少女はこうして女になる 1
瞼が重い。レースのカーテンの隙間から降り注ぐ日差しは、部屋をぬるく温めている。
私は握っていたシャープペンシルを机におく。金曜日に学校から出された物理の課題は、最後から二問目の途中式で解はとまっていたけれど、もう一度、瞼の重みに逆らってペンを握る気持ちにはなれなかった。
カツキ君は、私の白いアイアンベッドに背を預けて漫画を読んでいる。土曜日。私達はときおり、こんな風にして休日を過ごしていた。
「わかんねーのか?」
漫画から目を離したカツキ君がアゴで課題の広がるローテーブルを指した。
「ううん。ただ、眠くなっちゃった。」
私はこたえる。そうすればカツキくんは、眉間に皺を寄せて
「さっさと終わらせろや」
と、苛立たしげに言った。彼に言わせれば課題を後回しにして遊んだり休んだりするのは無計画なバカがするクソみたいな行為だそうだ。
真面目でせっかちな彼は堕落を許さない。それが他者であってもだ。
知り合って十年以上経っている。
十五歳の私達には互いを知らなかった頃の記憶が無い。気がついたら側にいて、当たり前のように同じ時間を過ごしてきた。高校生になり、別の学校に進学しても関係は変わることなく続いていて、きっとこの先も同じような週末がやってくる。そう、こないだまで思ってた。
「いつから、始まるの?」
寮生活、と続ければ「明日」とカツキ君は答えて漫画を閉じた。
カツキ君の通う高校は、この国では知らない人はいないくらいの名門校で、全国各地から優秀な生徒が集まってくる。遠方から来る生徒は学校の近くに部屋を借り一人暮らしをしている人もいるらしい。けれど私達の家からはそう遠くなかったのでカツキ君は毎日電車で通学していた。
それなのに、突如、この夏から全寮制をとることになったらしい。
恐らく、もう少し前から決まっていただろう事実を、私がカツキ君から聞かされたのは数分前のことだ。
なんでまた急に、と、疑問が浮かばなかったわけではないけれど、先日の事件ーカツキ君が敵に攫われた事件ーが関与していることは想像に難しくなかったし、カツキ君がその事件を私に話すことを避けているのはわかっていたので、私はその疑問をカツキ君に向けることはしなかった。
ただ、あの事件は、どこかの誰かに起きた遠い話ではないのだと、私はようやく実感していた。
事件を知ったとき、私は攫われた爆豪勝己君という男の子が幼馴染のカツキ君と一致することができなかった。その事件だけでなく、その前のヘドロ事件のときもそうだ。こんなにも、近くに当たり前にいるカツキ君が、いくらヒーローを目指しているからといって、テレビの中の事件の当事者になっているなんて、実感がわかなかったのだ。
ヘドロの事件のときも、事件を実際のものだと受け止めてのは、事件がすっかり落ち着いた頃で、こうして当たり前のようにカツキ君と私の部屋で会ったときだった。
カツキ君はヘドロ事件の後から、ときおり私の知らない顔をするようになった。癇癪持ちの子供のような激しい気性は身を潜め、痛いほどに静かな顔をする。見慣れないその表情は、まるでそっくりな別人を前にしたようで、私を心細く不安な気持ちにさせた。
「急だね」
「ああ」
「じゃあ、今日で最後か」
そこまで言って、会話は途切れた。
私達がともに過ごす休日が終わるということの意味を私達はよく理解していた。さらに言えば、当たり前に過ごしているフリを互いにしていることも理解していた。
いくら記憶を持つ前から繰り返してきた休日であろうとも、十数年の時を経ていて、私達は十五歳で、その年頃の男女が休日に二人自宅の部屋で敢えて過ごすことに意味を持たずにいられるほど私達は無垢ではなかった。「ずっとそうしてきたから」という事実を都合よく利用してきた私達は、一度この日常が途切れたとき、もう一度繰り返す術を幼馴染の枠の中から見つけることはできないだろう。
「ああ」
もう一度そう言ったカツキ君は、あの静かな表情をしていた。どことなく部屋の空気が硬くなる。心細さを感じるのはそのせいだろうか。
私は、縋るように手を伸ばしローテーブルの上に放られたカツキ君の手を握った。まるで迷子の子供のように。そうすれば掴んだ手がピクリと跳ね、カツキ君は珍しく戸惑うような顔をする。
置いていかないで。
一人で大人にならないで。
お願いだから、
「キスして」
声なき悲鳴を振り絞るようにして、放たれた言葉に、自分で言って驚いた。カツキ君と私は、見開いた目にお互いをうつしながら、呆然とする。
先に意識を戻したのはカツキ君のほうだった。
バカじゃねえの、と、大声で吠えたてるカツキ君に、私の意識は取り戻される。はっ、として見据えたカツキ君は、ぎゅっと眉を寄せた、私の良く知る顔をしていた。
私はそれに泣きたくなるくらい安心して、喉奥に張り付いた、純然たる欲望を飲み込み、笑った。