夏、きみと出られない部屋
1.
ジージーと蝉が鳴いている。
今朝観た天気予報で気象予報士が言うには、今日は今年一番の猛暑日であるらしかった。真っ赤に染まった日本列島の図は、見るだけでうんざりする。
別に、外に出る用はなかった。
むしろ、外に出るなと親やら警察やらから散々口煩く言われていた。それを思い出してまた、うんざりとしながら俺はガムテープをピンと伸ばす。
明日、引越す。
在籍している高校が急遽、全寮制をとることになったのだ。親元を離れるのは初めてであるが、そこに不安は無かった。一通りのことは自分で出来るよう育てられてきたし、むしろ母親(俺はババアと呼んでいる)の小言が日常から無くなると思うと、せいせいする。
ババアはうるさいというか、激しいのだ。
そしてそれを周囲に愚痴れば、そっくりじゃねぇか。と言われる。それがまた嫌だった。
ガムテープで封をした段ボールに「本」とマジックで書く。教科書や漫画が無くなり空いた本棚のスペースには、四隅にうっすらと埃が溜まっていた。
しばらく帰らないだろうし、全部出して拭きあげようか。そう思って、持っていかない本を本棚から出して床に積んでいく。ついでにもう読まない本や雑誌を処分しようと思った。一度掃除を始めると徹底的にやりたくなる性質なのだ。
仕分ける中で一冊、絵本があった。
もう随分と前に手に入れた本だった。手に取り開いてみれば、表紙の裏には汚ねぇ子供の字で女の名前が書かれていた。
まだあったんか、これ。
もう読むことは無いだろう。とっておく理由も無い。ただどうにも捨て辛い本だった。
思入れがあるとも、また違う。うまい言葉が見つからないが、強いていうならば、あの奇妙な体験を証明する唯一の物証だった。
干支一巡分、前の話になる。
端的に言うと、俺は神隠しにあった。
盆の最終日のことだ。
両親に連れられて行った、どっかの神社の夏祭りでそれは起きた。
その日、祭りに行く最中に寄ったゲームセンターでオールマイトのカードを俺は手に入れていた。それはなかなか手に入らないレアカードで、当時の俺にとっては、祭りの屋台よりも、盆踊りに参加する人の群れよりも心を夢中にさせる代物だった。だから、父親に手を引かれ人並みを歩く間も、反対の手にずっとカードを握りしめていたのだった。
祭りでは焼きそばを買った。
食う前に、ババアがカードを寄越せと言った。
汚れるとか、無くすとか、そう言った理由だったと思う。飯を食い終わったら返すから、ともたぶん言われた。でも俺はその時、手放したくなかったんだろう。それでカードを自分のズボンのポケットにしまおうとした。
その時だったんだと思う。
父親から手を離した、その一瞬。気づいたら、俺は知らない部屋の中にいた。
「は?」
それが、部屋に入った俺の第一声だった。あの部屋でのことは、不思議と鮮明に覚えている。
「ねぇ」
そう俺に声をかけた、泣きそうな顔の長い髪の少女のこともよく覚えている。少女は淡黄色のワンピースを着て絵本を胸に抱きしめていた。
「おまえ誰だよ、ここどこだ?」
「ここはどこ?あなたは誰?」
俺たちは顔を見合わせて口々に喋った。どちらも答えを持っていないことがわかると、次第に少女の顔は真っ赤に染まり、それから、ぐしゃぐしゃに歪んでいった。
「ママ、どこぉ」
ママ。怖いよ。会いたい。ママどこ。
声を張り上げて、少女は泣いた。
「な、泣くな!」
俺は少女に負けないように声を張り上げた。
今思えば、少女がそうなるのも仕方がないことだろう。泣くなと怒鳴る俺も、このとき親の不在と見知らぬ場所にパニックに陥っていた。
それでも泣かなかったのは、涙を堪えるために握ったズボン越しに、オールマイトのカードがあるのがわかったからだ。
部屋の中は真っ白だった。
大きなベッドが一つとその横に小さなテーブルが備えられていたが、どちらも目に痛いくらいに真っ白だった。ベソベソと泣く少女を放って俺はテーブルに近づいた。テーブルの上には、また白い紙が二つ折りになって置かれていた。
『てを つないがないと でられない へや』
白い紙にはそう書かれていた。
「おい」
「ふ、ううっ、ママ」
「おい!」
「う、な、にぃ」
「手、かせ!」
顔をぐしゃぐしゃにした少女に、俺は手を差し伸ばした。わけもわからないまま少女は俺の手をとった。
どこからともなく扉が現れたのは、そのすぐ後のことだった。
*
意を決して、扉を開ければまた同じ白い部屋が続いていた。
「また、おなじとこ?」
不安そうな少女の声に、今度こそ俺も泣きそうになった。もう一度オールマイトのカードを握ろうとしたが、今度は少女と手を繋いだままだったから出来なかった。
そのかわり、おなじように強く手を握り返された。それが心強くもあったし、泣き虫な少女といると俺がどうにかしなければならない。という責任感なのか諦めなのかよくわからない気持ちにもなった。
「おまえ、離しちゃダメだかんな」
うん、と深く頷いた少女の手を引いて、今度はふたり並んでテーブルの上の紙を覗いた。
『じこしょうかい しないと でられない へや』
「じこしょうかい?」
「名前言うやつだろ」
首を傾げて黒目がちな目を向ける少女に俺は自分の名前を告げた。そうすれば同じように、少女も名乗った。
「3歳。さくらんぼ組さん。次の春で4歳さんになるの。そうするとね、りんご組さんになるんだよ」
少女は指を人差し指から薬指まで立てながら話した。
「そりゃそうだろ」
なにいってんだこいつ。
バカか。とまで、思ったかどうかは覚えてないが、おそらくそう思った。
「そうなの?」
「3の次は4だろ」
「カツキくんもりんご組さん?」
「オレは次で5才。ゆり組」
ふうん、と言った顔は、よくわかってなさそうな顔であった。
埒も無いことを(さすがに3歳の子供にそれを求めるのもどうかと思うが)話ているうちに、扉がまた現れた。
期待半分諦め半分で扉をあける。
白い部屋は続いていた。
「わたしたち、食べられちゃうのかな」
突然、少女が言った。一つ前の部屋で少しだけ明るくなった声はすっかり泣き出しそうなものに戻っていた。
「はあ?なんでそうなるんだよ」
手を引っ張っり机に寄ろうとするも、少女は嫌だと足を踏ん張らせた。
「だって、みたもん」
「何を」
「絵本!」
ずいっと、手に持っていた絵本を少女は俺に差し出した。表紙には「注文の多い料理店」と気味の悪い猫の絵が書いてあった。
俺はその本を知っていた。確か幼稚園で先生に読んでもらったことがあったかなんかだと思う。
「ばっかじゃねぇの、そんなん作り話だろ」
「でも、化け猫いたらどうしよう」
「そしたら、俺がぶっ倒してやるよ」
だから行くぞと手を引けば、今度はすんなりと少女は俺の後をついてきた。
「カツキくん、倒せるの?」
「あたりめぇだろ、ヒーローは負けねぇんだよ」
「カツキくん、ヒーローなの?」
「今はちげぇけど、絶対なる」
はっきりと俺が宣言すれば、少女は目を丸くした。カツキくん、かっこいいね!そんなふうに興奮しながら言っていた。きゅうと強く手を握りながら、いいなあ、ヒーロー。わたしもなりたい。とぴょんぴょんと跳ねていた。
「おまえもヒーローになるなら、俺のサイドキックにしてやるよ」
「さいどきっく?」
「それもしらねぇのかよ、ヒーローの子分見てぇなもんだよ」
「ええ、わたし子分やだ」
「うるせぇ、泣き虫ザコのくせに」
ぶーぶーと文句を言う少女をシカトして、俺は
新しい部屋のテーブルにのせられた紙をみた。
『たからもの を こうかんしないと でられない へや 』
それが最後の部屋だった。
どうやって外に出たのかは記憶にない。あの部屋に扉は現れず、気づいたら俺は祭りの喧騒の中にいて、警備にあたっていた現地のヒーローに保護され両親のもとに戻った。
知らない間に大ごとになっていたようで、親やヒーロー、警察に囲まれて、何があった、どこにいた、と散々問い詰められた。
いまだに親戚が集まるような場では話のネタにされたりするその一件は、結局、何故おきたのか未だに理由がわかっていない。
「まるで神隠しだな」
とは、誰が言い出したんだったか。
*
「カツキ!ちょっと」
はっと絵本から目をあげる。
「これ、持っていって」
階下から大声でババアが呼ぶ声に、俺も大声でかえす。
「んだようるせぇな」
「あんたの、引越し準備してんのよ!」
あー、そうかよ。
頼んでねぇわ。と言えば、碌でもない家族喧嘩に発展するのはわかりきっている。
「今いく!」
絵本を本棚に戻し、勢いをつけて自室の扉を開け放つ。
ふざけんな。
俺は身を硬くした。気づいたら真っ白な部屋の中にいた。
部屋には大きなベッドとその横に小さなテーブルが備えつけられていた。
泣きそうな顔をした女がひとり、不安げに俺を見ている。
その顔は、あの日みた少女の面影を存分に残していた。
「その泣き虫なんとかしろよ」
伸ばした手は、縋るように握られた。俺はそれを同じ力で握りかえす。
2.
白い部屋にいる。
ふたりで手を繋いでいる。そうすれば、どこからともなく扉が現れ、開ければまた、同じ部屋が続いていた。またか。
俺は横目に、手を握り合わせている女を眺めた。この幼少期から知る、いや、幼少期、それもたった1日のうちの僅か1時間弱の時間をともにしただけの女。
あの日、この部屋を出てからのこの女の一切を
俺は知らないし、考えたりもしなかった。
女は白いオーバーサイズのTシャツに、水色のショートパンツを履いていた。足元は裸足で、いかにも休日といった装いだった。きっと女も俺と同じように家にいたところを、突然ここに連れてこられたのだろう。
『自己紹介しないと出られない部屋』
新しい部屋に添えられた紙には、そう書いてあった。これも、12年前と同じだ。変わったのは平仮名ばかりの字列が、漢字で表記されていることだろうか。
いったい誰が何の目的で、こんなくだらない茶番を繰り広げているのだろう。
ああ、うぜぇ。
どいつもこいつも、人のことを拐いやがって。ドロドロとタールのように黒く濁った感情が腹の中に落ちて鬱々とした気持ちになる。
思わず握った手に力が入った。
それを俺が急かしたとでも思ったのか、女は紙から顔をぱっと上げて、早口に名乗った。
「爆豪勝己」
次いで、俺が名を言えば女は、なんとなく恥ずかしそう笑って
「覚えてるよ」
と言うなり俺から目を逸らした。
「俺だって、おまえの名前くらい知ってたわ」
そう言ってのければ、女は
「うそ?ほんとに?」
と目を丸くして、俺の顔を覗きこんだ。
「てめぇが覚えられて、俺ができねぇわけねぇだろ」
「そういう意味じゃなくって、その、私とそっちは違うっていうか」
「は?何がだよ」
「私、その、テレビでみてたもん。いろいろ」
いろいろ。
その、いろいろが、全部俺にとって不快な思い出でしかないことは想像に容易かった。
「誰の許可とって観てだよ、クソが」
「誰のって、全国放送」
「うるせぇ、観るな、今すぐ記憶消せ」
「横暴」
「なんてこった」みたいな顔をして、女はあーあ、とわざとらしくため息をついた。文句あんのかクソ雑魚女。さっきまで泣きそうな顔をしていたくせに。眉間に皺を寄せて女を睨んでみせれば、女は肩を竦ませた。
「昔は可愛かったのに」
「はあ?舐めてんのか、てめぇ」
「舐めてないです、やめて、その顔怖いから」
女は手を繋いだまま一歩後ずさる。
「普通にしてたらかっこいいのに」
「これが普通だわ、黙ってろ」
繋いだ手を引っ張って、いつの間にか現れていた扉へと足を進める。何が昔は可愛かったのに、だ。そんなのはこっちの台詞だった。いや昔もそう可愛くなかったかもしれない。よく泣いてよく喋るバカだった。
「おまえは、変わらねぇな」
歩きながら女に言ったら、
「そうかなぁ」
と呑気な声を出した。怯えた様子の無いのんびりとした喋り方だった。
そういうところは、変わったかもしれない。
「図々しくはなったかもしんねぇな」
「ええ、やだよそんなの」
うだうだと文句を言う女をシカトして扉を開ける。やっぱり同じ白い部屋がまっていた。
「これ、次ってさアレかな」
「…かもな」
「どうしよう、今日なんも持ってないんだけど」
「そんなん俺もだわ」
テーブルの紙をめくる。手を繋いだまま、2人して覗きこんだ。
『ハグしないと出られない部屋』
緩かった空気が、ピンと張り詰めた気がした。
「……え、どうする?」
「どうするって、するしかねぇだろ」
そうだけど。
なんだよ。
べつに、何でもないよ。
あからさまに、何かあるような顔を女がするから、腹がたつ。俺だって別にしたくて言ってるわけじゃねぇのに。
「俺の貴重な時間をこんなところに割きたくねぇんだよ」
「そ、んな言い方しなくたっていいじゃん」
女の声はどんどん勢いをなくした。最後の「いいじゃん」の「じゃん」に至っては最早聞き取れないくらい小さな声だった。
傷ついたんですけど。という顔をする女が、なんで傷ついているのかがわからない。
「言いてぇことあんなら、言えや」
無視をして抱き寄せることは簡単だ。
でも、この女の小さな手を握ると、どうにも、面倒を見てやらないといけないそんな気持ちにさせられる。まるで
「小ちゃい子には優しくしてね」
そう遠い昔に大人から言い聞かせられたときのような、そんな気持ちになるのだった。
俺たちはむっつりと互いを見合った。
目の前の女の目は、俺よりも少し下にある。
前に会ったときは、俺と同じ高さにあったはずだった。黒目がちの目をくりくりとした、子供の目。
「カツキくん、かっこいいね」
そう言ってすごいものでも見るように、俺をみて、ぴょんぴょんとあのときこいつはこの部屋で飛び跳ねていたのだ。
それに俺がどれだけ、背を押されたことか。
あの小さな手を握っている間、俺は確かにヒーローでいられたのだ。
「出るぞ」
繋いだ手を離して、ゆるく腕をひらいた。女は離された手をじっと見ていた。そして、ゆっくりと俺の名前を呼んだ。
「離しちゃダメ」
急に、泣きたくなった。
「また、おなじとこ?」
と少女が言ったときを思い出して、泣きそうになった。
パニックに陥っていたんだ。ずっと。
変わってないのは俺のほうだ。
突然知らない部屋に飛ばされたことも、親から離れたことも、ヘドロに飲まれたときも、敵に拐われたことも、オールマイトの最期の言葉も、デクのことも。恐れては、気づかないふりをする。
「あのとき、爆豪くんが手を引いてくれてね、化け猫倒すって言ってくれて、私、心強かった」
女が真っ直ぐに俺に言う。
すごいものを見るかのような目は、あの頃の少女のままだった。
「あのときから、爆豪くんはね、私の一番のヒーローだったの、強くてねかっこいいヒーローなの」
はにかんだ顔を隠すように、女は俺の胸へと顔を埋めた。胴に頼りない腕が回される。
「俺は…強くなんか、ねぇ」
「それでも、爆豪くんは私のヒーローだよ」
細い腰に腕を回す。強く抱きしめた筈なのに、煙でも抱いたかのように、何一つ、匂いも温もりも残さないまま女は部屋ごと消えていた。
「じゃあ、なんで、俺は」
扉に寄りかかるように、ズルズルと座りこむ。茶色いフローリングの床が冷たかった。
「どうしたら、いいんだよ」
答えはまだ見つからない。住み慣れた家の廊下で、俺は自分で自分を抱きしめるように腕を回し、ひとりそこで蹲った。
3.
夾竹桃が咲いていた。
毒々しいくらいのピンク色が青空に映えているのを車窓から眺めながら、俺は車のハンドルを握る。
自分で運転するなんて、久しぶりだった。いつもは専属の運転手が運転するハイヤーに乗って移動していた。ただ、今日まで、その運転手は夏季休暇をとっていた。
盆の最終日、例年通りクソ暑い日だ。こんな暑い日にわざわざ外に出るなんて、我ながら馬鹿らしくなる。
地下の駐車場に車を停めて、ホールへと入る。室内は冷房が効きすぎるほどに効いていて、少し肌寒いくらいだった。中にはたくさんのブースが立ち並び、スーツ姿の業者が、頭を下げあって、あくせくとしていた。
大抵のブースには、マネキンが並んでいて、どれも見るのも嫌になるくらい暑そうな格好をさせられている。
俺は受付で貰ったばかりのパンフレットに目を通しながら、各ブースへと続く階段を下りていった。表紙には「ヒーロースーツエクスポ、ウィンターシーズン」と実際の季節にそぐわない寒そうなフォントで書かれている。
用は、冬用コスチュームの新素材や新機能について各企業がヒーローやデザイン会社へ宣伝する博覧会である。
長居をするつもりは無かったが、見出すと、予想以上に時間がかかっていた。
そろそろ出るか、と随分と増えたパンフレットを持ち直す。車できてよかった。こんな量をもって電車なんか乗りたくない。
「あの、よろしければ、袋使われますか」
後ろから声をかけられた。聞き覚えのあるような無いような、はっきりしない声だった。
「あ」
振り返ると、女がぽかんと口を開けて間抜けな声を出した。濃紺のスーツを着た女だった。手には、俺に差し出すつもりだっただろう白い紙袋を持っている。
「爆豪……さん?」
ぽつり、と女が俺の名前を読んだ。
とってつけたような、さんづけも気になったが、それよりも爆豪と呼ばれたことに戸惑った。
その名で呼ばれるのは久しぶりだった。俺は今やプロのヒーローで、大抵の知っているやつも、知らないモブも、一様に俺のことをヒーロー名で呼んでいた。
女は相変わらず驚いた顔で、俺を見ていた。くりくりと目を丸くしている。
「おまえ…」
すっと、名前が出てきたことに自分でも驚いた。運転手が盆を理由に休暇をとっていたからかもしれないし、丸く見開いた目が何も変わっていなかったからかもしれない。
ただ、後ろから声をかけられたときから、なんとなく浮かんでいた面影が、その女を見たときはっきりと重なった。
目の前の女は、
「いらしてたんですね」
と、大人びた顔で言った。
この女から畏った言葉が出たことが、いささか居心地が悪かったが、俺の胸中など知らない女は
「どうぞ」
と、白い紙袋を広げて俺に差し出した。紙袋にはデザイン会社の社名が青色でプリントされている。ついさっき、俺が新たにパンフレットをもらった企業だった。
人からの親切に「どうも」くらい俺だって言える。
でも、この女にかける言葉としては何か違った。「よく出来ました」頭の中にそう浮んだが、それを大の大人がスーツを着た大人に公の場で言うのは違うことはわかっていた。だから、俺はなんとなく、おー、と声を出して誤魔化すように広げられた袋の中に、束になったパンフレットをまとめ入れた。トスッと重さの分だけの音が鳴る。
それが最後の音だった。
いったい何がきっかけになっているのか。
喧騒は一瞬で消え去り、俺たちはあの真っ白な部屋にいた。
3度目の神隠しである。
「う、わ」
袋を両手で広げたまま、女は当たりをキョロキョロと見渡した。
またか。とため息をついた女は、はっとしたように俺をみると
「え、もう12年経ちます?」
と、部屋に突如飛ばされたことよりも、過ぎた年月の早さに酷く驚いていた。
早い。こわい。とブツブツ言っている女から俺は袋を受け取り、空になった女の手をゆるく握る。
女も当たり前のように、握り返した。
「変わってないですねぇ」
現れた扉にのんびりと言った女は、そっと、俺から手を離した。あまりに自然に離されたものだから、繋ぎなおすのは躊躇われて、俺たちは3度目にして初めて手を繋がずに2つ目の部屋へと向かった。
2つ目の部屋の紙は、女が一人で確認した。
くるりと振り返り、壁に寄りかかる俺に
「やっぱ、同じみたいです」
と、告げてジャケットの胸ポケットから掌サイズの何かを出した。
コツコツとヒールを鳴らして女が俺に近づく。手の中のものは焦げ茶色の名刺入れだった。
「名前はもう、今更なんで」
両方の親指と人差し指で摘んだ名刺を俺に差し出してくる。当たり前のように少し折られた腰は、事務所につくスポンサーのおっさん達のようだった。スーツを着る人間に染みついた癖とも言えるのかもしれない。
名刺には、見たことのない会社の名前と、こいつの所属部署が記されていた。
「おまえ、ここの社員じゃねぇのかよ」
この女に貰った紙袋を揺すってみれば、女は「はいはい」とでも納得したような顔をして、
「グループ会社なんです。私は素材そのものを扱うほうで、そっちは、ヒーロースーツとかサポートアイテムとか加工した商品を取り扱ってます。今日は設営のお手伝いに駆り出されました」
と、慣れたように説明した。
「俺、こんなん持ち合わせてねぇぞ」
受け取った名刺を紙袋の中へと落とす。
「爆豪勝己、ヒーローやってる」
「はい。知ってます」
名乗ったのは俺なのに、女のほうが誇らしそうだったのが印象に残った。
「いつもニュースで観てます」
「…そうかよ」
「随分と、すごい人になられて」
ふふっ、と女は眉を下げて笑った。嬉しいのか困っているのか分かりにくい笑い方だった。実際に、そのどちらも女の本意なのかもしれない。
「おまえも」
「はい?」
「なんか変わったな」
「なんか?そうですか?」
なんか。が自分でもピンとこなかったが、この12年の間に変わった気がする。くりくりとした目は変わっていない。でも、なんか違う。化粧をしているからか、スーツを着ているからか。なんか。
「大人みてぇ」
自分の答えにすら確証が持てなくて、首を傾げて言えば
「なんですか、それ」
と、女は笑った。
『キスをしないと出られない部屋』
3つ目の部屋の紙は二人で確認した。
この部屋だけは、毎回要求が変わるようだ。
そして、絶妙に嫌な要求が出てくる。部屋から出るためなら出来なくもない。でも躊躇う。そう言う要求。いっそ4歳の夏に出てくれたほうが何もわからない分良かったかもしれない。ああ、でも16歳の夏でなくて良かった。
28歳。それなりの経験がある今だから、絶妙に嫌で済まされる。
「ど、うしましょう」
「どうこもうもねぇだろ」
そうですよね。
ああ。
ええ。
何だよ。
べつに、何でもないです。
「その、あからさまに何かあるって顔やめろや」
「な、だって!キスって、そんな」
そんな。と小さく呟いて、隠れるように女は両手で顔を覆った。髪の隙間から見えた耳が真っ赤に染まっている。なんだそれは。たかがキスの一度だろう。
「てめぇ…」
「は、い」
まさか。という視線だけ送れば、指の隙間から俺を覗いた女は、うまく俺の心情を察したらしい。ばっ、と勢いよく顔を覆っていた手を離し
「違いますよ!さすがに」
と、声を荒げて言った。
「ありますよ!それくらい!ありますよ!」
「なら一回くらい、かわんねぇだろ」
「だっ、から、わかってますって」
苦虫を噛み潰したような顔をして女は言った。
別に俺だってしたくて言ってるわけじゃない。そんな顔をされるのは不本意だ。
マジでムカつくな。
求められることはあっても、キスする前に、女からそんな渋い顔をされたことなんてこの人生で一度も無かった。
「彼氏でもいんのかよ」
いたからって、しない理由にはならないが、この渋い顔に唇を合わせる気にはならなかった。
女のためではない。
俺のプライドの問題である。
「いないですよ、そんなもん」
女は苦い顔をさらに苦くして言った。「そんなもん」に力が篭ったのは、それに誰かを浮かべたのだろう。
「爆豪さんこそ、いいんですか」
「別に困らせる相手はいねぇよ」
「あのサイドキックの人は?」
「どんなデマ聞いたか知らねぇが、仕事の人間に手出さねぇわ」
ふぅん、と言った顔は、別の誰かを浮かべているようだった。もしかしたら「そんなもん」は仕事関係の男だったのかもしれない。もしくは、仕事関係の女にとられたか。
「相手いねぇなら、いいだろ」
もう、さっさと出たくなって女の手を握り抱き寄せる。紙袋が揺れて音を立てた。
「相手がいないからじゃなくて、その人だからするもんですよね、普通」
腕の中で不貞腐れたように女は言った。
今それを言うか、この女。
「そんなん言ってたら、出れねぇだろ」
「だから、わかってますって」
嫌なんて言ってないじゃないですか。と意地でも目線を逸らしてくるその顔に、嫌だと書いてあるのをこの女はわかってて言っているのだろうか。
そういうとこなんじゃねぇの。という言葉は飲みこんだ。そのかわりに、キスの先にある懸念を先に述べておく。
「泣くなよ」
女は目を丸くして、ようやく俺と目を合わせた。
「なんで、そうなるんですか」
「おまえすぐ泣くだろ」
「泣きませんよ、いくつだと思ってるんですか」
「3歳」
自分で言って自分で驚いた。女も何言ってんだこいつ、といった顔で、口をぽかんと開けていた。
女とは俺が16歳のときにもこの部屋で会っていた。今よりも少し頬に肉がのっていた気もするが、今とそう変わらない背丈にまで成長した姿を知っている。それでも、俺の中でこの女といえば、淡黄色のワンピースを着て、絵本を胸に抱えもった3歳の少女だった。
「爆豪さん」
女は俺の頬に手を当てて、俺の顔を引き寄せた。それから、ゆっくりとこう言った。
「私、大人です」
目の前の唇は、作り物の色をしていた。
今までだって、それなりの女からその色を唇伝いに移されてきたのに、この女とそうすると思うと、なんだか俺の方が泣きたくなった。
そんな経つのか、俺たちは。
いつの間にか子供と呼ばれる時期は過ぎて、繋ぎ合わせる手に意味を持ち、初めてのキスを済ませ、大人になって、好きだった男をそんなもんと過去に捨てたり、一度くらいのキスを勘定に入れなくなったりする。
あの頼りなくて泣き虫だった少女は、俺たちは、もうすっかり大人だった。
「ここから出して」
作り物の紅が音にする前に、俺は自分のヒーロー名を口の中に飲みこんだ。なんの肩書も持たない、ただの男と女として唇を重ねた。抱き寄せた身体は華奢なのに柔らかくて、俺とは全く違う生き物として成熟していた。それにまた女が遠い存在になったような気がして、身体のどこかに同じものが無いか探りたくなって、でも、きっと探したところで何も無いことを察して、それじゃ嫌だと、自分の唾液を女の中に流しこんだ。
身体を離せば、喧騒が戻ってきた。
「信じられない」
目の前には、顔を赤く染めた女が、目を丸くして立っている。唇の紅が来た時よりも薄くなっている。どちらのものかわからない、涎が口端に残っていたから、それを拭ってやろうと手を伸ばせば、あからさまに肩がはねた。
「なに、ビビってんだよ」
「び、だ、だって」
女は俺から顔を背けて、手の甲で口を拭った。
「おまえ、仕事は」
「え、あ、もう終わり」
「なら、行くぞ」
女の手を握って、軽く引っ張ってみたが、女が嫌だと足を踏ん張らせた。
女の赤い顔に力が入って、グシャグシャと歪んでいく。
「だーかーらー、泣くなや!泣かねぇ、って言ったのはおまえだかんな」
「あんなの、怖っ、ひどい」
怖い怖いと言いながら、女は俺の手から逃れようとしている。目の前の女が、グズグズとしていて、頼りなくて、それになんだか安心した。
「食べられるかと思った」
女は言った。よくわかんねぇが、俺はそのとき、そういうことか。と納得していた。
3歳の少女が危惧した恐怖は、あながち間違いでは無かったらしい。
「おい」
ひっ、と女は人喰い猫でもみるかのように俺を見上げた。
おまえも、やっと気づいたか。
でも、遅い。
「もうヒーローなったからな、俺は今が一番強ぇぞ」
女の身体から、ストンと力が抜けていったのがわかった。手を握りなおせば、同じ力で握り返される。
あの日、少女が間違えを侵したのだとしたら、それは、本来恐怖するべき相手に救われたと思い込んでしまったことだろう。
「出るぞ」
今度はすんなりと女の足が動いた。俺は女の手を掴んだまま、まっすぐ出口へと向かう。扉を開ければ、温い風が吹いていた。
振り返れば、女は呆然としていた。何がなんだかわからない、といった顔をしている。
「カツキくん」
助けを求めるように、女は幼いヒーローの名前を呼んだが、俺はそれをシカトして、駐車場へと歩き続けた。うまそうに育ったな、とまるでずっと待ち望んでいたかのような気持ちで、車のキーをくるりと回した。