「はーあ」

 無人になった屋上。
 フェンスに凭れ掛かりながら、ついさっき自分が吐いた言葉を頭の中で反芻させる。その言葉の持つ意味の軽さに少しだけ苦笑しながら、一人嘆息した。

 ――駄目だ。こんなんじゃ全然足りない。もっともっと、生きていることすら後悔させてやらないと。

 俺が今奈倉の前にいる理由はただ一つ。俺の一生をかけて、奈倉の人生を目茶苦茶にしてやることだけだった。無意味だと笑われてもいい。あくまで他人は他人だ。他人の意見なんて、俺は興味ない。奈倉をいかに苦しめることができるか、俺の頭にあるのはただそれだけだ。罪悪感なんてない。心配なんて、するわけがない。

 だって、そうじゃないと新羅との約束が果たせないんだから。

 一方的な口約束。それでも約束は約束だ。この約束がある限り、俺と新羅の仲が切れることはない。それと同時に、奈倉との関係も切れることは、ない。

 ヒュ、と風が吹いた。誰もいない屋上はどこか冷たくて、暗い。実際は太陽が差し、この上ないほど明るいはずなのに。
 振り返り、フェンス越しに広がる景色を見る。歩いている生徒たちの姿はまばらにしか見えない。そんな中、一つの影が逃げるような速さで校門を潜り、学校から出ていった。顔をはっきり見ずとも、あれは奈倉だ、と断言できる。
 俺から逃げる奈倉を、どこか冷めた目で見ている自分に気づいた。気づいたと同時に、ほぼ無意識に口が開く。


「……逃げるなら、そんなんじゃだめだよ」


 奈倉、ごめんね。俺、実は君に一つだけ嘘をついたんだ。


 君が死んだとしても、俺はほんの少しも君に囚われることはないだろう。
 過去が自分を逃がしてくれないことは本当だ。現に俺は、あの夏の日から一歩も前に進めてはいない。でもその過去は、『奈倉が俺を殺そうとした』なんて下らないものじゃない。『新羅が俺を庇って奈倉に刺された』という過去だ。新羅がいなければ、奈倉なんてどうでもいい。新羅がいるから、奈倉が俺の中にいる。あいつ一人の価値なんて何もない。それでこそ、生きていても死んでいても俺にはどうだっていい。
 フェンス越しの風景はやっぱり綺麗で、ここから飛び降りたら天国にだって行けるんじゃないかとさえ思えた。

 もちろん、そんな優しい夢、信じてなんかいないけれど。






 自分の荒い息が聞こえた。

 家に向かいがむしゃらに走っていると、すれ違う奴らが驚いたような顔で俺を見る。普段ならば多少なりとも苛立ちや不快感を覚えるはずの他人の視線が、全くと言っていいほど気にならなかった。
 それ以上に、臨也に言われたことの方が衝撃的で、絶望的で。他のことなんて小さなことのように思えてくる。

 俺はそんなに馬鹿じゃない。臨也に言われなくたって、生きる意味がないことも、そしてそれを見つけることすら許されないことも全部知っている。分かってる分かってる。だからこんなに悩んでいたのに。でも、もう駄目だ。限界だ。
 黒い感情の波に、ずぶずぶと心が飲み込まれる。

 死にたくない、はずだった。死にたくても同じくらい生きていたかった。でも理由が分からなくなってしまった。こんな辛い思いをしてまで生き続ける理由が俺にはもう分からない。いや、初めから分かっていなかったのかもしれないな。死が怖かっただけなのかもしれない。自殺であれ他殺であれ、ただ死ぬことが怖かっただけで、死にたくないから生きていようと思っただけだったんだ。そうだ、きっとそうだ。自分の意志で生きたいと思ってたわけじゃないんだ。そりゃそうだよな。ああ、もう辛い辛い辛い。結局俺は一人だ。誰も俺を助けてはくれない。今も、こうやって苦しんでいるのに。助けてほしいのに。どうして俺は生きているんだろう。ずっと苦しくて、でも死にたくなくて。今まで無様に生きてきた。これから先も同じように生きていくんだろう。なぁ、そんな俺に一体何がある。他人にわざわざ生きている価値がないなんて言われなくても分かってるんだよ。くだらない、ゴミみたいな救いようのない人生だ。死んだ方がいいんだろう?生きる意味がないんだから。意味を探すために生きているなんて綺麗事は唾を吐いて踏みにじりたい。ああ、そうだな、普通はそうだよな。生活していく上で自分の存在価値を見つけるんだろう?それも知ってるよ。じゃあ俺はどうすればいい?探すことすら出来ない俺はどうすればいいんだよ。逃げたい誰か助けてくれよ。なあ、頼むから。


 いつのまにか、見慣れたアパートの前に立っていた。息が上がり、足がガクガクと震えている。吐き気さえ込み上げてきた。
 それも束の間。自分が立ち尽くしていると分かった途端、衝動的に走り出していた。自分の部屋の前へと続く階段を駆け上がる。潤みぼやける視界に、ああ俺は泣いているんだなと気付いた。だから皆俺のことを見ていたのか。なるほどな、そりゃ見たくもなる。別にもう、どうでもいいけれど。
 滲む視界では鍵穴に鍵を差すことすらままならず、たったそれだけのことなのに妙におかしく思えて、口から笑い声が漏れた。
 戸を開ける。部屋の中はがらんとしていて静かで暗くて、そしてどこか冷たい。まるで俺の人生みたいだ。目の前に広がる光景に、さっきから俺の中で呪いのように押し寄せてくる負の感情が一段と濃くなった。冷静な考えなんて最早出来やしない。
 あらゆる感情の爆発が、一つの結論にたどり着いた。そしてその言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。吐き気が止まらない。心臓がやけにうるさい。今すぐにでも頭を掻きむしって叫び出したくなる衝動を、無理矢理抑え込む。
 無意識に、ふらふらとある場所へ足が進んでいった。それを止めようとは、思わない。

 震える足が台所に到着したのと同時に、もう後戻りは出来ない、と一瞬迷ってしまった。でもそれは本当にたったの一瞬で、次の瞬間にはガタガタと震える手が前へと伸びた。調理器具がしまってある棚の戸が、俺の手によって開かれる。
 ここまできたら、目当ての物は一つしかない。


 適当に、目についた包丁を抜き取る。刃が鈍く光るそれを、ぎゅ、と右手で力強く握った。
 これで全部終わるんだ。全部。全部全部全部全部全部何もかも終わって解放される。臨也からも俺を取り巻く全ての物事からも。
 相変わらず目からはボロボロと涙がこぼれ、嗚咽のせいで上手く呼吸をすることすらままならない。

 ――今しかない。このまま冷静になる前に早く。『一生を後悔して、そのまま死んでよ』なんて。よかったな、臨也。お前が俺にしているのがあの日の復讐なんだとしたら、これ以上の成功はないだろうよ。
 頭の中の呪いの言葉は一向に止む気配を見せない。死ね、死ねと頭の中で何度も流れ、おかしくなってしまいそうになった。それでもおかしくなる後一歩のところで止まれたのは、狂ってしまう前にやらなければならないことがあったからだ。生き地獄に堕ちるくらいならば、一縷でも望みのある死を選ぶ。

「……幸せに、なれっかなぁ……」

 俺の言葉に答えてくれる人なんかがいる訳がない。分かりきっていたことだけれど、ほんの少しだけ寂しくなった。


 包丁を振り上げる。

 恐怖が一気に倍増して、呼吸が乱れる。落ち着こうとはあ、と大きく息を吐いたと同時に、噛み合わない歯がガチガチと音を発てた。それでも、俺は止めなかった。
 舌を軽く噛む。小さな痛みが妙に心地好い。あそこで飛び降りるのと、今ここでこうやって死ぬのとじゃどっちがよかったんだろうなんて、今更考えても意味のないことが頭を過ぎる。

 死にたくなかった。でも、生きていたくもなかった。


 包丁を勢いよく振り下ろす。涙はまだ出続けていたけれど、鋭い痛みを感じたと同時にそんなこと、わからなくなってしまった。


※続きます


ぱちぱち

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