17時の奔流 | ナノ

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17時の奔流

17時の奔流

 橋の上に立っている。
 三ツ谷くんと向かい合うように立っている。
「降ってきちまったな」
 目を細めて、三ツ谷くんが空を見上げた。雨足が団地を出たときよりも強まっていた。
「ごめんね、呼び出して」
「いいよ。どうせ、迎えには出るんだし」
 お迎え。
 私は、背後に続く保育園へと続く道をちらと振り返った。
「それで、用ってなに?」
 三ツ谷くんが単刀直入に話を切り出してくる。

「放課後、少し会えませんか」
 私は、団地の階段から一通メールを送信していたのだった。
 返信は、1時間ほどしてから電話できた。家へと続く大通りを歩いているときだった。
「体調大丈夫なの」
 挨拶も早々に三ツ谷くんが、聞いた。
「教室行ったら、ここんとこ休んでるって聞いたから」
 ぜんぜん、と私は嘘をついた。
「ぜんぜん大丈夫」
「ぜんぜん?」
 三ツ谷くんが、強調するように聞き返してくる。
「うん。それで、その」
 千冬くんに背を押されて、覚悟はしっかりと固まったつもりでいた。どんな結果であれ、思いを伝えようと、私はちゃんと思っていた。
 でも、なんだかダメだった。
 三ツ谷くんの声をきくとダメだった。
 今日、会えますか。
 どうしても会って伝えたいことがあるの。聞いてくれるだけでいいの。
 それだけの言葉が、出てこなかった。
 時間の経った風船がやがて小さく萎んでいくように、私の中から勇気とか安心とか、そういったものがどんどんと萎びれていってしまうのがわかった。
 好きな人の前でこそ、私の臆病は真骨頂をみせるらしい。
 なんて情け無い、私。
「二宮さん、今、どこいんの」
 ふと、三ツ谷くんが聞いた。
「え」
「車の音かなんか聞こえっから。外いんのかなって思ったんだけど、ちがう?」
 車の音、という三ツ谷くんの言葉に、私は横を行き交う車を眺めた。白い軽自動車が向かいか来て、すぐに通り過ぎていく。
「ちょっと、友達のところ行ってて」
 答えると、三ツ谷くんは
「へえ」
 と、そっけなく答えた。それから、
「それで? オレはどこ行けばいいの」
 と、続けて聞く。

「今から行くから」
 三ツ谷くんが、答える前にそう言うので驚いた。今からですか。私が聞くと、三ツ谷くんは、おう、と短く答えた。でも三ツ谷くん、学校は。続けて聞くも、三ツ谷くんは、そんなもん、一日二日どうとでもなんだろ。と、ばっさりと私の意見を切り捨てた。
「つーか、二宮さんだって休んでんじゃん」
 極め付けに、そんなことを言われてしまえば、それはまあ、そうなんですけど。と、私は寄る術もなく頷くことしかできなかった。

 それで、こうしてここにいる。
 心の準備もせぬまま。ろくに身だしなみも整えぬずに。かろうじて、買ったばかりの気に入りのワンピースを着て。三ツ谷くんと二人で、橋の上に立っている。
「サボり?」
 三ツ谷くんが聞いた。
「サボりというか。その……ごめんなさい」
「べつに責めてねぇし」
 三ツ谷くんが、重心を左足から右足に変えた。
「あの、私」
「うん」
「その」
「うん」
 唇も、喉も乾いていた。
 心臓が口から飛びてしまいそうなくらいに、緊張していた。安田さんや千冬くんの前では、恋心をぽわぽわと話すことができるのに。
 まるで、影口をたたく女の子達みたいに、私もまた本人の前では何も言えないのだ。むろん、私の抱く想いに、悪意はひとつも入ってなどはいないし、八つ当たりのような気持ちもないけれど。
「三ツ谷くん」
 呼びかければ、それだけで、じんわりと目の奥が熱くなった。
 怖かった。
 どんな結果でもいいなんて、嘘だった。
 励ましなんていらない。
 三ツ谷くんを殴ったりなんて、絶対にしてほしくない。
 ただ、振られたくない。
 また、こうして話がしたい。他の人を好きだなんて言わないでほしい。私のことを、好きじゃないなんて言わないでほしい。
 どこまでも欲張りな感情が、ぶわりと溢れてしまいそうで、私は咄嗟に自分の口元を手で覆った。
 だけど。
「三ツ谷くん」
 名前を呼べば、堰き止めていた何かが次々に溢れてだして、呼吸がうまくいかなくなった。流れの速い川に、足を取られて、そのまま溺れてしまうような、そんな恐怖と苦しさがあった。
 すん、と鼻を啜れば、
「二宮さん」
 と三ツ谷くんが呼んだ。
 しばしの間をおいてから、
「先に一個だけ、教えて」
 三ツ谷くんは言った。
 何を言われるのだろう。
 恐々と私は三ツ谷くんを眺めた。
「泣かせてんのは、二宮さんが友達っつう男?」
 そのとき、私は思わず、三ツ谷くんから逃げるように足を一歩、後ろに下げてしまっていた。
 三ツ谷くんは怒っていた。
 睨み、何か黒々とした感情を押しこめたような表情をしていた。
 千冬くんの言葉を借りるならば、
「オレがブン殴りに行ってやる」
 そういう、表情だった。

「あの」
 腰がひけたまま、私はおどおどと口を開いた。
「違くて」
 右手で左手を揉むように、胸の前で握る。
 角度をつけた雨粒が、頬にあたった。
「その人は、優しい人で。いつも応援してくれてて。今日も」
 誤解をといても、三ツ谷くんは力強い目つきのまま、私を見つめ続けた。以前は誤魔化すように視線をそらして頬を掻いていたというのに。
「二宮さんが、そいつを頼りたいって言うなら、なんも言わねーよ」
 オレが口挟む話じゃねぇし。と三ツ谷くんが一瞬視線をそらした。
 しばし時間を置いて、
「でもね」
 三ツ谷くんは、続ける。
「オレも、二宮さんの力になりたい。本音は、ソイツじゃなくてオレがどうにかしてやりたいって思ってる」
 ふ、と三ツ谷くんの表情から力が抜けた。
「最初に川底を眺めてたのは、オレの方だったんだ」
 え、と私は小さく声を上げた。川底とはこの川のことだろうか。本筋を探るように三ツ谷くんを見れば、三ツ谷くんは、橋の欄干にもたれて、こんな話をしてくれた。

 母親が働き詰めで家にいないから、家のことは全部オレがやってるんだ。下の妹が産まれてからは特にそうで、その頃は、飯とか洗濯以外にも、ミルクやったりオムツ変えたり、そういう世話もしててさ。学校無い日は朝から妹抱っこして掃除と洗濯して、昼間は公園で妹遊ばせて、帰りにスーパー寄って夕飯つくって。そういう生活を半年くらいしてた。
 そのころはもう、オレも色々わかってたからさ。オヤジがいねぇことも、家に金がねぇことも。だからオフクロが働くしかなくて、オレが家のことやるしか無いってのは理解はしてたんだ。でもガキだったから、心がついていかねぇときがあった。
 でも。言ってどうこうなるもんじゃないし、出来ねぇって言うのもイヤで何も言わないでいた。言えなかったって方がちけぇのかな。ダサいけど。
 
「学校がある日は、自分の時間が出来るからよかった。でも、放課後は好きじゃなかった」
 話の途中に三ツ谷くんがひっそりと言った。
「放課後」
 私は呟き、どうして、と話の続きを促した。
 遊びに誘われても、全部断わってたらさ、そのうち誘われなくもなって。どうせ無理って、自分でも諦めてるくせに、他人から言われんのがなんか嫌だったんだよな。自分勝手だろ。
 だから、この橋渡るのがいつも嫌だった。
 渡るのがいやで、何回もこうやって、川底を覗いてた。
 妹のことを、邪魔だと思ったことはねぇよ。
 でも、ここを渡るたびに、妹を迎えに行かないオフクロも、オフクロを一人にしたオヤジも、なんか全部イヤになった。
「それで、妹置いて、家を出た」
 自嘲するように三ツ谷くんが言った。
 え、驚いて目を丸くする私に、三ツ谷くんは
「最低だろ」
 と、眉を下げて笑う。そんなこと、と首を横に振る私に、三ツ谷くんは、
「雨があがって家を出たんだ。そこで、初めてドラケンに会った」
 と、その夜のことを話し始めた。

 運命のような出会いだと思った。
「見透かされてたよ、完全に」
 言いながら三ツ谷くんはまた笑った。今度は穏やかな、優しい笑い方だった。笑い顔のまま、三ツ谷くんは、翌朝に帰宅したところをお母さんにそれはそれは怒られたと私に話した。
「なにやってんだろ、オレって。凹んだね、あれは」
 三ツ谷くんの視線が川の方に向けられた。川よりも、もっとずっと遠いところを眺めているような視線だった。
「そのまま学校行って。授業うけて。放課後になって。この橋に来て。そしたらそこに、オレより先に川底を覗いてる奴がいた」
 三ツ谷くんの目に、そのときの私はどう映っていたのだろう。
 三ツ谷くんは、ため息のように微かに笑った。
「嫌なことは嫌って言えとか、大事なもん大事にしろとか偉そうに言ったけど、ほとんど自分に言い聞かせてるみてぇなもんだった」
 だからこそ、なりたいモノがハッキリと見えたと三ツ谷くんは言う。
 だからこそ、あのときの女の子を放っておくことが出来ないのだと、言う。
「二宮さんがいたから、この橋を嫌な思い出にしないですんだ」
 三ツ谷くんが話を結ぶ。私は首を横に振った。
 私は、何も。
「それでいいよ。オレが勝手に、思ってるだけだから」

 雨が本格的に降り出している。傘を持たない私たちは、段々と、服を重く湿らせている。風が出てきた。雨雲の流れがはやい。遠くから、ゴロゴロと低い雷の音が微かに聞こえる。
 遅れて、雲の隙間から稲光が落ちた。
「どっかに避けるか」
 三ツ谷くんが空を見て、言った。
 走れる? 
 聞かれた問いに、私は首を縦にも横にも振らなかった。
 三ツ谷くん、と私はささやいた。二宮さん、と三ツ谷くんは首を傾げた。
「三ツ谷くん。三ツ谷くんがいたから、私ずっと、頑張ってこられました」
 雨が私の頬の上を滑り落ちていく。
「え」
 虚をつかれたように、三ツ谷くんの動きが止まった。
「初めて会ったときから、三ツ谷くんが私の支えでした」
 言いながら、私は手で頬を拭った。
「好きです」
 三ツ谷くんは、じっと私を見つめている。どれくらいの時間だっただろう。一瞬のような、数十分のような時間、私たちは見つめ合い、立ちすくんだ。やがて、
「オレも」
 と言いながら、三ツ谷くんが私の腕をひいた。
「行こう、風邪ひいちまう」
 アスファルトを雨が強く叩き始める。川に、波紋がいくつも広がる。雨音の中に、遠く雷鳴が混じのを聞く。ピシャリと三ツ谷くんが水溜まりの上を駆けた。
 嵩を増す川の上を、私たちは走り抜けた。三ツ谷くんが、私の手首の少し上を掴みながら走るから、私はいつもよりちょっとだけ、速く走ることができた。

「え、それって部長と、両思いだったってこと?」
 安田さんが小さく叫んだ。
「両思い、なのかな。でもまあ、そんな感じです」
 安田さんの言葉を、モジモジと私は肯定した。
 およそ一週間ぶりに私はまた、学校へと通い始めた。夏休みのほうが、うんと長い休みであったというのに、この一週間の方が随分と長く時間が経過したように思えた。
 緊張しながら、久しぶりに教室のドアを開ければ
「朋ちゃん大丈夫? 元気になった?」
 と、安田さん達が迎えてくれて、ほっとした。
 雨宿りに寄った私の家で、橋を渡れなくなってしまった、という学校を休んだ理由を、私は三ツ谷くんに打ち明けた。
「そっか」
 三ツ谷くんが言い、ふわりと笑いかけてきた。
「今日、来てくれてありがとう」
 ほら、髪まだ濡れてんぞ。三ツ谷くんが私のタオルを奪って、ガシガシと私の髪を拭いた。
 うわ。自分とは違う力強い手に、声を上げれば、
「随分、伸びたよなー」
 と三ツ谷くんは感心したように話した。
「なにわともあれ、よかったね」
 安田さんがにっこりと笑って、祝ってくれる。
 三ツ谷くんと私が付き合い始めたことは、今のところ、この学校では安田さんしか知らない。
 あんまり、色々言われたく無いな。という私の意見に配慮してくれてのことだった。
「オレだって、ちゃかされんのは面倒だし」
 このことについて、三ツ谷くんはそんな風に言っている。
 千冬くんにも、お付き合いのことは言ってある。
「おー! マジか! え! マジでよかったじゃん」
 飛び上がり、目を丸くしながら、千冬くんは自分のことのように喜んでくれた。
「千冬くんのおかげだよ、全部」
 本心から、私はそう思っている。
 ダチに協力すんのは当たり前だろ、と、千冬くんは笑った。それから、
「オレと朋は同志だからな」
 と宣言した。
 休んだ分のノートを書き写して、私は安田さんに返した。放課後の教室は、オレンジ色の陽を受けて、今にも教室を飛び出していきそうなほどに机や椅子の影を長く濃く伸ばしている。
 今日は学校、楽しかったな。
 そう、私は安心する。
 だけど、そろそろ帰らなくちゃ。
 時計は、16時30分を過ぎていた。ただそれだけでトロンと心が蕩けてしまう気持ちになる。
 校門で安田さんと別れて、ふわふわと軽い足取りで私は一人帰り道を歩いた。
 三ツ谷くんに会いたいな。
 思って、私は橋へと急いだ。辺りを見渡したりはしない。真っ直ぐに、欄干にもたれて川を見下ろす姿へと向かって歩く。
「おまたせしました」
 三ツ谷くんと並んで、私は橋を渡り始めた。川は先日の雨で決壊寸前のところまで水嵩を増していた。あの日の帰り、この川凄かったんだぜ。と、三ツ谷くんが教えてくれる。流れのはやい川を想像して、それでも三ツ谷くんが一緒なら大丈夫な気がする、なんて恥ずかしいことを感じながら、私はちょっぴり歩幅を狭めた。

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