握る。ぞわ、と何か背中を走ったが知らないふりを決め込んだ。
「なに、」
「ねえシズちゃん。なんか俺舌痛くなってきたから新羅のところに行きたいなぁ」
 にこり、笑顔付きで言えば、シズちゃんは頷き一つで快く了承してくれた。と同時にまたもや担がれる。
 ちょろい、ちょろすぎるよ平和島静雄。俺に執着している今のこいつに同調すれば何でも言うことを聞いてくれるんじゃないだろうか。もし本当にそうだとしても実行するのはすべてが終わってからだ。
「臨也、こいつはなんなんだ」
「あ、ついでだから一緒に連れてってよ」
「……わかった」
 片方の肩に奈倉を担ぐと、気絶しているはずなのにふぎゅと奇声をあげた。その声を無視しシズちゃんは進む。新宿から池袋までシズちゃん号で移動することにもう抵抗なんてない。慣れとは恐ろしいものだと言うが、それよりも諦めの方が怖い気がする。
 正直、新羅の名前が奈倉の口から出てきた時点で嫌な予感しかしないんだよなあ。当たっていなければいいけれど。




「おい、お前なにをした」
「んー、小遣い稼ぎかな」
 新羅の家に着き、シズちゃんにインターホンを連打してもらう。ほどなくしてドアを開けた新羅に間髪いれず問い詰めると、笑顔と共に出てきた言葉に頭が痛くなった。嫌な予感的中か。
 悪びれた様子もなく、俺らをリビングへと通す。シズちゃんの手によりソファへと降ろされた俺は、床に投げ捨てられた奈倉の髪の毛を鷲掴みにして頭を無理やり持ち上げた。
「やっぱり臨也だね。さっすが。どう、どこまで気付いた?」
「お前が何か変なことしているんじゃないかってことくらいだよ。ちなみに情報源はこいつ」
 目覚めない奈倉の頬に何発か平手打ちを喰らわすと驚いたように瞬きをし、あたりをきょろきょろ見渡し始めた。そんな奈倉の様子を凝視しているシズちゃん。今この空間は笑えるほどの混沌に満ちている。
「奈倉くん、どうして君は臨也に対してそんなに口が軽いのかな。調教の賜物?」
「そんなわけないだろ。お前が首無しになんでも喋るのと同じだ」
「じゃあ愛だ。愛されているんだね臨也は」
「いつもにも増して冗談が雑だぞ」
 俺らの会話にようやく意識を覚醒させたのか、奈倉の顔がみるみるうちに青ざめていった。元から細い体が今日は何倍も細く見える。
「い、いざっ」
「うん、臨也だよ」
「きした、」
「うん、岸谷だよ」
 新羅は奈倉の反応が楽しいといわんばかりにへらへらと笑っていた。
 こいつは魔王よりももっと質が悪い。昔っから黒幕気質なんだ。演技で取り繕っている俺の比にならないくらい。
 忘れていた、と新羅が立ち上がりキッチンへ消える。何をするつもりか訝しんでいると、紅茶とミルクが注がれたカップを持って戻ってきた。笑顔を浮かべながら俺とシズちゃんの前に置かれたそれを軽く一瞥し、飲まないでおく。飲んではいけないと本能が告げていた。そしてこういうときの自分の直感は嫌というほど当たる。
「……飲まねえの?」
「っわ」
 そんなことを考えていると、横からにゅいとシズちゃんの顔が現れた。息がかかるほどの距離に驚いて避けようとすると、新羅が呆れたような声をあげる。
「こらこら静雄。いくら薬の影響だからって、僕とセルティの愛の巣で変な気を起こさないでくれよ?」
 新羅の言葉が耳に届き、すぐに意味のある文章になっていく。そしてその意味を理解する直前に俺のなかで拒絶反応が起こった。だってそうだろう。こんな馬鹿らしい話があってたまるか。
「……新羅今、」
「僕が渡した薬を飲んだ影響で臨也に近付きたくなる気持ちはわからないでもないけれど、そんなことは僕の見ていないところでしてくれって言ったんだよ」
 にんまりと新羅の顔に笑みが浮かぶ。その表情は俺の専売特許のはずなのだが。頭痛が一段悪化したような気がした。
「的確に俺の知りたいことを教えてくれてありがとう」
「当然じゃないか。僕らは友達だろ?」
 今日の新羅の笑みは裏に何か意味があるように思えてならない。機嫌がいい、というわけではなさそうだ。何かを隠しているような、それでいて怒っているような雰囲気さえ感じる。
「例えばの話をしよう。人間が人間に対し嫌悪感を抱くことは日常ありふれているけど、それがもし世の中からなくなればどんなに世界は平和になるだろうか。嫌悪、という概念すら存在したいんだから争いなんて起こらないよ」
「争いの原因なんて嫌悪だけが理由じゃないだろ」
「そうだね。でも僕は考えたんだ。僕の周りから嫌悪という余分なものがなくなれば、少なくとも僕の世界はもっと平和になるんじゃないかってね」
 新羅が何を言いたいのか、少しずつ、わかってきた。
「薬の効力は、嫌いな人間への思いの強さをそのままプラスの方向へ変える。憎めば憎むほど、何年も熟成させたどろどろの愛に変換されるんだ。まだ試供品の段階だし、改良する箇所はたくさんありそうだけどね」
 紅茶を飲む姿がやけに演技かかっているように見える。こくりこくりと喉を鳴らして飲む姿を見ても、俺は自分に出された紅茶を飲む気にはなれなかった。何が入っているかわかったものじゃない。今の話を聞いてしまえばなおさらだ。
「ぶっちゃけ、君らには仲良くしてほしいんだよ。俺はさ」
 紅茶を飲み干した新羅がふう、と疲れたように息を吐く。
「門田くんにも飲ませようかと思ったんだけれど、彼はまず誰かを嫌いになるってことをあまりしない人だし、嫌いになったからといって何か問題を起こすわけでもなかったからさ、とりあえず君たちにって」
「来良の子たちにも渡したのか」
「どうだったかな。覚えていないけれど。試してくれる人は多いに越したことはないからね」
 把握しきれていないのなら意味がないと思うのだが、こいつにとっては一向に構わないらしい。適当さの隙間にやはりどこか嘘が隠されているような気がして必死に考えてみたのだけれどだめだった。俺に新羅の嘘は見破れない。
「あの薬、あんたが作ったんすか……」
「え? 無理無理、いくら僕でも薬なんて作れないよ。医者という仕事の定義をもう一度確認することをオススメするね」
 奈倉の問いかけに飄々と答える。
「父さんの会社が、と言ったどころでわからないだろうし、まあいいや。とりあえず死にはしないよ大丈夫さ」
 死んだところでどうせ何も思わないくせに、という言葉をどうにか飲み込む。今の新羅は、纏っている雰囲気がいつもと違う。そして言えるのは、今の新羅は嫌いだということだ。
「あれ、静雄、なんか大人しいね? このままじゃ僕らで懐かしい中学時代のことについてお話をはじめちゃうよ?」
「おいちょっと待てまってくださいお願いします」
「……いざや」
 主人の帰りを待つ犬のように、俺の顔を見ているシズちゃん。今の話を聞いて自分の感情に自信でもなくなった? どうだろう。本来の平和島静雄が少しでも残っているのなら、俺と一緒にいることにすら拒絶を示しているだろう。その中で無理やりに作られた折原臨也を肯定しろという感情がせめぎ合っているのだとしたら、そんなに馬鹿げたことはない。
「シズちゃん」
「ん」
「シズちゃんはね、いつもの方がいいよ」
 意味がわからないというような顔で俺を見るシズちゃん。俺の声は普段のシズちゃんに届いているのだろうか。
優しくされるよりも普段の方がいいなんて、俺も頭がおかしくなったものだ。でもこれが本音なんだからしかたない。俺に優しいシズちゃんなんてシズちゃんじゃないと思ってしまったのだから。
「新羅、俺帰るから」
「これだけの説明で納得したの?」
「してないさ。でも本筋さえ知ってしまえばあとはもういいや」
「……薬の効果は長引いて一日だよ」
「りょーかい。シズちゃん行こうか。多分そのうち切れるだろうし」




「さっきの、どこまでが本当のことなんですか?」
「ん?」
「嫌いがうんぬんって」
「……昨日の夜、セルティが父さんの白衣にケチャップを飛ばしてね。そのお詫びに試作品の薬を広めろなんて言われてさ。聞いた話じゃ自分はセルティに嫌われているからって、その薬でなんとかしようとしていたみたいなんだけれど。閑話休題。面倒ごとを押しつけられたセルティがあまりにも可哀想だったんで僕がとある子に、僕の知人たちに適当に配るように頼んだんだよ。だから臨也の周辺でばかり変化が起こるのさ。もしかしたら他のところでも何かが起こっているかもしれないけれど、そこは僕の管轄じゃないからね」
「はあ……」
「でもあそこでセルティの名前だしたら臨也怒っちゃうから。『いつもいつもセルティを優先して』って。にしてもあいつ相当嫌われてるんだなぁ。確かに中身は最悪だけどさ、そこまで嫌悪を抱くほどでもないだろうに。わかんないなぁ。慣れれば扱いやすいものだよ?」
「まあ、そうでしょう。それが普通の感覚ですから。あんたが特別なだけですよ」
「……でも奈倉くんはいつも変わりないねえ。真っ先に君に薬飲ませたのにさぁ。しかも自分から臨也のところに行くなんて」
「変に勘ぐるのマジでやめてください」
「実際はそんなに嫌いじゃないの? それを知りたくて実際に臨也に会いに行ったんじゃないの? あれ、試作品といえど完成度は結構高いはずなんだけどなぁ」
「それ以上言ったら本当にキレます」
「それはこわいなあ」



「ただいま」
「おかえりなさい。あら、ぼろぼろね」
「シズちゃんと喧嘩してきた……」
「なんだいつものことじゃない」
 誰が新羅のマンションから出た瞬間に襲いかかられると思うんだよ。
 突然魔法が解けたかのように我にかえったシズちゃんは、俺という存在が視界に入っていたことすら煩わしいのか道路に向かって思いっきり投げようとしやがった。命からがら逃げたと思ったら始まる鬼ごっこに、俺の体力と気力は底をついた。呆気なく捕まった後にされたことは、一生思い返したくはない。
「ひどい目にあった……なんであんなにいい笑顔してんだよ……死ねばけものめ……」
「どうでもいいけれど、コートが破れているのはなぜ?」
「俺に聞かれても知らないよ! あいつが勝手に破くんだから! ……あれ 、三好くんまだいたの?」
 事務所の中へ足を進めると、三好くんが静かに紅茶を啜っていた。その光景についさきほどのことを思い出し、苦いものが広がる。
 あいつの周りを平和にしたいという理由も全くないわけじゃないんだろけれど、それにしては何もかもが雑すぎる。新羅にとって今回のこれは、面倒だから全部手放した結果色々なことが起こってしまいました、くらいの認識でしかないんだろう。そのせいで俺がどうなっても、あいつは結局自分の世界が守られていたらそれでいんだ。なにそれ、とてもムカつく。
「臨也さんおかえりなさい。それで、どうでしたか?」
「どうって何が」
「杏里や静雄さんに会っていないんですか?」
 傷の手当てをしようと救急箱を片手に三好くんの向かいのソファーに腰掛ける。傷口に消毒液をかけながら応対しようとする俺に投げられた疑問が頭に引っかかる。そういえば元々この子に誑かされ池袋に行ったようなものだった。何も知っていないはずがない。
「君さ、新羅から何か聞いたの?」
「昨日の夜にメールしたんです。 最初は世間話だったんですが、だんだん池袋の話になっていって。その時に僕は部外者だからって特別にいろいろ教えてもらったんですよ。で、どうでした?」
 特別にいろいろ。そのいろいろを詳しく聞きたかったが、シズちゃんは元に戻ったし園原杏里も黒沼青葉ももうじき元に戻るだろう。そう考えれば、この件については深く首を突っ込む必要はもうないのかもしれない。
「うん、疲れたかな」
「そんなものですか?」
「君は何を期待しているんだよ」
「臨也さんならもっとテンション高く帰ってくるかと思ったんです。ちょっとだけ期待ハズレでした」
 勝手に期待され失望されたようだ。俺のどんな姿を見たかったのかわからないけれど。
「俺だって人間だからね、疲れる時は疲れるよ」
「……あなたからそんな言葉が出てくるとは驚きです」
「君の中で俺は化け物か何かなのかな?」
「僕の中ではそうですよ」
 とても嬉しくないことを言われてしまった。それも笑顔で。言葉を返さずあえて沈黙を作ると、それを何かの合図と受け取ったのかカップに入っていた紅茶を全て飲み干した。
「ごちそうさまでした。今度池袋に来たときにもまたよろしくお願いしますね。僕、もう行きます」
 おもむろに立ち上がり頭を下げる。多分もう会う機会はないだろうと思いながらも「またおいで」なんて言ってやるのは単なる社交辞令かどうか。言った俺自身よくわかっていない。
「僕のこと忘れないでくださいよ」
「覚えておくさ。情報屋の記憶力を舐めちゃいけないよ。昔言われたあの一言から日付まできっちり覚えているんだから」
「ありがとうございます。でしたら安心ですね。次くる時はもっと面白いことに関われたら嬉しいです」
 がちゃりと戸が閉まり事務所が元の状態に戻る。疲れを共に体外に出すように息を深く吐きながら天井を仰ぐと、カップを片付けようとしていた波江が表情のない顔を向けてきた。
「彼、ずっとあなたの話ばかりしていたわよ。飽きもせずによくあんなに喋っていられるものね。途中から相槌打たなかったのにお構いなしで喋っていたわ」
 さらりとなんでもないことだというような口調でそう告げる波江に、項垂れてしまう。今頃になって、傷口に消毒液がしみてきた。
「……俺、三好くんに嫌われてるのかなぁ」
「は?」



『今日は愛されてたようだな』
「なんだよ突然。そういうわけでもないだろ、あれは」
『いいじゃないか。たまにはな』
「せっかくの休日が潰れてなにが良かったのか説明してくれ」
『たまには無駄なことをして過ごすのもいいだろ。こうして、毎夜日課のよう行われるこのチャットのやり取りのように』
「よくわからないな。……あ、九十九屋良いことなら一つあったよ」
『なんだ?』
「どうやら、俺は嫌われている方が性にあっているらしいということがわかった」
『よし、これからお前の名前は折原マゾ也だ』
「は?」
『マゾ原エム也でもいいぞ』
「くたばれ」
『あ、切断された』
『…………』
『嫌われている方が性にあっているか』
『やっぱり折原はマゾヒストだな』
『しみじみ』



「あら、今日はもういいの?」
「いいのいいの。お腹空いたしね。今日のご飯なに?」
「今日は鍋にしたわ。きちんと野菜も食べなさいよ。食べやすく小さく切っておいたから」
「あれ、なーんか優しいな。波江さんもしかしてきみもだったりする? どこまで拡散しているんだろ、あれ」
「……何の話かわからないけれど、人の好意を素直に受け取れなくなったら人間終わりよ」
「あはは、それは一理あるかも。じゃ、面倒なことは置いておいてとりあえず。いただきまーす」




ぱちぱち


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