神様の隣人 _ | ナノ

5

 コンクール関係、ならびに、日常におけるバイオリンの取り扱いに関する注意事項、についての講義は、五条くんが明日、改めて行ってくれることになった。
「時間あとでメールする」
 と携帯を取り出した五条くんと連絡先を交換する。五条悟。電話帳に登録された新しい名前をぼんやりと眺めていれば、頭上から声が降ってきた。
「バイオリン、今日は俺が持って帰るから」
 え、と、私は頭を持ち上げる。そうなの? と五条くんを見上げれば、そうなの。と五条くんが茶化すように言った。
「家で一人で弾くのも、だめ?」
 結局、なんだかんだで今日は碌に練習が出来ずじまいだった。体力的にも気力的にも疲れきってはいるが、少しだけでも練習しておきたいと思っていたのだが。
「おまえ、本当なら既に没収されてるの、ちゃんとわかってて言ってる?」
 そう言いながら、五条くんは私の肩からバイオリンケースを取り上げた。
「俺がいないとこで触んな」
 そんな。絶望感に私はうつむく。五条くんの前だけでしか弾けないなんて。出来れば関わりたくって言っているじゃん。などと本人に言えるわけもなく、私はがっくりと項垂れた。

「どうしても弾きたいなら、今、五分やるよ」
 五条くんはそういうと、取り上げたバイオリンケースをアスファルトの上に置いて、ケースを開けた。はい、と中からバイオリンと弓を持った両手を差し出される。
(五分って)
 コンクール曲一曲にも満たない時間制限に、私は延長を求めようとして、すぐに口を噤んだ。さっさとしろよ、といった様子を隠すことなく、ヤンキー座りでガンをとばす五条くんに、これ以上要望を口にするなんて、そんな怖いこと私にはできっこ無かったのだ。
(ガラ、悪)
 ありがとうございます。と深々と頭を下げて、私は差し出されたバイオリンをうけとる。
 指ならしに何か練習曲をひとつ、と、頭を巡らせながら音を調律すれば、その間も痛いくらいに視線を感じて、あまりの居心地の悪さに、余計なことを言わなければよかったと後悔した。ザリ、と靴底がアスファルトを滑る音がする。目を向ければ、しゃがみ直した五条くんの上目遣いと目があった。
「知ってる曲にして」
 五条くんが言った。
 クラッシックなど興味なんて無いくせに。

 五条くんは私の弾いた曲を知っていた。
「前もそれ弾いてたよな」
 そうだっけ。五条くんの言う「前」に、検討が付かなかった。よく弾く曲では無い。ただなんとなく、五条くんを見て、思いついただけの曲である。五条くんは目を伏せていた。電灯に照らされて頬にまつ毛の影がかかっている。
「全校生徒の前で弾かされてた」
 そういえば、そんなことがあったかもしれない。少し前の話のように五条くんは話したが、私の記憶が正しければ、それは二年前、中学一年生にまで遡る話である。
 夏休み明けの始業式。コンクールの表彰を改めて学校で受ける際に、先生から一曲演奏するように言われのだ。そうだ、あれはすごく嫌だった。
 よく覚えてるね。私は言いながら、バイオリンをケースに仕舞う。また明日弾けるのはわかっていたが、なんだか今生の別れのような気持ちになった。私のバイオリンが、五条くんのバイオリンになってしまったように感じたからかもしれない。私は静かにケースを閉じて、そっと一度撫でた。
「帰ろうぜ」
 五条くんはバイオリンケースを肩にかけた。こんなに私のバイオリンは小さかったのか、と、大きな背中に背負われたケースを見て思う。

 あー寒。と五条くんは息を吐いた。私は五条くんの吐いた息が白く形づかれて、ふわりと浮かんでいくのを眺める。あっという間に、白い靄のような息は夜空に溶けて消え、空には星が出始めていた。冬特有の澄んだ空気の中ですばるが煌々と光っているのを見つける。夜空を照らす青白い光に既視感を覚えるのは、五条くんの髪色のせいだろうか。遥か彼方の星とすぐ隣にある五条くんの頭を見比べて、私はやっぱり、彼は私とは違う世界からきた人なのではないか、と勘ぐってしまう。
「なに? 穴あきそうなんだけど」
 どうやら、私はまじまじと五条くんを見つめてしまっていたらしい。照れる。と口端をあげる五条くんには、不躾な私の視線に対する不快感や、彼の言う照れのようなものは少しも感じられなかった。
「俺くらいのイケメンになると、見られてるのがスタンダードなんだよ」
 五条くんは、つけつけと言う。自慢というには、随分と嫌悪を帯びた声色だった。
「王子もいろいろ大変なんだね」
 同情を口にすれば、何が癪に触ったのか、五条くんは足先で私のふくらはぎを蹴った。
 痛いな、と言いながら道の先を見ればコンビニの看板をみつけた。目がチカチカするほどに光を放つそれに、私の視線は釘付けになる。正確には、その店内で温められているであろうものを頭に浮かべて。
「肉まん食べない?」
 私は言いながら、大股で歩き、五条くんを追い抜かした。はあ? と後ろから声が聞こえたが、それを無視して私は魅入られたように、コンビニに入っていく。
 店内は暖かかった。暖房の効いたコンビニは、どこか、もわん、とした空気がたちこめている。包み込むような暖かさに、店員は眠たげだ。
「これって、美味いの」
 追いついた五条くんが聞いてきた。薄い唇をへの字に曲げて難しい顔をしている。
「え、食べたことないの」
 私は五条くんの発言にびっくりする。
「なきゃ悪い」
 五条くんは言った。声が低い。いや、と私は首を横に振るう。五条くんはムスッとしたままだ。
「あんまん、一個」
 店員に声をかける五条くんに続いて、私もあわてて「肉まん一つください」と注文する。気のない返事をした店員が、トングを手につかんだ。
 五条くんは千円札をレジに置くと、店内を物色しに歩いていってしまった。レジ前に取り残された私は、店員からあんまんと肉まんの入ったビニール袋を受け取り、会計を済ませる。雑誌を眺める五条くんに、お釣りを差し出せば、邪魔だからいらないと言われた。
(これだからお坊ちゃんは)
 内心でついたため息を隠して、私はお釣りを自分の財布にしまう。小銭で太った財布が閉めずらかった。
「じゃあ、今度なんか買って返すね」
 店内から出て、五条くんにあんまんを差し出しつつ、私は湯気のたつ肉まんを一口齧った。五条くんは肉まんを頬張る私を、じっと見ていた。それから、真似るようにあんまんを口にはこぶ。
「おまえ、よく食うの?」
 もぐもぐと口を動かしながら五条くんが聞いた。
「うん、まあ学校帰りとか」
 ふうん、と言う五条くんに、五条くんはあんまり寄り道しないの? と訊ねれば
「車だからな」
 と返される。
 たしかに、五条くんは車通学だったなと、私は思い出す。お金持ちのご子息の集まる学園では、特別珍しい部類ではなかった。そういえば、呪術高専に連れてきてくれたのも高そうな黒塗りの車だった。
「じゃあ大判焼きの露店も知らないのか」
 商店街の肉屋のコロッケの美味しさも、その様子では知らないのかもしれない。勿体ないな、と思う。でもきっと、その分私には手が届かないような美味しいものを、五条くんは知っているのだろうけど。
「どこそれ」
 五条くんが食いついた。
「学校から駅向かう途中にあるんだよ。特待生組は結構みんな寄り道してるよ」
「へぇ。ずりぃ」
 よっぽど自分のほうが優雅な生活をしているというのに、ずるいと顔を顰める五条くんに苦笑する。私たちだって、送り迎えがあって羨ましいと思ってる、と伝えても、五条くんは納得しなかった。
「自由が無いだけだろ」
 もしも、彼が良家のお坊ちゃんではなくて、私のように電車通学をする一般家庭の出だったら、友達と放課後にコンビニや商店街で買い食いをしてブラブラと時間を潰したりしたのだろうか。
 ペロリとあんまんを平らげた五条くんを見ながら考えた。
 したんだろうな、と思う。でも、想像は出来なかった。
 五条くんはいつも一人だ。
 恋人の噂も、友達の存在も、この三年間一度として聞いたことも見たこともない。
「住む世界が違う」
 そう思っているのは、何も私だけじゃないのだ。
 あの学園に生きるものは皆、誰もが彼に目を奪われながら、その目がこちらを向くことを恐怖している。
 もう一口頬張った肉まんは、早くも冷め始めていた。冷気に熱を奪われたそれは、胃に落ちても私の体をさっき程温めてはくれない。はあ。と五条くんがまた、白い息を吐いた。
 この冬が終われば、五条くんは別の学校に進学する。
-5-
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -