土曜日。休日の校内は閑散としている。講堂の映画館のような椅子に一人分の間隔をあけて五条くんは私の横に腰掛けた。
「おはよ」
五条くんと私の間に、バイオリンケースが置かれる。
「おはよう」
「俺なにげ、休日に学校来るのはじめてかも。平日の家なら何回もあるけど」
平日の家。
それはただのサボりと、同じではないのだろうか。
「じゃ、はじめようか」
五条くんはそういうと、パン、と手を一つ叩いた。
昨日に引き続いた五条くんの講義をまとめると、私が守るべきことは三つ。
一つ、バイオリンを絶対に壊さないこと。
一つ、呪霊を取り込まないこと。
一つ、バイオリンを弾くのは五条くんといるときだけにすること。
呪霊を取り込んではいるものの、バイオリンはあくまでバイオリンであるらしく、取り扱い方法は通常のバイオリンと同様で構わないらしい。
「質問です」
私は手を挙げて、昨日聞きそびれた疑問を口にする。
「呪霊を取り込まないってどうやればいいんですか」
「気合い」
「気合い……」
「嘘だけど。言ってすぐに出来るようなセンスがあるとは思えないし、時間の無駄だからコンクールの練習しとけよ」
そもそも、センスあったら教えなくても出来てんでしょ、と五条くんはツンケンと言う。
「そんな言い方しなくても」
「発現したてのガキならともかく、おまえ昔から、呪霊見えてたし、弾きゃいなくなんのもわかってたんだろ? 逆になんで、そんな何もわかんないまま術式使ってんのか、こっちが聞きてえくらいなんだけど」
五条くんは、信じらんねぇ、と舌を出す。
それはそうなんだけど。
でもまさか、見えていたものが霊ではなく、人の呪いだとは思いもしなかったし、あれを自分がバイオリンに取り込んでいるなんて、考えたこともなかったのだ。
突然、呪霊とか、術式とか、ポンポン言われても困る、というのが本音である。
「おまえさ、ガキの頃からコレ弾いてんの」
コツン、とバイオリンケースを五条くんがノックするように叩いた。
「うん。まあ、遊びで……ってわけじゃないけど、呪霊が見えて嫌なときは弾いてたかな。演奏用として使うようになったのは、小五とかそれくらいだけど」
「その前は?」
「え? あ、子供用のバイオリン使ってた」
「ずっと同じやつ?」
「ううん、違うよ。長くても、まあ、一年くらいでサイズ変わってたかな」
「一年ね。まあ、妥当っちゃ妥当か」
五条くんは、一人納得したように頷く。かと思えば、
「だからこそ気持ち悪いんだよな、これ」
と、バイオリンを見下ろしながら顔を顰めた。
◇ ◇ ◇
ま、いっか。
あっさりと五条くんは言った。今気にしても仕方ねーし。と言うなり五条くんは立ち上がり、壇上へと歩いていく。
五条くん曰く、とにかく今はその三箇条を守ることが私が安心して日常生活を送るための必須事項らしい。とくに三つ目だけは少なくとも必ず守るよう、念をおされた。
「壊さないとか、取り込まないようにするより大事なの?」
私は訊ねる。
「どっちが大事の話じゃなくて、万が一、壊れたときに俺がいなかったら対処できねーだろってこと」
五条くんは、壇上から、すらりと伸びた人差し指を私に突きつけるように伸ばす。
「おまえだけなら自業自得だけど、うっかり、おまえが周り巻き込んだら面倒なんだよ」
わかった? と、詰めるように言われて、私はこくこくとその圧から逃れるように首を縦に振る。
そして、一つ新たな疑問が湧いた。その呪霊は人を殺すと五条くんは言うけれど。
「でもそれって、五条くんも危ないよね?」
バイオリンケースを開けながら私は言った。答えは返ってこない。何か変なことを聞いただろうか? 取り出したバイオリンと弓を手に、壇上の彼へと顔を向ければ、五条くんが目を丸くしたまま、突っ立っていた。
きょとん。と言うのに相応しい表情である。
五条くん、と呼びかければ、五条くんは
「俺は強いからいいんだよ」
と、早口に言いながらピアノの蓋を持ち上げると、そのまま鍵盤を叩いた。均一にのせられた音に耳を傾ければ、彼の指はメロディを奏でだす。
(あ、この曲)
主よ、人の喜びを。
バッハの名曲のひとつであるそれは、昨晩、私が彼の前で弾いた曲だった。
「ピアノ弾けるんだ」
壇上へと続く階段を昇りながら、聞けば
「俺ね、できないことないの」
と、五条くんは鼻で笑うように答えた。
「お坊ちゃんの嗜み?」
「うるせぇ、パンピー。ちげぇわ」
五条くんが眉間に皺を寄せる。
「昔さ」
五条くんは話はじめる。抑揚のない、いつもより落ち着いた声色であった。
「ガキの頃、特に用もないのに、高専連れてかれたりしてたんだよね」
うん。
私は、小さく相槌をうつ。
「いつもピアノ弾いてる術師の爺さんがいてさ、大人が会議だなんだやってるときに、暇つぶしで教わった」
そっか。
私は答える。昔。暇つぶしに。という割には随分と五条くんは上手だった。
「出来ないことがない」と五条くんは言ったけれど、どちらかというと、「出来ることしかない」という言葉のほうがしっくりとくるのではないだろうか、と私は思う。五条くんの「出来なくないこと」は、水準がとても高いのだ。天は二物を与えず、なんていうが、天というものが実在するのならば、彼は天から例外と判断された身なのではないだろうか。なんてことも私は思うのである。
「五条くんは、神様みたことある?」
壇上で私は五条くんと向かいあう。
「何? 勧誘? 宗教断ってんだけど」
私は五条くんの悪態にかまわず、続ける。
「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない」
「どうした? 厨二でちゃった?」
「バッハの名言」
教えれば、バッハ、と五条くんは繰り返した。
「その曲作ったおじさん」
「それくらい知ってるつーの。あれだろ、白髪のモサモサしたおっさん」
「そうそう。五条くんみたいな髪してる」
「喧嘩売ってんなら買うけど」
「神様に音楽を捧げた人でさ」
「無視かよ、オラ」
「こうも言ってるんだよね。『音楽は精神の中から、日常の生活の塵埃を除去する』って。名言ってだいたい嘘くさいから、あんまり好きじゃないんだけど、その言葉だけはなんかわかるかもって思ったんだよね」
実際に呪霊が消えたわけだし。
私がそう続ければ
「音楽で呪霊が消えたんじゃなくて、おまえがたまたま取り込むのに使ったのが、バイオリンだったってだけだけどな」
五条くんは訂正した。私はそれに、うん、と頷く。
呪いだったのだ、全て。私が汚いと遠ざけたものも、私が綺麗だと遠くから眺めたものも、真実を知れば、誰かが誰かを呪った形に過ぎなかった。それが悲しいとは思わない。でも、そんな風に言って欲しくもなかった。
これは、何なんだろう。はっきりとしない、小骨が突っかかるような、この感情。
「もっかい、弾いて」
私は五条くんにリクエストする。
「は? おまえ自分の練習しろよ」
五条くんは、下唇を突き出すように、口を尖らせた。
「じゃ、一緒に弾こう」
私はバイオリンをかまえて、音を鳴らす。
「おまえさ、けっこう人の話聞かないよね」
あとに続くように、五条くんのピアノが鳴る。
(綺麗な音)
耳に届く旋律を聴きながら、なんだか私は泣きたくなった。吸い込めば肺が凍りそうな、痛く冷たい、氷のような音を五条くんは鳴らす。
(私の心の慰め、か)
旋律に合わせて、異国の歌が頭の中に勝手に流れてきた。私は乾いた口元を、結びなおす。五条くんの出す音は、この曲にはそぐわない。それでも、この美しさを否定できる者はきっといない。少なくとも私には。
それどころか、五条くんがこの曲に合わせる必要など無いのだとすら私には思えてしまう。なぜなら−−−
五条くんは、神様みたいだ。
ここ最近の私は、バイオリンを弾くたびにそんなことを考えている。
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