17時の奔流 | ナノ

17

17時の奔流

二人の輪郭

 おーおー、やらかしてんな。と三ツ谷くんが言って笑った。
 普段なら眠りにつく時間だというのに、私はマンションのエントランスの前にしゃがみ込んでいた。家の中に鍵を忘れてしまい、締め出されてしまったのだ。所謂インロックというやつである。こんな日に限って、両親は揃って親戚の家に泊まり込みで出かけている。マンションの管理人を頼ろうにも、管理室は既に真っ暗で間抜けのから(常駐勤務というものらしく、私の住むマンションでは朝の8時から夕方までしか管理室が空いていないのだ)。どうしたものかと、幸いにも持ち出していた携帯電話を眺めみても、こういうときに頼れる友人が私にはあまりいない。思い浮かぶ友人である安田さんは、インフルエンザでここ数日学校を休んでいたし、同じくクラスメイトの田口さんも弟がインフルエンザらしく、なんだか流行ってるね、なんて話をつい昨日したばかりだ。
 携帯電話をパカパカと閉じたり開けたりしながら、ぼんやりと空を見上げ、私は寒いと独言ちた。細く降り続いていた雨にみぞれが混じり始めている。それだというのに、私といえばブラウスの上にパーカーを羽織っただけの姿だ。フードを被り、外気を拒むように体を丸く縮める。せめてコートを着てくるべきだった。ただちょっとゴミを出しに行くだけだし。十数分前、そんな風に気を抜いた自分が恨めしくて仕方ない。寒さに歯がガチガチと音を鳴らした。このまま凍えてしまいそうだ。どうしてこんなことに。この数分で何度思ったかわからないことをもう一度思い項垂れる。
 少し悩んで、私は柚葉ちゃんに電話をかけた。柚葉ちゃんとは、あの日以来ちょこちょことメールのやり取りをしているのだ。そのだいたいは八戒くんの話だったり、お互いの学校のことや、三ツ谷くんの話だったけれど、柚葉ちゃんのお家が父子家庭で、そのお父さんも家に帰って来ずほとんど八戒くんと二人暮らし状態だということも聞いていた。だから、本当はお家の人がいるときに許可を貰ってから伺うべきなんだろうけれど、不在だからこそ、もしかしたら急遽一晩お世話になることが出来るかもしれないと私は期待したのだった。
 だけど結局、柚葉ちゃんのお家もダメだった。
 久しぶりにお兄さんが帰ってきているのだと言う。そっか、と呟く声に思わず感情が漏れ出てしまったらしい。何も悪くないのに「ごめんね、せっかく頼ってくれたのに」と柚葉ちゃんを謝らせてしまった。ううん、家族揃ってるところ邪魔してごめんね。私は慌てて謝罪を述べる。そのまま電話を切ろうとすれば、フッと吐息ともため息ともつかない音を柚葉ちゃんが出した。それから、
「三ツ谷は」
 と訊ねられる。
 言ったけど、と私は答える。今お母さんお仕事でいないらしくて、とりあえず家まで行くから、その間に他の人に連絡してみてって。私は三ツ谷くんに言われたままに繰り返した。そっか、まあ、そうか。柚葉ちゃんは低い声でそう言うと、もし三ツ谷といらんないってなったら、すぐ連絡して、と電話を切った。
 これでまた振り出しに戻ってしまった。どうしよう。暗くなった携帯電話の画面に、心細さが押し寄せてくる。
 他に誰か。そう思ったときに、友達という存在を考えたときに、思い浮かぶ人が本当はもう一人いた。携帯電話を開き直し、柚葉ちゃんの名前が並ぶ「サ行」の欄からカチカチとカーソルを進めていく。松野千冬。三ツ谷くんの真上に並んだ名前にカーソルがたどり着く。
 いや、でも、流石に。そう思ってカーソルをひとつ下げたとき、頭上からボサリと重く大きなものが降り落ちてきた。

「せめてコートくらい着てこいよ」
 被せられた分厚いコートから顔を出せば、三ツ谷くんが、私のことを見下ろしていた。黒のハイネックのセーターに同じ黒のズボンを合わせてビニール傘をさしている。
「その様子じゃ、まだアテがないって感じか」
 うん、と私は頷いた。そうなんです。
「そんな、捨て犬みてぇな声ださなくても」
 うう、と私は項垂れた。柚葉ちゃんにも聞いたんですけど、今日はお兄さんがいるから無理みたいで。とりあえず連絡はしたのだ、と私は三ツ谷くんに報告する。
「兄貴か」
 三ツ谷くんが難しい顔をした。何か気にかかるようなことを言っただろうか。私が首を傾げれば、三ツ谷くんは、いやなんでもない、と笑い顔をつくった。はあ。私は曖昧に頷く。なんとなく隠し事をされたような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
「柚葉も無理なら仕方ねぇな。これ以上粘って風邪ひかれても困るし、ウチおいで」
 三ツ谷くんはビニール傘を私のほうに傾けた。ほら、と手を差し伸べてくれる。私はしかしその手を取らず、三ツ谷くんの顔をじっと見上げた。「どうした、立てない?」と三ツ谷くんが聞いてくる。
 そうじゃないです、と私は答えた。お母さんいないって言ってたけど、勝手にあがって三ツ谷くん叱られませんか? と私は訊ねる。ああ、と三ツ谷くんはまるで今ようやく思い出したかのように呟くと、「うん、それは平気」と頬を指先で掻いた。
「本当に?」
「本当に」
 三ツ谷くんが差し伸べた手をさらに伸ばした。私の手首を優しく掴む。
「冷てぇな」
「三ツ谷くんは暖かい」
「バーカ。んなかっこで外いるやつと比べたら誰だってそうだよ」
 三ツ谷くんは私を引っ張っりあげた。バランスを崩した傘から、水滴がパタパタと振り落ちる。私の肩にかけられたままの三ツ谷くんのコートが少し濡れた。
「寒いから、それちゃんと着て」
 三ツ谷くんは傘を持ち直しながら、顎でコートをさした。
「でも、そしたら三ツ谷くんが」
「オレは平気だから」
 ほら、と三ツ谷くんは私を急かす。
「あと先に言っとくけど、ウチ狭いからね」
「そんなことは」
「いやマジで。でもどうにもなんねーから、一晩だけ我慢しろよな」
 こくん、と私が頷くと、ならよし、と三ツ谷くんも頷いた。じゃあ行こう、雪になっちまう。ぐっと三ツ谷くんが寒そうに肩をすくめた。私は急いで、はいと答える。早くしないと、三ツ谷くんが風邪ひいちゃう。そう思って、私はみぞれの降る濡れた道を、いつもより早足に歩いた。
 通された三ツ谷くんの家は、真っ暗でシンと静まりかえっていた。

「もう妹寝てっから」
 三ツ谷くんはコソコソとした声で言った。
「あ、はい」
 私も同じような声で返した。三ツ谷くんがパチリと部屋の電気をつける。
「オレ布団敷いてくるから、先に風呂入ってて」
「え、そんな、お気遣いなく」
「ちょっと濡れたろ、オレが気になるから入って」
 三ツ谷くんは言い、白い扉を指差す。
「そっち」
「……すみません、いろいろ」
「タオルとか後で出しとくから」
 三ツ谷くんが襖を開ける。そこにはもう一部屋、真っ暗な部屋が続いていた。
 ぼんやりとぬいぐるみのような影が見える。話に聞く妹のものだろうか。私は三ツ谷くんに案内された扉を開けた。中には小さな洗面台と、カラーボックスとプラスチックの収納棚が、窮屈そうに押し込まれている。並ぶ小物は色鮮やかだ。背の低いところに集中しているのをみるに、これもまた妹さんたちのものなのかもしれない。
「二宮さん、タオルと着替え置いとくから、好きに使って」
 髪を洗い流したところで、三ツ谷くんに声をかけられた。あとハンガー置いとくからシャツかけときな、と三ツ谷くんが続ける。びくっとして、私は咄嗟に、体を隠した。
「あ、ありがとうございます」
 曇りガラスの向こうにある影に伝えると、三ツ谷くんはすぐに脱衣所を出て行った。
 それを確認してから、そっと浴室の扉を開いた。冷たい空気がさあっと広がる。水滴を溢さぬように、タオルでしっかりと体を拭き上げる。
 ブラウスで隠した下着にもう一度足を通す。それから、借りたハンガーにブラウスとスカートをかけていく。脱衣所には濃い灰色のスウェットの上下と、黒のハーフパンツが用意されていた。広げた時点で気づいていたが、袖を通してみると、スウェットは普段私が着る服よりも一回り大きかった。
「すみません、お先にいただきました」
 着替えを済ませて声をかけると、三ツ谷くんは私の姿をみて、うんと頷いた。
「やっぱ、下、でかかった?」
 ちょっと。と頷いて、私はハーフパンツを履いた自分の脚を見下ろした。ウエストについていた紐をぎゅっと寄せ集めて、結んでいる。スウェットパンツの方はウエストを絞る紐がなくて、歩くとずり落ちてきそうでやめたのだった。悪いな、おふくろの貸せたらよかったんだけど、よくわかんなくてさ。三ツ谷くんは言いながら、よいしょと手をついて立ち上がった。
「んじゃ、オレちょっと入ってくるわ」
「はい」
「先に寝ててもいいけど」
 ううん、と私は首を横に振った。そう? と三ツ谷くんは言って、白い扉の中へと入っていく。私は一人になった部屋を一度くるりと見渡し、それから携帯電話を出して、お母さんに友達の家にお世話になることになったと連絡をいれた。すぐに電話がかかってきて、
「友達って学校の子? ご挨拶するから、おうちの方にかわってもらえる」
 と言われる。
「今日、お仕事でまだ帰ってきてないみたい」
「そんな、留守の間にはいるなんて」
「わかってる。わかってるけど、他にお願いできる人がもういないんだもん」
 拗ねたように私が答えれば、お母さんは重たいため息を吐いた。
「もー、ほんと何やってんのよ、まったく。今度改めてお礼するから、連絡先はきいておいてね」
 わかった、そうする。とりあえず無事なのよね。うん、ごめんなさい心配かけて。お母さん達もお昼には帰るから。わかった。じゃあね。はい、おやすみなさい。
 通話を切ったとたんに、親? と後ろから声をかけられた。三ツ谷くんが、タオルで髪を乾かしながら立っている。
「はい。あの、申し訳ないんですけど、あとで三ツ谷くんのお母さんの連絡先聞いてもいいですか」
 私が聞くと、三ツ谷くんは、口をへの字にまげた。んーと悩むような声を三ツ谷くんは出す。
「いいけど、素直にウチ来たって言っていいの」
 三ツ谷くんが、ワシワシと髪を拭きながら聞いた。
 え、と私は小首を傾げる。ダメですか。
「いや……なんでもない」
 三ツ谷くんはまた、白い扉の奥に戻っていった。ドライヤーの音が小さく聞こえる。
 今日の三ツ谷くんは、どことなくそっけなく感じる。何がいつもと違うのか、それはよくわからないけど。
 やっぱり、迷惑だったよな。
 私は携帯電話を親指ですっと撫でる。

 襖の奥の和室の、さらにカーテンで仕切られた先にあるスペースが、三ツ谷くんの私室だそうだ。
 壁には制服とコートと並んで、特攻服がかけられていた。
「客用の布団とかなくてさ、悪いけどオレの使って」
 はい、と答えつつ、敷かれた布団を避けるように文机の隣に私は正座した。
「あ、わりぃ、毛布とらせて」
 押し入れを開けて、三ツ谷くんが丁寧に畳まれた毛布を一枚取り出す。
「寒かったら、こっから他の出してもいいから」
 取り出した毛布を脇に抱えて、三ツ谷くんは言った。そのまま私の横を通り、カーテンに手をかける。
「どこいくの」
 と聞くと、
「え? こっち」と三ツ谷くんが、カーテンを捲る。その奥には既に妹さんが二人、一枚の布団を分け合うように眠ってるはずだった。まだ小さな二人ではあるけれど、すでにそちら側は定員は満たしていると言えるだろう。
「狭くない?」
 さらに聞くと、三ツ谷くんは口を尖らせた。
「だから、ウチ狭いって言ったろ」
「あ、違う、そういう意味じゃなくて」
 私は顔を覆う。
「私だけ広々使わせてもらうのは、申し訳なくて、それで」
 指の隙間から、三ツ谷くんの顔を窺った。三ツ谷くんは、私の話の続きを待つように、じっとこちらを見て黙っている。
「だから一緒に使うかなって思っただけです」
 一息に言い切ると、そっか、と三ツ谷くんはしゃがみ込み、目線を私と同じ高さにあわせ、にっこりと笑いかける。
「そりゃ、お気遣いどうも」
 と言いながら毛布を傍に置き、四つん這いに移動して、掛け布団を静かに捲った。
「来て」
 三ツ谷くんに言われ、ドギマギとしながら私は頷き、まねるように四つん這いで布団の上に移動した。なあ、二宮さん。三ツ谷くんが私を呼ぶ。なんですか、と訊ねる前にゆっくりと顔が近づいてくる。あ、と私は思って、目を閉ざした。久しぶりに唇が重なる。胸がきゅうと締め付けられ、ドキドキで頭の中がいっぱいになる。
 掠めるだけの口づけを、三ツ谷くんは何度か繰り返した。
 あのときは、3回だけしかダメだったのに。
 今日はいいんだ。止められないのを嬉しく思いながら、私は静かに三ツ谷くんの唇を受け止めた。三ツ谷くんは一度唇を離し、私の頬を包むように右手を添える。それから角度深めてもう一度唇を寄せてきた。交わるように唇が重なる。
「んぅ」
 思いの外長い口づけに呻くと、三ツ谷くんはそのままのしかかるように、体重を私にかけてきた。私はそのまま仰向けに、布団の上に倒れ込む。
「み、つやくん?」
「なに、一緒に寝んだろ」
 三ツ谷くんは有無を言わせぬ口調で答えて、寄せたままの親指で私の頬を撫でた。そのまま、
「開けて」
 と親指を口端に押し当てる。
 え、と聞き返すと、開いた僅かな隙間から三ツ谷くんの親指が口の中に差し込まれた。強い力ではないが、予想にしなかった動きに、私は慌てて静止をかける。そうすれば、待ってと開いた口に親指がさらに深く入り込む。
「三ツ谷くん」
 と呼ぶことも出来ないまま倒れていれば、三ツ谷くんが親指をそのままに、もう一度顔を寄せてきた。深い角度で重なった口の中に、ぬるりと厚く生温いものが入り込む。それが三ツ谷くんの舌だと理解すると同時に、三ツ谷くんの舌先が私の上顎をかすめた。全身にぞくりと悪寒に似たものがはしる。
 そんなキスを続けていると、次第に頭の中がぼうっとしてきた。
 深く呼吸ができていないからだろう。それでも三ツ谷くんは、撫でるように私の舌に自分の舌を擦り合わせ続けた。ときおり立つ水音を聞きながら、私はゆっくりと三ツ谷くんの背中に腕を回した。息苦しいはずなのに、心地よかった。もっとこの時間が続けばいいのにとすら、思っていた。
 しかし三ツ谷くんは、どうやら私とは違うことを考えていたらしい。
「なに、この手」
 と三ツ谷くんは責めるような声を出した。体を起こし、背中に回した私の腕を払うと、私の頭の上に払い除けた両の手首を一纏めに押させつけた。
「なあ、何考えてんの、さっきから」
 怒るような、蔑むような、でもどこか泣きだしてしまいそうな顔で三ツ谷くんは私を見下ろしてくる。

 ごめんなさい、と謝ったのは、三ツ谷くんに嫌われたくなかったからだ。むろん、そういうことを考えてから口にしたわけではないけれど、振り返ってみれば、確かにあの謝罪は私の利己的な感情だけで述べられたもので、言葉をなぞっただけのポーズだと責められても仕方のないものだった。だから、
「何が、ごめんなさいなの」
 と三ツ谷くんが苛立ったのは、当然のことだと言えるだろう。
「それは」
「その」
「あの」
 私は間を埋めるためだけに、はっきりとしない言葉を並べた。本当は、何もわかっていなかった。だって、ついさっきまで私は夢心地だったのだ。気持ちよくて、ふわふわとしていて。そしてそんなキスをくれた人は、三ツ谷くん本人で。それなのに、どうして突然、機嫌を損ねてしまったのだろう。
「触った、から?」
「なに、この手」と直前に言われたことを思い出して、私は言った。
「あのさ」
 と三ツ谷くんがため息をつく。
「触られんのも嫌なやつが、こんなことすると思うか」
「でも」
 逆らうような態度を見せれば、三ツ谷くんが声を強めた。
「二宮さんさ、自分がいま、どういう状況かわかってる?」
 え、と私が聞き返すと同時に、三ツ谷くんの左手が私の膝裏に触れた。関節の裏に差し込まれた手が持ち上がると、私の右足も同じように持ち上げり、緩く脚をひからされる。そのまま三ツ谷くんの左手はハーフパンツの裾に潜り込み、ゆっくりと、産毛を撫でるような手つきで私の太ももを撫でた。同時に上顎を舌で撫でられたときのようなざわめきが、背筋にはしる。
 三ツ谷くんの目は真剣だった。真っ直ぐに射抜くように私を見つめていた。心臓がどくんと高鳴る。肌があわだつ。太ももの付け根へと向かう三ツ谷くんの手から逃げようと、私は左の足を動かしたが、敷かれた布団を蹴るばかりで、状況は何も変わらなかった。ならばと全身で身じろぎをしようとするも、三ツ谷くんの右手はしっかりと私の両手首を封じており、びくともしない。三ツ谷くん、と呼びかれば、開いた口に舌を捩じ込まれ、声すらも封じられる。撫でる手や舌に、身体が自然とビクビクと震えた。敏感に反応する表皮に対して、頭の中はどんどんとぼやけていく。薄く開いた目に映る三ツ谷くんの輪郭もまたぼやけている。このままでは、私の輪郭もぼやけていき、頭も体も蕩け落ちてしまうのではないか。そんな考えに思い至ったとき、今までの行為がまるで夢かのように、三ツ谷くんはあっさりと私を解放した。
「三ツ谷くん」
 ようやくその名前を呼べた。細く濡れた声になる。
「少しはわかった?」
 私の呼びかけには応えず、三ツ谷くんは低い声で聞く。それから、
「いま二宮さんが一緒にいるのは男で、そいつが手を出したら二宮さんは碌に抵抗も出来なくて、こうやって簡単に無理矢理モノにされちまうんだよ」
 と続けた。
 三ツ谷くんが私の手首を撫でる。掴んだそこを、優しく、癒すような手つきであった。そのまま絡めるように手を握られ、ゆっくりと体を起こされる。ぺたんと私が布団に座り直すと、
「気ぃ使ってくれただけなのはわかる。でも、ああいうのは男を誤解させるだけだから、もうしないでくんねぇかな」
 と優しく言った。私が目を伏せると、
「ゴメン、怖がらせた」
 と謝る。
 ぽんぽんと私の頭を撫でながら、三ツ谷くんは居住まいを正した。体の距離は変わっていないというのに、三ツ谷くんの気配が私から遠のいていくのを肌に感じる。
「ゴメン」
 と三ツ谷くんが、もう一度謝る。
「なんの、ゴメン?」
 私は先の三ツ谷くんを真似るように、同じ言葉をなぞった。え、と三ツ谷くんが戸惑いを浮かべる。怖がらせての、ゴメン? 質問を重ねれば、まあ、と三ツ谷くんは曖昧に頷いた。
「それなら私、怖くなかったです」
 本当に怖くなんてなかった。
 初めての感覚に驚いたり、迫る予感に緊張こそ覚えたけれど、あの胸のざわめきが、蕩けるような痺れが、恐怖だったとは私にはとても思えなかった。なぜならそれは、
「三ツ谷くんだから」
 そう私は確信している。
 曖昧な「男」という存在ではなく、三ツ谷くんだから怖くなんてなかった。与えられるもの全てが嬉しくて、幸せだった。
「勘弁してよ」
 三ツ谷くんが頭を抱えた。
 拗ねるような声が、三ツ谷くんにしては珍しく幼く聞こえて、私はふふっと笑ってしまった。笑うと今度は泣きたくなる。三ツ谷くん。次々と湧き起こる感情に追いつかないまま、私は目の前の人の名前を呼ぶ。
 三ツ谷くんのことが好きだ。すごく。本当に好きだ。もう何回だってそう思ってきたはずなのに、思いは尽きることなく胸に込み上げ、その嵩を増していく。それが嬉しくて苦しかった。溜まりすぎた思いは、もうきっと、私一人の体では収まりきらなくなっている。
「三ツ谷くん」
 私は三ツ谷くんの頭を守る腕に触れた。そっとその手を剥がし、三ツ谷くんの顔を覗き込む。
「テストの賭けの続き、やっぱり、同じのはダメですか」
 勢いまかせに、私は聞いてみる。
「同じって何が」
「お願いごと」
 三ツ谷くんは、ぽかんとした。それから、なっ、と小さく叫ぶ。

 唇が離れた。シャンプーの匂いがする。三ツ谷くん、くっついてもいいですか。三ツ谷くんにだけに聞こえるように、私はそっと囁いてみる。
「二宮さんさ、オレの話、聞いてた」
 眉間を揉みながら、三ツ谷くんがため息をついた。
「ビビられるよかマシだけどさ、あんま安心され過ぎても、それはそれで困るんだけど」
 言いながら、三ツ谷くんはそっと私を抱き寄せてくれた。私も三ツ谷くんの背中に腕を回した。
 三ツ谷くんの体温がじんわりと伝わってくる。
「三ツ谷くん、あったかい」
 心地よさに思わず呟けば、
「誰のせいだよ」
 と三ツ谷くんが言った。林くんや林田くんと喋るときのような、普段私と話すときよりも少し、荒っぽい喋り方である。どんな顔をしているのかと覗こうとすれば、三ツ谷くんは抵抗するように顎で私の頭を押し返した。私のつむじに口づけ、はあと脱力するように項垂れる。
「二宮さんは、何もわかってない」
 そう言って、三ツ谷くんは私の頭を撫でた。ゆっくりと、繰り返し撫でる。撫でられ続けると、ついあくびが溢れる。眠い? と三ツ谷くんに聞かれて、私は首を横に振った。だけど本当は瞼がもう随分と重たくなっていた。
 こくん、と一瞬船を漕ぐと、三ツ谷くんが笑った。笑ったかどうかは見れなかったけれど、そんな気配がしたのだ。布団入んなよ、三ツ谷くんが優しく促す。でも、三ツ谷くんの方があったかいもの。それに駄々をこねると、オレは毛布じゃねえんだけど。と三ツ谷くんは答えた。
「そんなことないのに」
「いや、そんなことないって、なに?」
「ときどき、毛布みたいって、思う」
 なんだそれ。三ツ谷くんが呆れた。なんなんだろう、と私は思う。暖かくて、優しくて、安心する。三ツ谷くんから放出される空気は、いったいどこから、どのようにつくられてやってくるのか。てんで想像のつかない私は、きっと三ツ谷くんみたいにはなれない。新しい一面を知るたびに、自分と三ツ谷くんの乖離に気づき、憧れ、そしてまた恋をする。
「私、これ以上、三ツ谷くんのこと好きになったらどうなるんでしょう」
 思いはつい口から溢れていた。どうやら本当に私の小さな胸は、思いを止めることが出来なくなっているようだ。
 よくそんな小っ恥ずかしいことを。三ツ谷くんは呟いた。それから、大丈夫だよ。と私の頭をまた撫でる。大丈夫。大丈夫。三ツ谷くんが繰り返し私の頭を撫でながら言う。
「だって、オレがいま、大丈夫なんだから」
 それってどう言う意味ですか、と訊ねる前に、三ツ谷くんが抱きしめる腕を強めた。
「わかんねぇなら、一生、考えてろ」
 言葉は突き放すようで、しかし、抱きしめる腕は、いっそう私を強く引き寄せてくる。
「二宮さん」
 振り絞るように、三ツ谷くんが私を呼ぶ。
 絶えず湧き起こる恋心に、今にも溺れてしまいそうだった。
 それでもきっと、私はこれからも何度だって三ツ谷くんに恋をするのだろう。今日も、明日も、ずっと、一生。もしも時計が逆転して、過去に遡るようなことが起きたとしても、その未来だけは絶対に変わらない。
 呼びかけに応えるように、私は抱きしめる腕を強めた。腕の中で二つの温度が混じり合い、同調し、二人を分かつ輪郭がどんどんと曖昧になっていく。
 この恋の行く末を案じて、背筋が震えた。それでも、そこに恐怖はない。
「好き」
 そう口にしたのは、どちらだっただろうか。それを明かすことに意味なんてないだろう。あの橋を渡った日から、奔流のような思いに溺れているのは、きっとどちらも同じなのだ。

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