17時の奔流 | ナノ

17

17時の奔流

晩夏

 連絡先を交換してから、一度だけ三ツ谷くんと橋の上で会ったが、その日の三ツ谷くんは急いでいるようで、挨拶だけをして小走りに去っていった。
 それからお盆の期間に入り、私は一週間ほど祖父母の家に帰省した。
 そうこうしているうちに、夏休みも終盤に近づいた。学校からの課題も終わり、月末の模試にむけて塾の授業も総まとめに入ってきている。連日の猛暑日の中で繰り返される、「もうすぐ新学期」と言う言葉に、私は身体的にも精神的にも憂鬱な日々を過ごしていた。
 私の携帯電話にお父さん以外の男の人が初めて電話を寄越したのは、そんな火曜日の夜のことだった。着信は千冬くんからだった。
「新刊、買った?」
 電話をとった途端に、千冬くんが言った。
 え、と机の上にある、まだフィルムがかかったままの単行本を私は眺めた。買ったけど、まだ読めてないの。私が言うと、千冬くんは、オレも。と明るい声で言った。
「今から読むんだけど。朋と話しながらの方が、ぜってぇ面白いと思って」
 弾むような声に、つい私の口角が緩む。それから。人好きする人だなあ。と感心した。きっと、千冬くんには学校にもたくさん友達がいるに違いない。先輩や、後輩からも好かれたりしているのだろう。その髪の色はなんだ。と叱る生活指導の先生とすら、ごめんごめん。見逃してよ。なんて友達や親戚同士のような気軽さで話たりするのだ。
 私とは、真逆に。
 私だって、幼いころは両親の間に挟まれて、揚々と育ったはずだというのに。いつのまにか教室の隅っこに潜んで新学期を憂鬱に待ち構えるようになってしまった私は、いったいどこで何を間違えたのだろうか。
 気づかれないようにため息をつき、私は単行本を包むフィルムを剥がした。ペラリと一枚紙を捲る。乾いた感触が指に心地よい。お喋りだった千冬くんが、徐々に口数を減らし、物語に集中していくのを耳元で感じながら、私は静かにページをすすめた。

 目が覚めると、太陽は随分と高い位置にあった。カーテンの隙間から差し込むギラギラとした日差しに、まだうまく開かない目がもう一度キツく閉ざされる。
「いつまで寝てるの」
 母が苛立たしげに扉を叩いた。起きてる、とボソボソと答えると、母は扉の向こうでため息をついた。
「もうお昼、みんな済ませちゃったわよ」
「うそぉ」
「嘘じゃないわよ。夜ずっとお喋りしてたみたいだけど、ほどほどにしなさいよね」
 ごめんなさい。ようやく身体を起こして、扉に向かい謝れば、母は「いいから、何か食べなさい」と答えた。それから扉を薄く開けて、顔をひょっこりと覗かせる。
「それで? 電話は、男の子?」
 そうだけど、そう言うんじゃない。という本当の話は母には上手く伝わっていないようだった。お父さんには内緒にしておいてあげる。と言った母の頬は、ニヤニヤと緩んでいた。あれは私が千冬くんを好きだと思っているに違いない。恋愛マンガを私が好んで読むきっかけは、母からの影響なのだ。
 母からの生温い視線が心地悪くて、私は午後の町に繰り出した。暑さのピークを越えたのか、昼時の茹だるような熱は感じられない。先の丸いぺたんこのパンプスをコツコツと鳴らして、駅へと向かう道を歩いた。
 当てもなく、図書館やカフェにふらふらと立ち寄り、時間を潰した。目的のない散歩というのは、楽しめるときと退屈なときに極端に別れる。今回はどうやら後者なようで、すぐに家に帰ろうかと思ったけれど、16時を指す時計を見て、あと少しだけ。と、私はカフェの椅子に座り直した。

 橋のずっと手前で、三ツ谷君に会った。
「珍しいね」
 うん。と私は答えた。時間を狙った気まづさから、少しだけ視線をそらして。
「どっか行ってたの」
 うん。再度、頷く。ちょっと、家にいたくなくて。小さな声で言い訳のように私は呟く。
「なんかあった?」
 三ツ谷くんが真面目な顔で聞いた。
「えっ。いや。そんな大したことでは」
「うん。それで、どうしたの」
 三ツ谷くんが腰をかがめた。私を覗き込むように見つめてくる。
「あの。本当に何もなくて」
 三ツ谷くんは、何も言わない。ただじっと私の顔を見つめては、私が何かを話すのを待ち構えている。本当に大した話じゃないのに。余計なことを言ってしまったと後悔しながら、真剣な表情の三ツ谷くんに、私はどうしたものかと視線を彷徨わせた。
「二宮さん」
 先に三ツ谷くんが口を開いた。私を見つめながら、深刻な声で呼びかけてくる。
「は、はい」
「オレに助けられることがあったら、言って。って言ったよな」
 三ツ谷くんが言う。
「一人で抱え込んで、思い詰めるくらいなら、オレのこと頼ってよ」
 どんどんと私たちを取り巻く空気が深刻になっていく。あのね、三ツ谷くん。私が言うと、三ツ谷くんが重々しく頷いた。昨日の夜に私、長電話をしててね。それで、お母さんに小言を言われたというか、なんというか。
「ん?」
 三ツ谷くんが眉を上げる。あまりな話のくだらなさに、私は今日一番の気まづさを感じながら、しおしおと続けた。
「それだけだから。本当に、何もないの」
 ああ。三ツ谷くんが言った。ああ、そっか。ならいいんだけど。三ツ谷くんもまた、どこか気まづそうに頬を掻く。
 しばらく家々が立ち並ぶ通りを歩くと、いつもの橋に差し掛かった。窮屈だった道が開ける。
 どことなく気まづい空気が、いまだ三ツ谷くんから放出されている。恐らく、私からも。日差しを遮る家の影を無くして、直接太陽の光が私たちに降り注いだ。ジリジリとした暑さも、滲む汗も今だけは気にならなかった。この橋を渡り終えたくなくて、私はほんのちょっぴり、歩幅を狭めて歩く。三ツ谷くんがこうして気にかけてくれたことが、嬉しかったから。どうしようもなく、嬉しかったから。

「二宮さんも、長電話とかするんだね」
 空気を変えるように、三ツ谷くんがからりと言った。
「女の子って、話し出すと、なげぇもんな」
 三ツ谷くんは笑いながら決めつける。
「ウチ、オレ以外家族みんな女なんだけど、朝から晩まで誰かしら喋ってんの」
 迷惑をしている。というような話し方であったけれど、語る表情はとても穏やかなものだった。仲の良い家族なんだろう。大切にしているのが、見て取れる。
「安田さんとかも、以外と、喋るもんな」
 確かに、そうだね。私は同意を示した。それから、でも。と話を続ける。
「でも、電話だと、そこまで長くなったりはしないかな」
「そうなの?」
「うん。昨日の人が、ちょっと例外」
 思い出して私はくすりと笑う。あんなに一つの漫画で一緒に盛り上がれるのは千冬くんくらいしかいないだろう。
「つい長話しちゃうんだよね。男の子で長電話ってやっぱり珍しいんだね」
 笑い声に私は言った。付き合わせちゃって悪いことしたかな。と続ける。
「男なの。電話」
 三ツ谷くんが、驚いたように眉をあげた。
「うん、そう」
「へぇ。そうなんだ」
 三ツ谷くんが足を止めた。難しい顔をして、睨むように私を見てくる。どうして。私もまた、ヒヤヒヤとした気持ちで三ツ谷くんを見つめ返した。
「学校のやつ、じゃないよな。そいつ」
 うん。気圧されるように、私は頷いた。
「うん。塾帰りに寄り道したときに、会って。その」
「寄り道、ね」
 三ツ谷くんはそのまま黙って歩き続けたが、マンションの前につくと、
「二宮さん。花火、しない?」
 と、突然言った。花火? 私が聞き返すと、三ツ谷くんが深く頷く。19時にマンションの下ンとこで待ってから、来て。なんだか不良同士の諍いでも始まりそうな低い声で言う。
 いや、えっと。私は口をもごつかせる。来れねぇの。三ツ谷くんが、聞いてくる。上目遣いなのか、ガンをつけられているのか微妙な、でも強い意志を込められた視線に圧されて、大丈夫です。と私はなんだかよくわからないままに返事をした。

 神社につくと、二人、男性がしゃごみこんでいた。後ろ姿しか見えないが、正直な感想を述べるなら、絶対に関わりたくない雰囲気の人たちであった。ああん? と喧嘩腰のしゃがれた声が聞こえてくる。あれ、この声。覚えのある声に記憶を巡らせる私の前を、臆することなく悠然と三ツ谷くんは進んでいった。小走りに追いかけると、一人の男性がこちらを向き、手を高くあげた。三ツ谷おせぇ。さっき聞いたばかりの、しゃがれた声である。
 林田くん? 私が呟けば、ぱーちんもいるよ。と三ツ谷くんが教えてくれる。確かに、言われてみればあの後ろ姿は林くんのものかもしれない。
「ドラケン達は」
 三ツ谷くんが林田くん達に向けて声をかけた。マイキーの菓子買いに行ってる。と言いながらもう一人の男性、林くんが振り向いた。
 そっか。と三ツ谷くんは二人と同じように蹲み込む。どうすれば。と戸惑いつつ立ちすくんでいれば、すっと林くんの視線が私に移り、近くにあったビニール袋を引き寄せて、中からペットボトルを取り出すと、
「ほらよ」
 と、私に差し出した。
「ありがとう」
 私が受け取ると、林くんは片方の眉を器用に持ち上げた。
「珍しな、オマエがこういうの来んの」
「まあ。その、ちょっと」
 曖昧に私が言うと、三ツ谷くんが口を開いた。
「そこって絡みあんの」
「小学校が、同じ……くらい?」
 林くんと私が同じように首を傾げた。絡み、と言うほどの親しみは林くんと私の間にはない。
「あとは安田さんから、聞くくらいで」
 私が言うと、げ。と林田くんが顔を引き攣らせた。それを見て「ぺーやん顔やば」と三ツ谷くんが笑う。
 うるせぇ。三ツ谷てめぇ。つーか、なんでこいつ連れてきたんだよ。
「おいペー、三ツ谷の客に、なに文句つけてんだよ」
 林田くんの言葉が終わるとともに、後ろから低く大きな声が降りかかってきた。
 あ。振り向いて私は小さく口を開いた。視線の先には、それぞれに金色の髪をした三人が並んでいた。少し前に、コンビニで会った人たちだった。背の高い人と低い人。
 それから、エマちゃん。

「楽しんでる?」
 ドラケンくんが聞いた。
 私は、うん、と頷く。三ツ谷くんも、おう、と答えた。手持ちの花火が勢いを無くしていく。
 火が消えると「頂戴」と三ツ谷くんが私に手を伸ばした。「ありがとう」と私が消えた花火を三ツ谷くんに渡せば、三ツ谷くんは花火を片付けにその場を離れた。ドラケンくんが三ツ谷くんに代わり、私の隣に蹲み込む。
「悪いね、うるせぇだろ」
 ドラケンくんが離れたところにいるマイキー君たちを指して言った。
「そんな。こちらこそ急に、お邪魔しちゃって」
「いいよ俺らは。なんつーか、珍しいもん見せてもらってっから」
 ドラケン君は、私を覗き込むようにして笑った。
 珍しいもの。それって嫌味ですか、なんて聞けるわけもなく、私は「はあ」と苦く答えた。そうすれば、ドラケンくんは「ぶはっ」と吹き出して、
「んな、嫌そうな顔しなくても、いいじゃん」
 とケラケラと笑った。
「えっ、いや、そんな」
 慌てて私は否定する。ドラケンくんの笑いは収まらない。すると、
「ケンちゃん」
 と、鋭い声がとんできた。声の主であるエマちゃんが、ずんずんとこちらに向かって歩いてくる。
 なんだよ。ドラケンくんが言った。なんだよじゃないし。頬を膨らませたエマちゃんが仁王立ちに、ドラケンくんと私を見下ろしてくる。綺麗な子。怒っていても美人は美人なんだな、と私はぼんやりと眺めた。ほら、こっち来て。エマちゃんがドラケン君の手を引き、私のことを横目に睨んだ。
 あれ、もしかして。エマちゃんって、そうなのかな。思いながら、私は渋々といった様子で立ち上がったドラケンくんを見上げた。柔らかくドラケンくんが私に笑いかける。エマちゃんがドラケンくんのがっしりとした腕に、細い腕を
 絡めて、マイキーくん達の方に引っ張るように歩き始めた。二人とすれ違いに、三ツ谷くんが戻ってくる。三ツ谷くんとエマちゃんの視線が一度重なり、すぐに離れた。
 それから三ツ谷くんは私の方を眺めた。二宮さん、なんか言われた。そう訊ねながら、私を見つめた。
 ううん。とくに。私は首を横に振り、答えた。三ツ谷くんはそのまま視線を向けたまま、蹲んだ。眉を顰めて、じっと見てくる。
 林田くん達が社の近くで歓声を上げた。滝のような音をたてて花火が噴きあがっている。
「うわ、すごい」
 花火を眺めながら私が呟いた。きゃあ、と可憐な声でエマちゃんが笑っている。すぐに、ふっ、と吐息のような声で三ツ谷くんが笑った。横目に見る三ツ谷くんの表情は、もとより垂れている目尻をさらに蕩けたように下げている。
「三ツ谷くんは、エマちゃん達といつから仲がいいんですか」
 んー。と言いながら、三ツ谷くんは私に線香花火を二本、差し出した。どうやら、片付けの帰りに持ってきてくれていたらしい。そのうち一本を摘みとれば、三ツ谷くんは、ポケットからさらに透明なボディのライターを取り出した。
 カチッと乾いた音とともに、ライターに火が灯る。
「はい」と差し出された火に線香花火を近づければ、パチパチと小さな光が弾けた。すぐに三ツ谷くんの花火にも火が灯る。
 手元に光る儚い灯に集中すれば、三ツ谷くんと私だけが賑やかな場から切り離されてしまったような感じがした。
「ドラケンとは、二宮さんに会った前日から」
 唐突に、三ツ谷くんが言った。え、と顔を上げれば三ツ谷くんと目があった。真剣な眼差し。
「それから、ドラケン伝いにマイキーと会った」
 そうだったんだ。私は頷く。それから慎重に訊いてみる。エマちゃんも、ドラケンくんのお友達で?
「違うよ」
 三ツ谷くんは言った。
「マイキーの妹」
「妹?」
「そう」
 私は、マイキー君とエマちゃんを交互に見た。似てると言えば似ている、ような気がする。
「分からなかった」
「ドラケンにべったりだからな」
 三ツ谷くんが少し笑った。ぼんやりと淡い光に照らされている。パチパチと線香花火の音が、続いている。
 三ツ谷くんは、辛くないの。私はつい口を吐きそになった。しかし飲み込んだ。線香花火が細い光を四方八方に瞬かせている。中心に灯る光が重く、垂れかけている。
「二宮さんは、好きなやついるの」
 突然、三ツ谷くんが聞いた。
「いません」
 少し黙って、私は答える。
「そっか」
「三ツ谷くんは、いるんですか」
 私は身を縮こまらせて聞いた。指先に力がこもり、線香花火の光がわずかに震えた。
「いるよ」
 線香花火の光が、眩しい。煙が、目に痛い。鼻の奥がどうしてか、ツンとする。
「うまく、いくといいね」
 絞り出すような声で、私は言った。
「どうかな」
 苦いものでも食べたように、三ツ谷くんは話しはじめた。
「うまくいくと思ってたけど。知らねぇ間に、別んとこで話が進んでてさ。正直、いま後悔してる」
 後悔している。それは今まさに、私も同じ状況だった。千冬くんが背を押してくれた日に、伝えてしまえばよかった。そう心から思っていた。
 しかしもう戻ることは出来ない。「もしかしたら」と自分で自分を慰めることも、苦しめることすら、もう出来ない。時間というのは、誰にでも平等に不可逆だ。
「現実って、やっぱり、厳しいですね」
 私はしみじみと思った。それから、三ツ谷くんにこんな表情をさせているエマちゃんを妬ましく思った。
「私なら、三ツ谷くんを選ぶのに」
 え。三ツ谷くんの声とともに、三ツ谷くんの持つ線香花火の火が落ちた。あ、とそれを目で追えば、続くように私の火もポトリと落ちた。オレンジ色の熱が、土の上にとろりと溶けて消えていく。

 それって。どういう意味。三ツ谷くんが聞いた。灯りを失った暗闇の先で、三ツ谷くんがぽかんと私を眺めてくる。
 どういうって? 私は首を傾げる。それから頭の中で自分の発言を反芻した。
「あっ」
 私は自分が、意味を含んだような発言をしたことに気がついて、自分の口を覆うように手で塞いだ。
 ちがう、ちがくて。慌てて否定の言葉を繰り返す。
 あーうん。大丈夫。三ツ谷くんが頬を掻く。
 あの。その。
 いい。わかってっから。
 夜の闇に包まれたまま、私たちはモゴモゴと言葉を濁しあった。離れたところでドラケンくんが、そろそろ終わりにしようぜ。と声をかけてくる。それに私は救われたような、そうじゃないような、なんだかよくわからない気持ちになった。

 じゃあ、ここで。
 三ツ谷くんがマンションを見上げた。あのまま場は散会となり、今回もまたこうして三ツ谷くんが家まで送り届けてくれたのだった。
 ごめんね、エマちゃんいたのに、送らせちゃって。早口に私は言った。は? と三ツ谷くんが、首を傾げた。俺こそ、無理矢理連れ出して悪かった。と答える三ツ谷くんに、え? と私も首を傾げた。
 楽しかったです、花火。すごい久しぶりで。私が言うと、三ツ谷くんは眉を下げた。ならいいけど。
 暑いな。三ツ谷くんが手の甲で額を拭う。夜の空気は、重く湿り気のあるものから乾いたものに変わりつつある。秋の気配をうっすらと感じながら、私は「そうだね」と頷いた。
「アイス、食う」
 三ツ谷くんが聞いたので、私はすぐに
「うん、食べたい」
 と頷いた。
「ちょっと、寄り道するか」
 三ツ谷くんがポケットに手を入れながら、言った。
「そうしましょうか」
 私は一歩、家から離れて答えた。
 街路樹の側から虫の鳴く声がする。蝉とはちがう、鳴き声だった。人気のない道を三ツ谷くんと私は並び歩いた。ときどき三ツ谷くんの肘が、私の腕に触れる。私たちは同じ歩幅でゆっくりと歩いていく。

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