受信したメールは一件、五条くんからだった。
「今どこ」
「控え室。着替えたらエントランス行く」
簡素なメールを送り合い、私は身支度を急いだ。ブルーグレーのロングドレスから私服へと着替えて、幾つかの荷物と、革張りのバイオリンケースを手に取る。控え室の扉を開けて、一度振り返ったのは、なんとなく、もう二度とここには来ないような気がしたからだ。
(終わっちゃったな)
そんな感想を抱きながら、私は小走りにコンクールの会場となっている市民ホールのエントランスへと向かった。
エントランスではコンクールの参加者やその家族たちが、写真を撮ったり歓談をしたりと、賑わっていた。私はその邪魔にならないように、五条くんの姿を探す。キョロキョロと辺りを見渡せば、女の子達がそわそわとしているのに気づいた。
ああ、やっぱり。
彼女達の視線の先をたどれば、探していた人の姿があった。上から下まで真っ黒な私服に何故かサングラス姿の彼は制服姿のときよりも、どこか大人びて見える。
「五条くん」
小走りに駆け寄れば、よ、と五条くんが右手を持ち上げた。
「おつかれ」
「うん。五条くんも、その、色々ありがとう」
「ほんと。クラッシックとか、むいてねぇわ俺」
まだ食後の世界史のほうが起きてられるね。気ぃ失うかと思った。
「俺が見てる」そう夜蛾先生に言った手前、五条くんはコンクールの間中、頑張って起きていたらしい。
「舞台裏でおまえが、粗相をしてたらと思うと、眠れなかったよ」
五条くんは笑って言った。
粗相って。
私もつられて笑う。
恐らく、五条くんに取り決められたバイオリンを壊さないこと、のことを言っているのだろうが、とんだおっちょこちょいでもない限り、コンクール会場でバイオリンを壊す奏者などいないだろう。
「でさ、こういうのって、いつ渡せばよかったの」
そういうと、五条くんは、唐突に背中に回していた手を差し出した。
濃淡のさまざまなピンク色の花が纏められたブーケがその手には握られている。
「うわあ」
私は目を丸くする。
いいの? と目くばせすれば、ん、と押し付けるように渡された。生花のツンとする匂いが漂う。チューリップと、バラと、それから、なんだろう。名前はわからないけれど、とにかくかわいいブーケであった。
「そこの花屋に、発表会ならいるよって言われたんだけど、俺騙されたわけ?」
五条くんは、頸を掻きながら遠くを見ている。確かに、ホールの近くに花屋があったかもしれない。
「だって今日コンクールだもん」
「発表会と何がちがうわけ」
「えー、何って、色々違うよ」
クスクスと笑えば、五条くんがつまらなそうな顔をするので
「でもありがとう、嬉しい」
と、伝えれば
「じゃあ、バレンタインってことで」
と、五条くんは気を取り直すように言った。
バレンタイン。私は五条くんの言葉を繰り返す。
(そっか、今日二月十四日)(そういえば、五条くんに、チョコレート強請られたな)
気づいて、はっとする。
どうしよう。
え、どうしよう。
(今日は、五条くんがあの学園で過ごす、最後のバレンタインだった!!)
私の焦燥をよそに、五条くんは携帯をいじっては、高専行く前になんか食ってかね? とのんびりとしている。
「ご、五条くん! はやく学校行って!」
悲痛ともいえる私の叫び声は、エントランスのざわめきに飲まれていった。
「嫌なこった」
五条くんは言った。気怠げでいて、冷たい声だった。
「いや、でもその」
私は口ごもる。
サングラスに隠された五条くんの目は、よく見えないのに、睨みつけるようなきつい視線を真っ直ぐに感じて、息が詰まった。
「こいよ」
五条くんは市民ホールを出てから言った。外はやっぱり寒くって、頬にあたる空気が、ピリピリと痛い。
私は五条くんの後をついていく。抱えたブーケをなんとなく見ながら歩いた。そういえば、これはアネモネかもしれない。と、さっきわからなかった花の名前を考えたりしながら。
少し歩くと、二人がけのベンチがいくつか並んでいた。
そのうち、一番手前のベンチに五条くんが腰をおろす。ポンポンと、五条くんの隣を五条くんは叩いた。座れ、ということらしい。
「言いたいことはあるけど、その前に一個答えろ」
五条くんは、溜め息をつくように切り出した。
「おまえがさあ、俺のこと学校行かせたいのって女子のやっかみが怖いから? それとも、やっかみのせいで呪霊が増えるのが怖いから? どっちなわけ」
いつもはキュッと形よく上がっている五条くんの眉が八の字に下がっていた。それに合わせるように、口調もどこかいつもと違い、随分と困っているような声色をしている。
「それって……結局は同じことじゃないの?」
私は聞き返す。
「全然違うだろ。怖いのは、人か呪霊かって話なんだけど」
五条くんは、今度こそ溜め息をついた。
確かにそうだ。五条くんを好きな女の子達は、同じ学園の生徒であって、呪霊なんかじゃ、ない。呪霊は彼女達に宿った不満や嫌悪が形作られたものではあるけれど、それでもやっぱり、彼女達があの汚れた存在かといえば、それは全くの別物なのだ。
「まあ、呪霊くっつけて歩いてるやつも、うちの学校多いけどな」
五条くんは、蔑むように小さく笑う。
「学校ってだけで十分わきやすいのに、あの学園はそれに加えて、金持ち同士のマウント合戦。かと思えば、おまえらみたいな、一般人のフリした才能の塊みたいなのが、特待生なんて看板しょって、平気な顔して歩いてる。そりゃ、知らねー間に呪いあってても不思議じゃねーよ」
そうなんだろうか。私は五条くんの言った言葉にいまいち、ふに落ちない点があった。あの学園の、なんとも言えないギスギスとした空気のことについてではない。
(本当に、知らないであんなものを憑けているのだろうか)
わかってる。そういうものだと。見えている私の方がおかしいのだ。それはわかっている。わかっているから、ずっと見えないフリをしてきたのだ。
そう。
そうなんだけれど。でも。
(五条くんも、夜蛾先生も見えてるじゃん)
私はもう、五条くんの世界が、実在していることを知ってしまった。
「怖いんじゃなくて、気持ち悪い」
ぽつりと、私は呟く。
「呪霊も、それに気付いてない、みんなも」
それは生まれて初めて、もらした本音だった。
強いとか、弱いとか、そういうのはよくわからない。ただ、
「見えない人に合わせるのは、疲れるよ」
冷たい、大きな手が頬に添えられた。かさついた五条くんの親指が私の目の下をこする。泣いてなんかいないのに、涙でも拭うように、五条くんはもう一度親指を滑らせると、私の顔を覗き込むようにして、顔を寄せた。
風が吹いてきた。冬の凍てつくような風だ。五条くんに触れて濡れた唇が、風にあたり、冷たくなる。
「一ノ瀬」
五条くんが呼んだ。
少し、掠れた声。
こんな声で、誰かに名前を呼ばれるのは初めてだ。
「付き合おうよ、俺たち」
五条くんは言い、手を私の背に回した。抱きすくめられて、抱えたブーケが顔に近づく。
花の匂いに酔いそうだった。