17
17時の奔流
橋の上
三ツ谷くんに、会いたいな。そう思いながら私は川にかけられた橋を渡る。
辺りを見渡したりはしない。三ツ谷くんがいないことなど、わかりきっているからだ。
三ツ谷隆くんという同じ中学に通っている、同い年の男の子には、クラスが離れているせいもあってなかなか遭遇出来ない日が続いていた。彼の声を最後に聞いたのは、もう随分と前のことになる。
三ツ谷くんは不良だ。
詳しくは知らないけれど「東京なんとか會」という暴走族のグループで隊長を務めている、なんて噂がある。剃り込みの入った眉毛に銀色に染められた髪は、確かに、不良らしい風貌といえるだろう。
そんな彼には、もう一つの顔がある。手芸部の部長だ。すごく手先が器用で、人に教えるのも上手いらしい。今年に入ってさらに部員が増えたのも、三ツ谷くんのおかげだと安田さんは言っていた。
どうして暴走族と手芸部といった、一見、対極にすら思える二つを両立させているのかはわからないけれど、どちらの面も慕われているのか、三ツ谷くんの周りには男女問わずいつも誰かが側にいた。部活中にもかかわらず、不良が家庭科室にやってきては、三ツ谷くんを誑かすから手芸部の部員はほとほと困っている、という話もまた、安田さんからきいた話である。
安田さんも、手芸部の部員だから、部活中の彼の様子に詳しいのだ。といっても安田さんからきく話は、ほとんど、林くんの話なんだけれど。
それでも、安田さんの話から三ツ谷くんの様子を少しでも知ることができて、私は嬉しく思っていた。応援しているアイドルのオフショットを知れたような、そんな気持ちで。
三ツ谷くんのことが、私は好きだ。
といっても、告白したいとか、付き合って欲しいとか、そういう好きとはたぶん違う。もちろん、三ツ谷くんみたいな男の子とお付き合いできるならすごく幸せなんだろけど、テレビの中のアイドルと同じくらい三ツ谷くんは私にとって遠い存在だった。
三ツ谷くんと私に、「同じ中学」以外の共通点はない。たぶん三ツ谷くんは、私のことを知ってすらいないと思う。
あまりに一方的な片思いは、小学校五年生のとき、この橋の上で三ツ谷くんに出会ったことから始まった。台風が過ぎたばかりの日で、川は、濁った水で嵩を増していた。三ツ谷くんは今よりもっと髪が長くて、半袖のTシャツの下に黒の長袖を重ねていたことを、よく覚えている。
三ツ谷くんと学校以外で会えたのは、その日の一回きりだった。同じ学区に住んでいるはずなのに、私と三ツ谷くんとでは生活スタイルがまるで違うらしい。
だから遭遇率が低くとも、学校は私にとって三ツ谷くんを見られる、貴重な場所となっていた。
私たちの通う学校には、何人か目立つ不良がいる。三ツ谷くんみたいな不良と、チャラチャラとした軟派な不良だ。後者には女の子も混じっている。二宮キモくね。なんかウジウジしてて、見ててイラつくんだけど、と影口を言われたのは、入学して割とすぐのことだった。スカートを校則の規定よりもずっと短くして、細い足をこれでもかと露出している、いかにも渋谷を練り歩いていそうな女の子に、言われたのだった。
たしかに、私は明るく元気なタイプではないし、親しくない人から話しかけられると、おどおどとしてしまう時があるけれど。
どうして、キモイなんて言われなくちゃいけないんだろう。何か言い返してやりたかったけれど、不満を訴える勇気もなくて、結局、何も聞こえなかったフリをして私はすごすごと家へ帰った。
学校なんて、無くなればいいのに。そう思いながら、私はその夜、布団の中で声を殺して泣いた。
学校に行くのが嫌で、刻々と翌朝に向けて進む時計の針に怯えていた。あの子だけでなく、クラスのみんなが、私のことを鬱陶しく思っているのではないかと疑って仕方なかった。
溢れる涙を堰き止めるように、強く瞼を閉ざせば、瞼の裏に三ツ谷くんの姿が浮かんだ。
橋の上に立つ、ランドセルを背負った、小学生の頃の三ツ谷くんの姿。
ちょっとだけ恐怖心が薄らいだ。三ツ谷くんに会えなくなるのは嫌だな。はっきりと私は思っていた。
状況は良くも悪くもなることなく、冬を迎えた。
一年生のバレンタインの日のことだ。
その日は持ち込み禁止のお菓子をみんなこっそりと鞄の中に忍び込ませていて、一日中、どこか浮足だった空気が校舎全体に漂っていた。私も例に漏れず、一年に一度のイベント事に乗じてチョコレートをつくり、友達と贈り合ったものだった。
放課後に校舎に残るようなことはしなかった。放課後は部活動の時間だ。そうじゃない人でバレンタインの放課後に校舎に残るのは、カップル同士じゃないといけない、というのが、うちの学校のなんとなくの決まりだった。
三ツ谷くんは、部活かな。
きっといっぱい、貰ってるんだろうな。
なんとも言えない気持ちで、昇降口に向かうと、入り口を塞ぐようにして不良が二人立っていた。片方は痩せて背が高く、片方は恰幅の良い小柄だ。二人はドスの効いた声で何やら話しをしていた。
わ、どうしよう。
間を割って通れる雰囲気でもなくて、私は下駄箱の影に隠れるように立った。
小柄な不良が林田くんで、背の高い方が林くんだった。
彼らの会話はどんどんとヒートアップしていき、何やら言い争いをはじめている。林くんが、パーちんの脳みそはミジンコレベルだ、と叫ぶ声が昇降口に響いた。
どうしよう。もう一度思って、私はうつむく。
「おまえら、そこ塞いで立つなよ。困ってんじゃん」
突然声が振ってきたと思えば、声の主は私の横を通り不良二人の元へと歩み寄った。あ、と私は顔を上げる。三ツ谷くんだった。女の子の洋服のブランドの紙袋を手に、少しガニ股に歩いて、二人の前に立った。ごめんな。通っていいよ。言いながら、振り返って笑ってくれる。
銀色に染められた髪が、夕方の光を浴びて、キラキラとしている。
「あ? いたなら、言えよ」
林田くんが眉を顰めた。
「あんなでけー声で話してたら、声かけにくいだろ」
三ツ谷くんが林田くんに言った。すぐさま林くんが口を挟む。そもそも、三ツ谷のこと待ってたんだぜ。厳しい声だった。
わりぃ、わりぃ。部活の人に呼び出されちまって。三ツ谷くんが、軽く謝った。それから、三ツ谷くんはもう一度私に視線をむけると、
「帰んねぇの?」
と首を傾げた。
「え! あ、すいません」
すいません、と頭を下げながら、私は開けられた一人分の隙間を通り、昇降口を小走りに駆け抜けた。
そのまま学校から橋まで走った。去り際に林田くんが、
「何だアイツ」
と言ったのが気になった。
陰気な女だと思われただろうか。そういえば、三ツ谷くんにお礼も言えなかった。
うまく出来ない自分に、ため息が溢れる。
落ち込んだ気持ちのまま、橋を越えて、家に帰った。セーラー服を脱いでハンガーにかける。はやく学校に行きたいと、私は思っていた。
林田くんの声のあとに聞こえた、三ツ谷くんの「またなー」の声と、手にした紙袋の中を想像して、嬉しくなったりモヤモヤしたりと、感情を忙しくさせながら、友達にもらったチョコレートの包みを開けていく。外はすっかり夜に染まりはじめていた。
三ツ谷くんと話をした、二度目のことだった。
三度目は、二年生になった、六月だ。
雨がすごく降っていて、学校の机はなんだか湿っぽかった。私は掃除当番で、最後にゴミ袋の封をしているところだった。安田さんが教室に入ってきた。
「え、何で一人でやってるの」
私を見るなり、安田さんが言った。思いの外、大きな声で言われたので、びっくりした。
「え、あ、終わって、みんな部活とか行ったところで」
「ゴミ捨てるとこまでやって、終わりでしょ?」
安田さんは腰に手を当てた。なんだか、自分が怒られているような気になって、すみません、と私は謝る。
「もー、朋ちゃんが謝ることじゃないでしょ」
腕まくりをしながら、安田さんは私の方に歩み寄ると
「手伝うよ」
とニコリと笑った。
ゴミの収集場は校舎の外に設置されている。どれだけ急いでも、教室からだと片道で5分くらいかかってしまう、不便な位置にあった。
二人でゴミ袋を分け合って廊下を歩いていれば、急に安田さんは2年3組の教室を覗いて、
「三ツ谷くん、掃除当番手伝ってから行くので、部活少し遅れます」
と叫んだ。
「おー、了解」
窓越しに、手を上げる三ツ谷くんが見えた。
「おつかれ」
ニコリと笑った顔に、心臓がぎゅうとなる。
「朋ちゃんて、ほんと、三ツ谷くんのこと好きだよね」
安田さんは呆れたように言った。
「そんなに好きなら、手芸部入ればよかったのに」
ごみ収集場までの道で、安田さんはそんなことを言った。
「裁縫できないし」
私は首を横に振る。不器用な自覚はあった。
「そんなの最初はみんなそうだよ」
安田さんは、さらりと言うと、
「それに、三ツ谷くん、教えるのも上手だよ」
と悪戯っぽく続けたので、私は恥ずかしくなった。
「ほ、ほんとに、見てるだけで十分なので! 話したいとか、知られたいとかも、無いし」
慌てて答えたら、安田さんはまた呆れた顔になった。
「本当にそれでいいなら、いいんだけどさ」
ゴミを捨てると、そのままのあしで安田さんは部活に向かった。雨はまだ強く降り続いている。夜にはあがるとの予報だったが、どうだろう。私は雨足が弱まるのを期待して、図書室で時間を潰すことに決めた。読もうと思っていた本が無かったので、なんとなく聞いたことがある程度の作者の小説を手にとれば、いつのまにか下校のチャイムが鳴るまで、本にのめりこんでいた。
今日は、学校楽しかったな。そう思って、ほっとした。本は借りて帰ることにした。
「あれ、残ってたんだ」
三ツ谷くんに言われたのは、またしても昇降口でのことだった。
「え」驚いて私は固まる。
「雨、やまねぇな」
三ツ谷くんは、外を眺めて言った。
「あ、う、うん」
どもりながら答えると、三ツ谷くんはちょっと困ったように笑った。
せっかく、話しかけてくれたのに。そう思えば思うほど、焦ってしまって何も浮かんでこなかった。
もだもだとしていれば、じゃあな、と言いながら、三ツ谷くんは傘を広げて昇降口を出て行ってしまう。
しょんぼりと外に出れば、少し前を三ツ谷くんが歩いていた。
家、こっちなんだ。同じ方角ということだけで、嬉しくなりながら、帰り道を歩いた。二つの信号と一つの曲がり角を過ぎても、三ツ谷くんは私の前を歩いていた。
あれ、と思いながら、歩き続ける。橋に差し掛かったところで、突然、三ツ谷くんが振り向いた。
「オレ、つけられてる?」
「え!」
さっきよりびっくりして、少し大きな声が出る。今日は驚いてばかりだ。目を丸くしながら、心臓をドキドキとさせる私の前で、三ツ谷くんはコロリと表情を変え、歯を見せて笑った。
「冗談。家こっちなの?」
こくり。私は頷く。
「そっか。オレ、妹がこの先の保育園通っててさ」
あ、と私は思い当たる。
「緑の、屋根の?」
「そうそう。知ってる?」
「うち、その向かいのマンションだから」
どうやら、ほとんど同じ場所を目指して歩いていたらしい。なら一緒に行こうぜ、という三ツ谷くんの誘いに、ドキドキのキャパシティを超えた私は頷くことすら出来ないまま、うつむきがちに橋を歩いた。顔が熱くて、なんでか、よくわからないけれど、泣いてしまうかもしれないと、思っていた。
そこから家までの道に、会話はほとんど無かった。保育園から私の住むマンションまでは目と鼻の先だというのに、三ツ谷くんはわざわざマンションのエントランスまで送ってくれた。
「ありがとう」
去り際に礼を言うと、三ツ谷くんは少し黙って、あのさ、と話始めた。
「あのさ、安田さんから今日のゴミ出しのこと聞いたんだけど」
「あ、ごめんなさい。安田さん、部活行くの遅くなっちゃって」
真面目な声で言う三ツ谷くんに怯えて、早口に私は謝った。
そうじゃなくて。呟きながら、三ツ谷くんは大きく一歩、私のほうに近づいてきた。少し腰をかがめた三ツ谷くんが、私の顔を覗きこんでくる。
「嫌なことは、嫌って言えよ」
温かいぬくもりが、髪を撫でた。
その瞬間、時間が止まってしまったように感じた。ザアザアという雨音が遠くなる。
同じような言葉を、過去にも三ツ谷くんから言われたことがあった。あの橋の上で、初めて三ツ谷くんに会った日のことである。
決壊寸前までに水嵩を増した川を、私は柵に身を乗り出すようにして、ぼんやりと見下ろしていた。
そのとき急に、
「何やってんだよ」
と後ろから引っぱられたのが、三ツ谷くんとの出会いだった。勢いよく尻餅をついたせいで、お尻をズキズキと痛めるはめになった。
「こんなところで、死ぬなよ」
仁王立ちをした三ツ谷くんが、へたりこむ私を見下ろして、叱った。
死ぬ? どういうことかわからなくて、首を傾げると、三ツ谷くんも同じように首を傾げて
「自殺しようとしてたんじゃねえーの?」
と訊ねてきた。
「し、しないよ! そんなこと!」
「じゃあなんで、そんな顔して川なんか覗いてんだよ」
言いながら、顔を覗きこむようにして、三ツ谷くんが私の横に足を広げてしゃがみこんだ。
意志の強そうな眉に反して、垂れた大きな目が、優しい。
三ツ谷くんが、撫でるようにして、私の髪を梳いた。
「ぼさぼさじゃん」
三ツ谷くんの呟きに、私は頬がかっと熱くなるのを感じた。恥ずかしかったのもあるけれど、そうじゃなかった。三ツ谷くんの手の優しさに自然と泣けてきたのだった。
ポロポロと、私は、涙を流し続けた。
涙はぜんぜん止まらなくて、気づけば私は、しゃくりあげるようにして泣いていた。三ツ谷くんは、私の涙が落ち着くまで、ずっと頭を撫でていてくれた。
「ヘアゴムを取っちゃったの」
というのが、そのとき私が、髪を乱して川を覗いていた理由だった。
ヘアゴムは、少し前にお母さんが買ってくれたものだった。紺色のリボンのついていて、私はそれをとても気に入っていた。それなのに、ヘアゴムを外してしまったのは、当時クラスメイトだったユミちゃんが、同じ日にピンク色のリボンをつけて学校に来たからだ。
「とれって?」
三ツ谷くんが聞いた。
「そ、そんなこと、ユミちゃんは言わないよ」
あわてて私は否定した。むしろユミちゃんは私のリボンを見て、お揃いだね、と笑ってくれたのだ。
リボンをつけたユミちゃんは、すごく可愛くて、お人形さんみたいだった。
血色のよいほっぺたも、ゆるくウェーブのかかった髪も、レースがいっぱいに使われた洋服も、ぜんぶユミちゃんの頭についたリボンに似合っていた。
「ユミちゃんの方が、ずっと、似合ってたから」
ユミちゃんを囲うようにして立っていた女の子の言葉を繰り返す。おさまったはずの涙が、また溢れてきそになった。ずっ、と私が鼻を啜ると、
「誰に何言われたのか知らねーけど、んな自分のこと下げる必要なくね?」
と三ツ谷くんは言って、
「もうつけないなら、そのヘアゴム、くれよ」
と、さっきまで頭を撫でてくれていた手を、私の顔の前にずいと伸ばしてきた。
「妹にやるから」
「でも」
私はおろおろと戸惑う。
三ツ谷くんは何も言わない。ただじっと、真っ直ぐに私の目を見つめてくる。決して、急かすような素振りは見せずに、静かに待とうとする三ツ谷くんに、どうしてか、私の気持ちが焦りをみせていた。
怖かった。
この場から逃げてしまいたい。と思った。
これ。掠れる声で、私はポケットにしまったヘアゴムを三ツ谷くんに差し出した。三ツ谷くんの手に紺色のリボンが乗っかる。私につけられていないリボンは、やっぱり、すごく可愛いかった。
「後ろ向け」
黙っていた三ツ谷くんは、突然口を開いて、怒ったようにそう言った。
え? 私は聞き返した。
「はやく」
は、はい。私は言われるがままに三ツ谷くんに背を向けた。首のあたりに三ツ谷くんの手が触れて、下ろした髪をもちあげられた。さっきとは違う要領で、髪を手で梳かされる。
「そんな顔するくらいなら、嫌なことは嫌って言え」
髪を束ねながら、三ツ谷くんは話した。
「他のやつと被りたくねぇ気持ちはわかっけど、好きなもんは、好きでいいし、大事なもんちゃんと大事にしろよ」
くん、と後ろから弱く髪を引っ張っられた。返事。と促されて、はい。と私は弱々しく答える。それでいい。三ツ谷くんは満足そうに笑った。私も、少しだけ笑った。
「オマエさ、本当は結び直して、帰ろうとしたんだろ」
言い当てた三ツ谷くんは、保育園児の妹が、自分で髪を結ぼうとしたあとみたいだと、また笑った。しばらくして、出来た、と私の肩を叩くと三ツ谷くんは
「またな」と足早に去って行った。
家に帰ってみた鏡には、丁寧に一つに編みおろされた髪を紺色のリボンで結んだ私が映っていた。今までで一番かわいい髪型をした自分の姿に、私は少しだけ、自分のことを好きになった。それから、今までにないくらい、初めて誰かのことを好きになった。
「返事」
三ツ谷くんの声に、ハッとした。途端に、雨音が耳に戻ってくる。
「は、はい」
反射的に、返事をしていた。
「わかってんならいいけど。忘れんなよ」
三ツ谷くんが静かに言い聞かせる。
忘れないです。私は言った。心臓がぎゅうと締め付けられるように苦しかった。堪えるように、唇を噛み締めた。そうでもしないと、好きですと、口に出してしまいそうだった。
雨は止む気配をみせずに、傘を叩き続けている。三ツ谷くんの学生鞄の端っこが、濡れて色を変えていく。
「じゃあ、またな」
三ツ谷くんがさっぱりと言った。
「あ、うん。気をつけて」
もごもごと、私は答えた。
三ツ谷くんが保育園のほうへと駆けて行く。私はマンションのエントランスから、小さくなる背中を眺めていた。
大好き。そっと呟いてみる。どうしてか、やっぱり涙が溢れてくる。