ゼロから始めるロマンス | ナノ

無敵の呪文

 初デート、と呼んでいいのか、パン屋さんまでの孤爪くんとのお出かけが実行されたのは、二年生最後のテスト期間真っ只中のことだった。
「最後の問題、難しくなかった?」
 物理のテストの話をしながら、私たちは、目的の駅に降り立った。
「うん。最初ひっかかりそうになった」
 孤爪くんは、なんだか嬉しそうに、言っていた。
「だけど問題さえ理解できれば、解き方は単純だったよ」
 と付け加えながら。
 流石だなあ、と私は感心する。たぶんだけど孤爪くんはクラスの中でも、かなり頭が良い方の人だ。お互いの成績を打ち明けあったことも、漫画みたいに順位が壁に貼り出されるようなこともないけれど、同じクラスにいると、なんとなくそういうことはわかってしまう。
 明日の数学についても教えてくれないかな。と思いつつ、それよりも孤爪くんの言動に気になったことがあって、それは、
「でもおれ、ああいう問題、嫌いじゃないよ」
 というものだった。
 話の内容に違和感を覚えたわけじゃない。
 ただ、嫌いじゃない、とか、好きじゃない、みたいな言葉をよく使う人だなあ、という気づきが妙に頭に残ったのだ。

 外はよく晴れていて、三月にしては温かい日だった。ブレザーの下に着込んだ長袖のセーターが暑く感じられるくらいである。初めて降り立つ駅は街道のすぐそばにあって、車通りが多く忙しない印象を受けたが、孤爪くんの後をついて一本路地に入ると、途端に閑静な住宅街へと姿を変えた。
 そのまま孤爪くんは、家と家の隙間を縫うように、細い路地へと入っていく。
「こんなわかりにくい道、通るの」
 と聞けば、だって静かなほうがいいじゃん、と孤爪くんは振り向きもせずに答えた。家々の影で道は昼だというのに薄暗く、ときどき敷地からはみ出た植栽により細い道はさらに狭くなっている。まるで猫の散歩道だな、と私は思いながら、導かれるままに孤爪くんの背中を追いかけた。
 そのまま十分ほど歩いただろうか。辿り着いたパン屋さんの中は思った以上に賑わいをみせていた。平日の、お昼を過ぎた時間であってもまだ人がこんなに入るのかと、店の人気に少し驚く。それから、きっとそれだけ美味しいのだろうと、わくわくした。ゆっくりと扉を押し開けば、カランカランと鐘の音が店内に響く。それと同時にバターの香りがふわりとこちらに漂ってきた。一番に目についたショーケースの中では、柔らかな色をした明かりを跳ね返すようにツヤツヤとしたパンが輝きを放っている。
「わあ」と思わず私の口からは声が溢れた。
「ねえ、孤爪くん、どうしよう。全部美味しそうだよ」
 見て見てと、その光景に目を奪われたまま私は孤爪くんを手招く。メロンパンにクリームパン、孤爪くんの好きそうなフルーツの乗ったデニッシュもある。
「全部食べたい」
「でも、食べきれるだけがいいんでしょ」
「そう。そうなの。そうなのよー」
 頬に手を当てながら私はどれにしようかと悩んだ。孤爪くんはどうするの。私が聞くと、孤爪くんはボソリと
「おれ、なんでもいいから、苗字さん選びなよ」
 と言ってくる。それに、どうして、と私が聞く前に
「そしたら好きなの色々食べれるでしょ」
 と答えた。
「でも2個くらいにしてね。それ以上は食べきれないから、次また来た時にして」
 いいの。と確かめると、孤爪くんは、うん。と小さく頷いた。
「そのために来たんだし」
 
 パン屋さんを出たあと、私たちは近くにある公園のベンチに腰をおちつけた。傾きだした午後の日が、私たちの上半身に射している。敷地内に植えられた木々には緑が戻りはじめていて、奥には梅だろうか、ピンクの花が咲かしている木もあるようだった。
「なんだか、のんびりしちゃう天気だね」
 ほう、と私が脱力すれば、
「わかる」
 と孤爪くんは、目を細めて太陽を見上げた。
「平日って感じがしない」
「いつもならまだ部活中?」
「うん。休みってやっぱいいよね」
 孤爪くんがしみじみ言う。その口ぶりが面白くて私が笑って答えずにいれば、孤爪くんも頬を緩めた。
「ありがとね、孤爪くん」
「うん?」
「せっかくのお休みなのに付き合ってくれて」
「いいよ。こういう時間は嫌いじゃないし」
 そう話す声もしみじみとしていた。
 気持ちが騒ぐ。撫でるような風が吹く。カサカサとパン屋の袋が音をたてる。ねえ、半分こしようよ。落ち着かない気持ちを誤魔化すように、私は買ったばかりのまだ温かいベーグルを孤爪くんに差し出した。

「あ、けっこう固い」
 私がベーグルの真ん中に親指を押し当てながら言うと、かして、と横から孤爪くんの手が伸びてきた。少し潰れても平気? との問いかけに頷けば、孤爪くんが器用に半分に割いてくれる。
 孤爪くんは袋から自分の分を取り出すと、はいと半分を私に返した。断面から中に詰まった白餡が溢れている。
「これなんなの」
 孤爪くんに聞かれて、白餡と苺と私は答えた。口にあうだろうか。独断で選んだ手前、どきどきしながら、私は孤爪くんが頬張る様子を眺めていた。
「うまっ」
 大きな目をぱちぱちとさせて孤爪くんが言う。想定よりもずっと良いリアクションに、今度は私が目を瞬かせた。もっと「まあまあ」とか「それなり」みたいな反応かと思っていたのだ。それなのに、まさかこんなホクホクと満たされたような顔を孤爪くんがするなんて。
「かわいい!」
 と思わず叫びたくなるのをぐっと堪えて、
「美味しい?」
 と私は訊ねた。
「うん」
「春限定ってなんだって」
「春か。もう一回くらい食べれるかな」
「春休みとか?」
「いや、休み入ると逆に部活忙しくなるから」
 孤爪くんがまた一口パンを齧った。片方の頬を膨らませてモグモグと噛んでいる。しばらくそうしたあとに、ごくんと喉を揺らすと
「卒業式」
 孤爪くんは、ポツリと呟いた。
「え」
「次の休み」
 ああ、と私は答えた。あまりその日のことがピンときていなかった。言われてみれば先生が何か言っていたような気もするが。
「出るんだっけ、私たちって」
「らしいね」
「いつ」
「来週」
 もうすぐじゃん。私が言うと、孤爪くんが薄く笑った。
「なんで何も知らないの。話聞いてなさすぎ」
「だって、関係ないと思って」
 テスト終わったら、卒業式練習だって、と孤爪くんが言う。
「そんなこと言ってたっけ」
「いや。これはクロから聞いただけ」
 すでに部活動を引退した黒尾先輩だが、登校日は登下校を一緒にしているとのことで、連絡が来たらしい。
「先輩が卒業したら、孤爪くん寂しくなっちゃうんじゃない」
「え、クロはべつに。いつでも会えるし……でも確かに他の二人は今までみたいには会えなくなるよね」
 孤爪くんの声はたんたんとしていて、そこに寂しさや悲しみみたいなものは、感じられなかった。けれどその口ぶりや表情からは、先輩たちに対する親しみが滲み出ている。きっと良い関係だったのだろう。なんだかいいな、と私は羨ましく思った。
 私も面倒がらずに部活とかやってみればよかった。私が呟くと、孤爪くんは頷いた。
「苗字さんは、うまくやっていけそうだよね。上とも下とも」
 そうだろうか。自分で言うのもなんだが、私は輪の中心とは無縁なタイプのはずだ。休み時間は決まった友人たちとひっそり教室の端にいて、呼ばれたときだけ当たり障りなく言葉を返すようなタイプだと思っていたのだけど。
「孤爪くんも、そうじゃないの」
「おれは、いろいろ言われるほう」
「いろいろ」
「生意気、みたいな」
 本当にあるんだ、そういうの。私が言うと、孤爪くんは小さく頷いた。
 会ったことのない、そしてきっとこの先も会うことのないその上の人たちと過ごす孤爪くんのことを、私は想像してみた。想像の中の孤爪くんは、とても静かにその人たちを見つめている。

「怖かったんじゃない、孤爪くんが」
 次のパンを選びながら私は言った。残りのパンは二つ。クリームパンとりんごのデニッシュだ。はいこれ、と私は孤爪くんにその中からりんごのデニッシュを差し出した。分けなくていいの。という孤爪くんに頷いて、その代わりクリームパンを確保する。
「たまに言われるんだけど、おれそんなに怖い?」
 慎重にりんごのデニッシュをポリ袋から取り出しながら、孤爪くんが聞いた。孤爪くんが口を寄せて齧ると、サクリという音が微かに聞こえる。
「私は思ったことないけど」
 でも、と私は言葉を悩みながら、小さく続けた。
「先輩にそういうことを言われるってことは、孤爪くんが先輩よりも上手かったり、意見できたりするってことでしょう。そうすると、孤爪くんがその先輩を怖がってないことが、わかっちゃうじゃん」
「よくわかんない。同じチームなのになんで怖がらないといけないの」
「だって孤爪くんは後輩でしょう。普通、自分より上だと思ってる人のことは、怖がるものだよ」
「そういうの嫌い。生まれたタイミングだけで、人を怖がるなんて出来ないよ」
 私の言葉に孤爪くんは、ムッとすると、
「年齢でレベルが決まるわけでもないのに。なんでそんなもので人の上に立てると思ってるのかもわかんない。年下でも、同じ年でもおれよりすごいやつはいくらでもいるし、年上ですごい人は年が上だからすごいんじゃなくて、その人が努力してるからすごいわけでしょ」
 とツケツケと言いのけた。
「優劣は年齢ではなく能力で比べるべきだ」
 というのが孤爪くんの論というわけだ。
 真っ当な意見だと思う。孤爪くんの意見は、強くて、正しい。
 しんとした気持ちで、彼の言を受け止めていれば、ふいに
「ていうかそもそも、怖がる必要がないよね。味方ならそれを使って強くなればいいだけだし」
 と孤爪くんが呟いた。横顔をうかがえば、孤爪くんの目が、す、と細まり薄い唇が弧を描く。
「敵ならその分、長く遊べるってことでしょ」

 孤爪くんの言葉に、私がぽかんとすれば、しんとした空気が私たちの間に漂った。孤爪くんの言っていることが、よくわからなかった。けれど「長く遊べる」という言葉に、じわじわと何とも現しがたい気持ちが込み上げてきて、やがて、静寂をさくように私は声をあげて笑いだしていた。
 急にケラケラと笑う私に、孤爪くんは戸惑うような、引いたような顔を見せたけれど、今はその顔すらも面白い。
「孤爪くんって、そういう人なの?」
 目尻に浮かんだ涙を拭きながら、私は訊ねた。そういうって。孤爪くんが怪訝な顔で聞き返す。でも、それに対する答えは特になくて、私は笑いながら首を横に振った。
 それから両手で口元を覆う。自分で自分の顔がにやけているのがわかった。冷たい風が高揚する体に心地よい。深く息を吸い、私は呼吸を整える。
「好きだよ、孤爪くんの考え方。すごい好き」
 伝えると孤爪くんはいつもの如く、怪訝そうに顔を歪めた。よく言うよ、あんな笑っておいて。恨みがましく言われて、私はまた「あはは」と声を出して笑ってしまう。
「でも本当だよ」
 私だったら絶対にあの言葉は出てこなかった。
 そう思ったとたんに、墨のような黒々とした気持ちが胸にじわりと滲みこんでくる。
 孤爪くんは、難しい顔をしたまま、もう一度デニッシュパンに口を近づけた。髪の毛が口元に近づいて鬱陶しそうだった。せめて耳にかけるなどすれば良いのに。ぼんやりとその横顔を眺めながら、私もクリームパンを頬張った。ふんわりとした優しい甘さが口にひろがる。
「美味しいね」
 にこりと言いながら、私は頭の中では次の話題を探していた。そういえば、数学わからないところがあって。そう思いながら、さもふいに思いついたかのような声を、喉の奥で探している。

 ◯

「あらあらあら、誰かと思ったら、ココアちゃんじゃないですか」
 黒尾先輩の声に、私は、後ろを振り返った。何人かの生徒がいたが、みな知らぬ顔で通り過ぎていく。「いや、きみきみ」と呼ばれ、「私?」と自分を指さしながら、私は階下からやってきた黒尾先輩に向き直った。
「あの、その呼び方って」
「気に入らない?」
「だいぶ、かなり、恥ずかしいです」
 はは、と笑い黒尾先輩は私の顔を覗き込んだ。お名前は。そう聞きながら、私の目をみつめてくる。
 苗字ナマエです。素直に私は答えた。黒尾先輩は一つ頷き、「黒尾鉄朗です」とにこりと笑う。
「聞いたよ、研磨と付き合ったんだって」
 そう言いながら、黒尾先輩は階段を登ってきた。私のいる場所から2つ下の段までくると、手すりに背中を預けて立つ。
「どう、上手くいってる?」
 上目遣いに訊かれる。こないだちょっと出かけました、と答えれば、黒尾先輩は、
「それは何より。仲良くやってるなら良かったよ」
 と肩を撫でおろした。
「面倒くさいヤツだけど、よろしくたのむね。研磨のこと」
 よろしくだなんて。私は反射的に首を横に振る。私たちが順調に見えるなら、それは孤爪くんのおかげだった。孤爪くんの歩み寄りによって、私たちは関係を保てている。
「だから、お世話になってるのは、私の方です」
「そっか」
 なら、ますます良かった。黒尾先輩がうつむきがちに呟いた。ため息のような声に黒尾先輩の心配が重く込められている、ような気がする。その横顔に公園での孤爪くんの話を思い出した。もしかしたら、卒業に不安や寂しさを抱いているのは、黒尾先輩のほうなのかもしれない。
「にしても、あの研磨がねえ」
 遠い昔を懐かしむように黒尾先輩は、ぼんやりと遠くを眺める。
 その様子に、私は思わず居住いを正した。私を驚かせる孤爪くんの新たな一面。そして彼が疎んだ先輩との関係。口癖のようにいう「嫌いじゃない」ものたち。「あの研磨」という言葉には、私の知らない孤爪くんがずっしりと詰め込まれているように、感じられたのである。
 それで思わず、
 「でもちょっと、無理矢理、仲良くさせてしまっているんじゃないかなって思うときもあって」
 などと私は口を滑らせてしまっていた。
「無理矢理? 研磨に?」
 聞かれて私は無言で頷いた。ふむ、と一つ頷いて黒尾先輩は優しく質問を重ねた。
「どうして、そう思ったの」
「私……孤爪くんに気持ちが無いって知ってたのに、勢いまかせに欲しがって、手に入れちゃったから」
 答えながら、私は告白に応じたときの孤爪くんを思い出す。
 それから何度も聞いた「嫌いじゃない」と呟く声。
 後者の言葉を私に向けられたことはないけれど、でも私は、それが今の自分の立ち位置なんじゃないかと思っていた。
 孤爪くんの嫌うものと比べたら「まだマシ」で、好きなものと比べたら「嫌いじゃない」存在。
 無数にある「普通」のなかの一粒のようなもの。
 それがきっと、孤爪くんにとっての、今の私だ。
 仕方がないと思う。だって私たちは、ただのクラスメイトだったのだ。私だって、つい数ヶ月前までは孤爪くんと付き合うなんて考えたりもしなかった。
 だから、孤爪くんは悪くない。わかっている。でも、それを感じるたびに私の心は騒めくのだ。
 なんで孤爪くんは、私のことを好きになってくれないんだろう。
 どうしたら、孤爪くんは私を好きになってくれるんだろう。
 このまま好きになってもらえなかったら、どうなってしまうんだろう。
 やっぱり違うってなに?
 いつまで、様子を見てくれるの?
 孤爪くんに、好きな人ができたら?
 それとも、本当に何も決めてなくて、なんとなく、急に言い渡されるものなの?
 ぐるぐると考えて、怖くなる。
 いつか終わりがくるのに。
 それなのに、私はどんどん孤爪くんを好きになっている。
 もはや孤爪くんと私の間にある気持ちの差異を埋めるには、なにか特別な魔法のような力が必要なように思われた。
 孤爪くんを、いいなりに出来るような、強い力が。
 だけどそれを求めることは、孤爪くんが嫌った人たちと、まるで同じ考えを持つことのようにも思うのだ。彼女という立場で、孤爪くんに何かを望めば望むほど。
「だけど孤爪くんから誘ってもらえるのは嬉しいし、また誘ってほしいな、とか、もっとちゃんとしたデートっていうか、付き合ってるみたいなこともしてほしいなとか考えてしまって」
 言いながら、私は思わず自分で自分に苦笑してしまう。
 油断をすれば、何もかもを望んでしまいそうだった。
 言いなりにしたくて、好きになったわけじゃないのに。
 でも、この立場を捨てて、片思いでも幸せだと言い切れるほどの慎ましさは持ち合わせていなくて。
「だからせめて、孤爪くんの中で終わりがきたときに、嫌いじゃなかったじゃなくて、楽しかったとか、好きまではいけなくても、ちょっと好きくらいの感想を持ってもらえるように、甘えてないで私も頑張らないといけないなーなんてことを最近は考えてます」
 ごめんなさい、急にこんなこと。はっとして私は慌てて頭を下げた。
「いいよー」
 黒尾先輩は軽い調子で答えてくれる。それから少し黙って、
「なんかわかるし」
 と呟いた。
 手すりから背中を離し、黒尾先輩が真っ直ぐに私に向き直る。
「引き入れちゃった以上、楽しんで欲しいし、始めてよかったって思われたいよね」
 はい。ボソボソと私は答える。できるかはわからないんですけど。
「まあね。こればっかりは結果論だし。でもナマエちゃんは、そんなに正しくいようとしなくても大丈夫だと思うよ」
 困ったものでもみるように、黒尾先輩は笑った。
「そんで研磨も大丈夫。絶対大丈夫だから、もうちょっとだけ信じて」
 ぽんと黒尾先輩の手が私の肩を叩いた。大きな手だった。軽く置かれただけなのに、ずっしりとした重みと黒尾先輩の温度が肩にしっかりと伝わってくる。
「先輩」
 ぐっと力をこめて、私は言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 小さな会釈を最後に、黒尾先輩は私の横を通り過ぎていった。振り返ることなく、私も階段を下っていく。

 喧騒の中を歩む私の足は、いつもより早足で、そのうち駆けるように動いていた。
 勢いをそのままに、私は空き教室の扉をあける。ガンと音を立てた扉に、窓際でまどろんでいた丸い背中が大袈裟にはねあがるのが見えた。
「びっくりするから、もうちょっと、普通に入ってきてよ」
 孤爪くんが、ゲーム機を胸に抱えるようにして言う。
「勢いあまって」
「なにをそんな急ぐの」
「気持ちが、ちょっとね」
 私は後ろ手に扉をしめた。今度はゆっくりと音を立てないように、そっと。
「黒尾先輩に会ったよ」
 言いながら私は孤爪くんの向かいの席に腰掛けた。へえ。ゲームのスイッチを切りながら、孤爪くんも座り直す。
 私は家から持ってきたお弁当を広げ、孤爪くんはビニール袋からパンとおにぎりを一つづつ取り出した。
「クロに余計なこと言われなかった?」
 孤爪くんが、そっけなく聞いた。
「余計なことって」
「べつに。言われてないなら、いいよ」
「孤爪くんのこと、すごい詳しいんだろうなとは思った」
「ねえーそれ絶対なんか言われてるじゃん」
「なんか弟子になりたくなるような人だよね。黒尾先輩って」
「はあ?」
 孤爪くんがぽかんとした。それから、大丈夫? と心配そうに聞いてくるので、私はつい笑ってしまう。
「大丈夫」
 もらったばかりの言葉で、しっかりと私は答えた。
 ならいいけど。孤爪くんが怪訝な顔で頷く。もしも変なこと言われたら、おれに言ってね。仮定の話にしては決然とした口調だ。
 空き教室から見る空は、今日も雲一つない青空だった。遠くで、烏だろうか、黒々とした点が空を横切っていくのが見える。釈瀬としない様子でありながらも、孤爪くんは黙々とお昼ごはんを消費していく。おにぎりを頬張る口のすぐそばで金色の髪が揺れていた。
 手を伸ばし、私はその髪を孤爪くんの左耳へと流した。
 瞬間、孤爪くんの体が硬直する。
「食べちゃいそう、だったから」
 私が言うと孤爪くんは、
「あ、うん」
 とうつむいた。
 じわじわと孤爪くんの耳が赤く染まっていく。それを見ながら、あれは嘘だったなと私は思う。本当は触れてみたかったのだ。キラキラと日に透ける柔らかそうなこの髪に。
「ねえ、孤爪くん」
 その手を離せないまま私は呼びかけた。
「好きだよ」
「……ズルい」
 孤爪くんはうつむいたまま、ため息のように、言う。
「なんも言えなくなる」
 孤爪くんの真っ赤になった耳と、萎びれた声に、私は泣きたいような笑いたいような気持ちだった。けれど泣きも笑いもしなかった。代わりに慎重に、真っ黒なつむじを見せる孤爪くんの頭に手を伸ばしてみた。
 柔らかな髪が、私の指と指の間をとおる。ずっとこうしてたいな。と呟けば、絶対ムリ、と孤爪くんの弱々しい声が聞こえてくる。

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