17時の奔流 | ナノ

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17時の奔流

人差し指の予約

 放課後の図書室はいつもより賑やかだった。普段は利用しない生徒たちがこぞって机を囲み教科書を広げては、頭を寄せあっている。
 私は、賑わいを避けるように図書室の最奥へと進み、古く分厚い辞書の立ち並ぶ一画へと足を進めた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
 隅にある自習用の席にむけて声をかければ、三ツ谷くんが振り返る。

 10月。中間テストが間近に迫っていた。
 学校全体に漂うソワソワとした空気に、なんだか自分が出遅れているような不安を感じながら、私は進まないペンを手の中で弄ぶ。 
「今回、やばいかもしれない」
 そう項垂れる私に、
「大丈夫でしょ、二宮さんなら」
 三ツ谷くんは呑気な様子で、そう答えた。
 その手には教科書ではなく「生地素材辞典」と書かれた本が収まっている。三ツ谷くんが本を捲るタイミングで、こっそりと中身を覗いてみれば、写真つきで生地が作られた歴史や、特性、重さなどが一つ一つ細かく載っているようだった。確かに辞典というに相応しい内容らしい。
「三ツ谷くんは、テスト勉強しなくていいの」
 聞いてみる。
 そもそも、放課後に図書室誘ったのは三ツ谷くんからだった。
 部活動が休止期間に入るから、妹たちの迎えまでの時間を潰すのに付き合ってほしいと、昨日の夜に三ツ谷くんからメールを貰ったのがこの場の始まりだったのだ。それなのに。
「んー、するけど」
 目を辞典にむけたまま、三ツ谷くんは話半分に答えた。どうやら意識のほとんどは本に向いているようである。
 まあ、いいか。私は小さく鼻から息を吐いて、自分のノートに集中することにした。延々と並ぶアルファベットの羅列に、思わずため息が溢れそうになるのを堪えながら、単語を無理矢理頭の中に入れていく。
 日本人なのにどうして英語の勉強なんかしなくちゃいけないの!
 そう思うのはもう何度目かわからない。

「二宮さん」と呼ばれる前に、ぶすりと頬にかたい指先が突き刺さった。私は驚いて、一瞬肩を跳ね上げさせる。ひっぃ、と引き攣った声が思わぬ音量で口から溢れ、私は慌ててペンを握ったままの右手で口元を押さえた。
「な、なんですかっ。いきなり」
 小さく叫べば、三ツ谷くんがくすくすと笑う。
「いや、随分集中してるみたいだったから」
「そりゃ、だって……そうでしょう」
 こっちは真剣に勉強中だったのだ。そう意を込めて目元を厳しくさせれば、
「悪りぃ、悪りぃ」
 三ツ谷くんは、全く悪びれることなく謝った。
 どれくらい教科書と向き合っていたのだろうか。図書室からはいつのまにか人の気配が無くなっていた。三ツ谷くんは分厚い辞典を閉ざし、辞典の上に肘をついて、手のひらの上に頬を預けている。
「もっかい、いい?」
 三ツ谷くんが、そっと訊ねた。なにを? と首を傾げれば、三ツ谷くんは右手の人差し指の先を、指すように私に向けた。その姿に先程の悪戯を思い出して私はぐっと顎を引く。
「いや、です」
「なんだよ。いきなりって言うから、先に言ったのに」
「突然とか、そうじゃないとかの問題じゃないです」
 話しながら、私は三ツ谷くんの指先から守るように頬を両手で包んだ。三ツ谷くんが微笑む。それから、ねぇ。と話しかけてきた。ひっそりとした、内緒話の声で。
「ねぇ。賭けしない?」
「賭け?」
 聞き返せば、三ツ谷くんがルールを教えた。
「中間5教科のうち、点数勝った教科の分だけ負けた奴は勝った奴の言うこと聞く」
「合計じゃなくて?」
「うん。一教科づつ」
「なら、5教科全部点数が高かったら、5個願いを聞いてもらえるってこと?」
「そういうこと」
 しっかりと三ツ谷くんが頷いた。
「それって」
 私は思う。
 それって私、全部勝っちゃうと思うんだけど。

「それって?」
 三ツ谷くんが、私の顔を覗き込んで聞いた。どうやら無意識に、中途半端に声に出していたらしたい。はっとして、私は慌てて言葉を付け加える。
「それって……、ハンデも何もなし?」
「うん。無し」
 躊躇うことなく、三ツ谷くんは答えた。本当に。と再度きいても、同じ答えが返ってくる。
「いいのそれで?」
 しつこく聞いてみると、三ツ谷くんが苦笑いを浮かべた。
「二宮さん、オレのことだいぶバカだと思ってるでしょ」
「えっ! いや、ちがうよ」
 慌てて言う。
「本当に?」
 嘘だ。
 だけどここで、「だって三ツ谷くん勉強できるイメージないし」とは、最近お付き合いを始めた間柄とはいえ、いや、最近お付き合いを始めた間柄だからこそ軽々しく言えるものでもないわけで。
「ぜんぜん、そういう意味では、なくて」
 と私はモゴモゴと言葉を濁した。
「ぜんぜん、そういう意味」
 三ツ谷くんが繰り返す。それから、フッと鼻で笑われた。今バカにしました、というのが、ありありとわかる笑い方であった。おかしい。そう思っていたのは私の筈なのに。
 もしかして、三ツ谷くんって本当に勉強出来るのかな。
 私は、さっきまでとは違った気持ちで、三ツ谷くんの言う「賭け」の中身が心配になってくる。
 やめておこうかな。
 そう思いながら、こっそりと三ツ谷くんの表情を窺えば、
「帰ろうか」
と、三ツ谷くんが辞典を持った。
「そろそろ、アイツら迎え行かねぇと」
「あ、うん」
 三ツ谷くんに倣い、私も教科書を閉じて鞄にしまい始める。辞典を片手に歩く三ツ谷くんの背中は、目を凝らしてみたところで、何を企てているのかさっぱりとわからない。
 三ツ谷くんの姿が本棚に隠れて消えた。それにようやく私は、穴があきそうな程に眺めた背中から目を逸らし、鞄の中に詰め込んだ教科書を覗きながら、帰ってから何を勉強しようかと計画立て始める。
 とりあえず英語かな。やりたいないけど。それで、そのあと数学。あーでもやっぱり、最初数学にする? 宿題出てたし。うーん。
 そうこう悩んでいれば、
「二宮さん」
 耳元で唐突に名前を囁かれた。
 え、と驚いてびくりと肩を跳ね上げれば、同時に、かさついた、しかし、柔らかな感触が頬に触れた。
 え。
 驚きに開いた口からは、今度は、何の音も出てかなかった。驚きすぎると、人というのは声が出なくなるらしい。
「なあ」
 無言のまま、声の方へと顔を向ければ、辞典一冊分ほどの距離で、三ツ谷くんが、今しがた私の頬に触れたばかりの唇をつかい微笑みをつくった。
 その笑い顔に、胸の奥がぎゅうとなって、ぼっと頬が熱を帯びていくのがわかった。それから、きゃーっ、と大きな声を出したくもなった。そのどちらもを堪えるように、私は大袈裟に掌で両方の頬を隠した。
 それにまた、くすりと三ツ谷くんが笑う。
「一教科でもオレが勝ったら、次、ここね」
 ツン、と引き結んだ私の唇を硬い人差し指がさす。
 ぎょっとして、私は指を避けるように顎をひいたが、三ツ谷くんは微笑みを崩さない。どうしてこの人は、こんな風に笑えるのだろう。
「先に言ったからな」
 だから、突然とか、そうじゃなくって。
 余裕そうな三ツ谷くんに対して、私の声は、情け無いほどに震えていた。隠した頬が、今にも沸騰しそうなくらい火照っていくのが掌に直に伝わる。おそらく掌の下で私の頬は夕焼け色に染まっているはずだ。
「二宮さんって、ほっぺた柔らかいよね」
 ヘラリと三ツ谷くんが言う。
 ああ、もう。
 もう!!
 お腹の奥から溢れてくる感情を逃すように、私は「はあ」とたっぷりとした息を吐き出した。それに、ん? と不思議そうに三ツ谷くんが首を傾げたけれど、私は首を横に振って重たい鞄を持ち席を立った。よいしょ、と左の肩に鞄の持ち手をかけて、椅子を机の下にしまい、きちんと整える。
「帰りましょう」
 図書室を出れば、日が暮れはじめていた。カラスがかあかあと遠くの空で鳴いている。廊下はひんやりとしていて、早くも冬が近づく気配がした。学ランの袖口から三ツ谷くんがベージュのニットを引っ張り出している。
「テスト頑張ろうな」
 大きな目を少し細めて微笑む三ツ谷くんに、やっぱり私は何も言い返せずに、あの橋を渡るべく、昇降口へと向かって足をすすめる。
 キンと冷えた廊下は寒く、その寒さが火照る頬にちょうど良かった。

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