ゼロから始めるロマンス | ナノ

恋の確信

 負け姿にときめいたのは、初めてのことだった。
 たくさんの歓声も拍手も、カメラのフラッシュも気にせず、コートの真ん中に大の字に倒れたその人は、私の席からは数センチの小人のようにしか見えなかったけれど、それでも心から満足そうに笑っていることが全身から醸し出されるオーラみたいなものからよくわかった。
 すぐに上体を起こしたその人は、足を投げ出したままぺたんとコートに座ると、背後にいた「1」と描かれた服を着た人に振り返り、何か話しかけたようだった。そのままゆっくりと立ち上がり、半袖から伸びた手をだらんと垂れ下げ、猫のように背中を丸めたままネットの近くへと歩いていく。
(なんて、言ったんだろう)
 気になって、身を乗り出した。
 ガクンと段差につまずき、身体がよろめく。
 だから危ないって言ったじゃん、と友達に腕を引かれて、自分がその人を目で追うのに夢中になっていたことに気がついた。ごめん、と謝ったそのあとも、私の目はすぐにその人を追ってしまう。それどころか、解散して自宅に戻る道中も、ご飯のときも、夜眠る直前まで、私の頭の中はコートに寝そべるその人のことでいっぱいだった。
 恋だ。人知れず私は確信する。孤爪くんのことが、好き。それは一月のある日のこと。熱気溢れる東京体育館の隅っこで、前触れもなく始まった恋だった。

 ◯

 最近やたらと視線を感じる。
 視線を辿ると決まってその先には苗字さんがいて、目が合うと勢いよく逸らされる。
 これが最近のストレスだった。おれなんかした? 身に覚えのない視線にイライラする。だからといって、直接理由を聞けるわけもない。親しくないクラスメイト、ましてや女子に「おれのこと見てるよね」なんてそんなの誰が聞けると言うのか。絶対ムリに決まってる。
 だから、おれは先回りをすることにした。
 見つからなければ、見られない。
 先に見てても、見られない。
 だったら、おれが先に見つけて、その視線をブロックしてしまえばいい。
 放課後、自販機の前で先に姿を見つけたのもおれだった。苗字さんは気付いてない。このまま引き返せば顔を合わせなくて済むけれど、喉が渇いてたし、せっかく練習を抜けてきたのに……という勿体無さもあり、渋々と隣にならんだ。
 あ、と言う声がしたと思ったときにはもう遅く、コインがコンクリートを叩く音がいくつも鳴った。苗字さんの財布から散り散りになった小銭が、おれの足元にまで転がってくる。
 流石に無視もできないので、一緒に拾っていれば、
「ごめんね、孤爪くん。ありがとう」
 と苗字さんは言ってきた。急に呼ばれた名前と、すぐそばから向けられる視線が落ち着かない。べつに。おれは答えたけど、声が届いたかはわからない。
 こういうの本当にむいてない。そう思って、ここにクロとかリエーフがいたらいいのにと願った。おれの掌から、小銭を受け取る苗字さんの指先は、びっくりするくらい冷たくて、でもなんか柔らかくも感じて、なんだかまた落ち着かなかった。

 ◯

「研磨?」
 確かめるような声になったのは、見慣れた幼馴染のすぐ隣に、女の子がいたからだ。
 プリン頭を女の子の小さな頭にぶつかりそうなくらいくっつけて、何やら、自販機の下を覗いている。
 研磨は他人と馴れ合わない。極限られた人間にしか寄らないし、寄せつけない。そこに男女や年齢の差は無いようだけど、特に同世代の女の子があの距離にいることは珍しかった。珍しいというか、初めてみたといっても過言じゃない。
 何事? と聞けば、女の子ほうが先に口を開いた。
「私がお金ばら撒いちゃって、下に」
「なるほど。どれ買うつもりだったの」
「え……ココア?」
 好きそうな顔してんね。思いながら、俺はポケットの中に突っ込んだままだった小銭を取り出しココアのボタンを押した。いくら落としたかは知らないが、研磨で無理ならその小銭は諦めてもらった方がいいだろう。俺の腕なら届くかもしれないが、その隙間に捻じ込めるほど俺の腕は細くも無い。
 買ったココアを差し出せば、
「そんな、悪いです」
 と女の子は恐縮した。まあ、そうなるか、と思ったが買ってしまったのは仕方なし。後輩にご馳走するのは先輩の仕事デス、とふざけた調子で譲ろうとすれば、
「された覚えないけど」
 と研磨が口を挟んだ。そのままゆっくりと立ち上がり、じゃあおれ行くね、とそそくさと去っていく。
「バイバイ、クロ」
 女の子の名前は、続かなかった。ということは、やっぱり二人は偶然居合わせただけなのだろう。ピンチを助けてやったのだから、感謝しろよ。心の中で研磨に呟き、さてココアを貰ってもらわねば、と気を取り直す。
 しかし、女の子は、こちらの存在など気にもせずに、ただ真っ直ぐに研磨だけを見つめていた。
 まるでこの世界には、研磨だけしか存在しないとでも言わんばかりに。

 ◯
 
 これはもしかして、もしかすると……
「お邪魔でした?」
 ぽつりと訊くと、女の子は、ハッとしたようにこちらに向き直り、
「まさか! そんなことは、本当に、これっぽっちも!」
 などと勢いよく切り出したが、やがて「あー」だの「うー」だの呻いた後に、最終的には虫の鳴くようなか細い声で
「孤爪くんには、言わないで」
 と懇願した。
「研磨とは、どういう」
「同じクラスです。喋ったことは、ほとんどないんですけど」
「それはそれは。で……研磨のどこが良かったの」
 人の恋路に、ましてや初対面の下級生の女の子の恋愛に首をつっこむなんて無粋なことだ。そんなことはわかっている。わかっちゃいるが、研磨と言われちゃ話は別だ。
 部活のメンツや、数少ないトモダチだったらともかく、ただのクラスメイトの女の子と、あの冷冷たる男にいったいどんなロマンスがあったというのか。気にしないほうが不自然だ。
 じっと答えを待てば女の子は観念したように頷いた。
 全校応援あったじゃないですか。女の子は話し始める。
 孤爪くんが、すごく楽しそうで。教室だといつも静かで、難しい顔ばっかりなのに。あのときは、負けちゃったのに喜んでるみたいにみえて。そんな顔するんだって私びっくりして。そう思ったときにはもう、孤爪くんのことしか追えなくなってて。
「かっこよかった? 研磨」
「とても」
 女の子はハッキリと言いきった。それを当然だと俺は思った。それからこの女の子の恋を応援したくなってしまった。
「良い趣味してますねえ」
「え?」
 俺は、すっかり渡しそびれてしまったココアを女の子に押し付ける。研磨も好きだよ、それ。と教えたら女の子は唇を柔く噛んだ。
「研磨はさ、待ってても寄ってこないし、かと言って、行きすぎても、たぶん逃げるし」
 そう告げると、女の子は困ったように眉を下げた。そうだよねえ、どうしたらいいんだって話よね、と俺は同情する。普通ならゆっくり距離を縮めて、その存在を研磨に慣れてもらうのがいいんだろう。
 でも俺は君を応援しているので、もう一つ別の案を授けたいと思います。
「ということで、直球ど真ん中で、告白してみてはいかがでしょう」
 は?
 女の子はぽかんとした顔で俺を見上げていた。ふふん、と俺は笑ってみせる。
「苦手がわかってるなら、突くべきじゃない? まあそれに適応していくのが、俺たちのスタイルだけど、でもご存知のとおり君のクラスメイトの孤爪クンはあまり女の子とお話する機会がないまま今日まできてるので、悪意はともかく、女の子からの純度100%の好意をうまく交わせるほどの経験値を現時点では持ち得ていないわけですよ」
 とはいえ研磨のことなので、イヤ、だの、ムリだの切り捨てる可能性はものすごくあるのだが、流石の研磨も女の子相手なら言葉を選びはするだろう。それならば、
「慣れた研磨と戦うよりは、レベル0のうちに叩いておくことをオススメしますね、幼馴染としましては」

 ◯

「これ先輩に、渡してもらえないかな」
 そう言って、休み時間に苗字さんから渡されたのは淡い水色の小さな封筒だった。中身は苗字さん曰く「昨日のお金」だそうだ。
「自分で返したほうがいいんだろうけど、三年生の教室行くの怖くて」
 苗字さんは言う。
「孤爪くん、黒尾先輩に会うときある?」
「用はないけど。いいよべつに、家隣だし」
「え、すごいね」
「なにが?」
 いや、隣なのが。苗字さんは苦笑いをしたあとに、じゃあお願いします、と丁寧に頭を下げて友達の輪に戻って言った。
 それからすぐに
「なに話してたの?」
 と友達に問い詰められてる声が後ろから聞こえてくる。苗字さんがことの顛末を話せば、今度は「すごいね」と苗字さんの友達が声を上げた。
「黒尾先輩って、バレー部のかっこいい人でしょ。いいなあ、優しいんだ」
「うん。すごい優しかった。あと近くでみると本当に大きい」
「ふうん、でもなんで孤爪くん? あ、孤爪くんもバレー部か」
 その声とともに、視線がこっちを向いた気がして、おれはイヤホンを耳に差し込んだ。音量をあげながら、スマホのゲームアプリを起動する。画面が代わってすぐにオープニングテーマが流れた。スタートボタンを押せば、ぐるぐると矢印が回りだす。束の間の無音。その最中に聞こえた、
「かっこいいって言ってたじゃん、もうちょっと頑張ればいいのに」
 という揶揄う声と、それを咎める苗字さんの声。それからいつもの真っ直ぐすぎる強い視線。
 ああ。とおれは納得する。この視線はクロのものだ。おれが何かしたわけじゃない。
 そういうことは、過去にもあった。
 どうしてそのことを、おれはすっかり忘れていたんだろう。
 遠慮のない視線は相変わらず居心地が悪かったけど、理由がクロだとわかってしまえば、途端にどうというものでも無いように思われた。はい、終わり。声に出さずに呟いて素材のためだけの周回を終わらせる。
 放課後おれは渡り廊下で苗字さんを呼び止めた。友達のほうが少しはやいバスに乗るので苗字さんは十分ほど放課後一人になる、ということを視線から逃れる中で知ったうえでのことだった。
「これ、やっぱり、おれからじゃないほうが良いと思う」
 一応、人の目がないことを確認してから預かっていた封筒を差し出した。
「クロは優しいかは平気だと思う。その気にさせるというか、勘違いさせることもあるけど……でもまあ、タイプじゃなくても、人の頑張りを蔑ろにしたりはしないから」
 だから頑張ってみたら。そう続けようとした言葉は、封筒から苗字さんへと視線を移した瞬間に喉の奥に引っ込んでいった。
(え、なんで)
 たじろくおれの目の前で、苗字さんは、今にも泣きだしそうに目を潤ませていた。
 スンと鼻を啜られ死にたくなる。おれなんかした? 混乱と困惑で頭をぐちゃぐちゃにさせていれば、苗字さんに孤爪くんと、呼びかけられた。おれよりも、よっぽど死にそうな声である。
「好みじゃないって、黒尾先輩が言ってたの? それとも孤爪くんが、自分だったらナイって思った?」
 一瞬、何を問われたのかわからなかった。
 急に別の話題に移ったのかと、呆気にとられた。
 だってさっきまで、と自分の言葉を振り返り、ハッとした。
 違う。そういう意味で告げたわけじゃない。いや確かに苗字さんはクロのタイプでは無さそうなんだけど、でも、そんなことを言いたかったわけじゃなくて。
「おれが勝手に、そうした方が、クロと苗字さんが上手くいく確率があがると思っただけで」
 そう。クロに何か言われたわけじゃない。勿論苗字さんからも、仲介しろと言われたわけでもない。
 それなのに、どうしてこんな、らしくないことをしてるんだろう。
 だって苗字さんがバカみたいに見てくるから。
 他人に見られるのが嫌いなのに。
 クロのためなら、おれ関係ないのに。
 そう、関係ないから、はやく解放されたくて。
「私、孤爪くんに黒尾先輩のこと相談したこととかないよね」
 苗字さんは、そっとおれの手から封筒を抜き取った。
 その瞬間、体の中からぽっかりと何かぎ抜け落ちたような気分になった。望んだのは、自分なのに。苗字さんからの視線から解放されるのは、嬉しいはずなのに、その代わりに大事な何かを奪われたような不安が体の中を満たしているのだった。

 ◯

 しばらくわたしは、だんまりを続けていたらしい。
 気がつくと、孤爪くんは深くうつむき、顔色を悪くさせていた。好きな人と真正面に向かい合って、この空気。最悪すぎて涙も笑いも出てこない。
 孤爪くんは、どうしてあんな勘違いをしたんだろう。
 それとも、私の気持ちを知った上で、黒尾先輩に押し付けようとしているのだろうか。
「孤爪くん」
 呼びかければ、びくりと肩を跳ね上げられ、悲しくなった。そんな嫌がらないでよ、胸の内でぼやきながら、ツンとする鼻を無理に笑って誤魔化してみせる。
「黒尾先輩のことは、私べつに、そういう風にみてないよ」
 言い切ると、一瞬、孤爪くんと目が合った。
 すぐに逸らされた目を追いかけて、思ってしまう。この人の視界に入りたい。
 シンとした廊下に、誰かのはしゃぎ声が遠く、微かに響いた。
 そろそろ孤爪くん部活行かなきゃなんじゃないかな、と思いながら
「孤爪くんのことが、好きなの」
 と、告白した。黒尾先輩の助言を受けてのことではない。上手くいくまい、ということもわかっている。でも、言ってしまった。衝動でもあったし、ヤケクソでもあったし、それでいて、冷静に今がきっと最初で最期の機会だとも理解しつつ、言ってしまった。
 孤爪くんは、何も答えなかった。
 きょとんとして、それから、びっくりした顔になった。
 その顔がなんだか可愛く見えて、私はちょっと笑ってしまう。それがまた、彼を少し困らせたようだった。
「ごめんね、アドバイスしてくれたのに」
「えーっと、あー、えっ?」
「大会みてから、好きで」
「うん……あの……うん」
「孤爪くんのタイプでは無いかもだけど」
「いやっ、それは、だから違くて」
「うん」 
 気持ちを置くように、私は頷いた。言葉が尽きたと思った。理由も何も言えなかったけど、「孤爪くんが好き」。それ以上に伝えたい言葉はもう何も私の中には残ってはいないみたいだった。
 あー、と間を埋めるように声を出した孤爪くんが、次に何を言うのかを、振られる準備をしながら私は待った。
「大会って言ってたけど」
「うん」
「なんでおれ?」
 他にも人はいたじゃん。その中でおれって、意味わかんないよ。というのが孤爪くんの言い分だった。
「いたかもだけど、孤爪くんしかあんま見てなかったから」
「エ゛」
「いや、見てたよ。見てたけど、孤爪くんが一番」
 かっこよかったと思うの。と続けたかった言葉は、「かっこよかった」の「か」を放つかどうかのところで、
「やめて、言わないで、耐えられない」
 と叫んだ孤爪くんの声にかき消された。
 ぶんぶんと孤爪くんは、首を大きく横に振る。その顔は梅干しみたいに、ぎゅっと皺が寄っていて、ひどく険しい。
「絶対おれじゃないって」
 孤爪くんは頑なに言う。
「考えなおした方がいいよ」
「どうして」
「ふつうに考えて、おれと付き合って苗字さんが良い思いするとは思えないし」
「そんなことないよ」
 思わず、被せるように言ってしまう。振られてる最中であることは、わかっている。わかっているからこそ、ひしひしと迫る終わりの予感が、あまりに怖くて抗いたくなる。
「孤爪くんのことが好きなの。いつも目で追いかけちゃうの。何してるのか、何て言ったのか、気になるの」
 きゅうと目を硬く瞑れば、東京体育館の騒めきが瞼の裏に蘇った。笛の音。アナウンスの声。いくつもの歓声と拍手。そういうものを、全く気にすることなく、倒れ込み満足そうに笑った、その姿。
 あのとき孤爪くんは、黒尾先輩になんと言ったんだろう。
「孤爪くんのことが、もっと知りたいの」
 ダメ押しのように呟いた私に、孤爪くんは頭を抱えた。ブツブツと小さな声で何かを言うと、急に険しい顔をぐっと持ち上げ、かと思えばまたすぐに項垂れる。それから、たっぷりとした溜め息のあとに
「じゃあ、付き合う?」
 と孤爪くんは言った。
「え」
 まさかの言葉に、私は声を詰まらせる。
 いいの? 私が聞くと孤爪くんは沈むように頷いた。げっそりとした顔。
「いま断ってもクラス一緒だし。そんな状況であんな風に見られるとか、気まずすぎて、考えただけでシンドイし……だったら付き合ってみて、違うってわかってもらったほうが、ギリ、まだ、マシ」
「そっかあ」
 私は呟く。なんて言葉を返していいかわからなくて、とりあえず。
 それに孤爪くんは頷くと、両手をジャージのポケットにしまった。じゃあ、おれ部活行くから……またね。と孤爪くんは背中をむけて、渡り廊下を歩いていく。
「あ、うん。またね」
 孤爪くんの丸まった背中に返すと、じわじと嬉しい気持ちが込み上げてきた。それから次に安心がやってきて、はあ、と私は脱力する。
「あ」
 何かを思い出したように、孤爪くんが声を上げた。
 くるりと孤爪くんが振り返る。
 初めて私を、真っ直ぐに見つめてくる。
「おれが違うと思っても、やめるから」
 それだけ言って、孤爪くんはまた踵を返し歩き出した。部活に向かう孤爪くんの姿は、そこだけスポットライトを浴びてるみたいに光ってみえる。それはきっと陽が差したからとか、私が孤爪くんを好きだからとかではなくて、孤爪くん自身が放つオーラみたいなものなんだと思う。
 果たして私の告白は成功と呼べるのだろうか。喜んでいいのか、悲しんでいいのかもわからない。それでも私は確信してしまっている。孤爪くんに抱くこの気持ちこそが、私の恋に他ならないと。

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