神様の隣人 _ | ナノ

18

「一ノ瀬の爺ちゃんが、バイオリン弾きだったから」
 というのが、五条くんの導いた答えだった。
「お爺ちゃん?」
 私は問い返す。
「誰かになりたいと言う願望は、憧れだけじゃないってこと」
 五条くんは端的に答えると、
「一ノ瀬なら、わかるだろ」
 と、続けた。
 憧れじゃない、でも、その人になりたい。という願望。
 考えなくとも、心当たりはすぐに見つかった。
 それは、何度願ったかわからないほどに、繰り返し私が願ってきたことだった。
 傑になりたい。
 習慣のように、私は祈る。
 本当は、誰よりも一番、なりたくない人なのに。
 その願いを持つことすら、悔しくて、仕方ないのに。
 それでも、呪いのように、願わずにはいられないのだ。
 そしてそれは、「傑」が「五条くんの一番」だから生まれる願いだ。私は夏油傑という人に焦がれているわけじゃない。五条くんの親友になりたいというのも少し違う。どんなに優しくても、強くても、顔や声が好みでも、五条くんという人を介さなければ、私はこんなに卑しい気持ちで傑を見たりなんかしない。
「だからって、私?」
 私は、しょんぼりと五条くんに聞いてみた。
「宇奈月と僕との違いは、あいつも、バイオリニストなことだよ」
 バイオリニスト。私は首を捻りながら、繰り返す。
「ピアニストにならなくても、宇奈月には、君の爺ちゃんにとって自分が一番好きな奏者だという自負があった」
 なのに。と、五条くんは話し続ける。
「なのに、その証だったバイオリンが、呪うほどなりたかった女とそっくりな孫に渡された」
「……そ、れは」
 私はたじろいだ。五条くんの顔から表情が消える。
「いいんだよ、べつに。ただ時々、今頃君は他の誰かのピアノでバイオリンを弾いているのかな、とか、瀬戸とたわいもない話をしながら食事をしているのかな。とかそんなことを考えると、君のそばにいられない僕は、生きていると言えるのかどうかわからなくなるんだ」
 責めるように、話は続いた。
「いつから好きなのか、なんで好きなのか、何ひとつ忘れる暇もないくらい、十年前の今日から一日も欠かすことなく、僕は君のことが好きなのに」
 私だってそうだよ。私が言っても、五条くんは疑ってくる。いつものことだ。傑の言葉はすぐ届くくせに。
「ねえ」
 五条くんが拗ねた声を上げながら、サングラスを乱雑にテーブルへと投げ放った。感情を隠そうとしない目が私を覗きこんでくる。
「結婚しようよ、僕たち」
 話の展開に呆然となる。
 いったい何の話だ。これは別に、五条くんの言葉が届かないわけではなくて私がグズだからである。もしくは、五条くんがいつも突拍子のない人だからか。
 私が困惑しているのを知ってか知らずか、五条くんは質問を投げかけておきながら、いいでしょ、と先に答えて、ねぇ。と返事を急かしてくる。
「ここに引っ越してさ、二人で一緒に暮らそう。家族になって、子供つくってさ」
「暮らすような造りじゃないよ」
 しどろもどろに、私はようやく答える。
「一ノ瀬の好きなように作り直せばいい。何でもいいよ」
「何でもって」
「今度こそ、君の望みを全部叶えてあげるから」
 もしかして、これは本当にプロポーズをされているのか。恐る恐る視線を合わせると、熱のこもった蒼眼が真っ直ぐに私に向かう。
「結婚したくないって、言ってたじゃん」
 ぶんぶんと、五条くんが首を横に振った。ずぶ濡れの犬が水を振るうような動きだった。仔犬のような濡れた目がすがるように私を見つめてくる。
「昔から、するなら君がいいと思ってたよ」
 そうかな。惑わされることなく、私は首を傾げた。
「ピアノと同じで、五条くんは、五条くんがしたいんじゃなくて、私が他の誰かと結婚するのが嫌なだけなんじゃないかな」
「ピアノを弾く理由としても、結婚する理由としても、それは十分な理由じゃない?」
 五条くんの手が私の手をとった。大きな掌に私の手は簡単に包まれる。
 一ノ瀬。五条くんが呼ぶ。
「やり直そう。幸せにするから、幸せにしてよ」

「五条くんは、私が幸せになれると思う?」
 私は訊ねた。
「なれるよ、僕が必ずする」
 即答だった。力強い、声。
「梢がいないのに?」
「傑がいなくても、五条くんは幸せ?」
 私は質問を重ねる。五条くんは今度は即答するようなことはしなかった。黙って、考えるような表情を浮かべている。
「幸せって色々あるよ。美味しいもの食べたり、ゆっくり寝たり。好きな人と好きなことしたら幸せだよ。でもさ。五条くんと私は、そうじゃないじゃん。それだけじゃ、足りないじゃん」
 それだけじゃ足りない。欲張りな私たちは、互いに譲れないものがある。それを無視してしまったら、私たちはきっと、私たちでは無くなってしまうはずだ。
「幸せになりたくないって言ったら、側にはいてくれない?」
 え、と五条くんが口を薄く開いた。ぽかんとした締まりのない表情は久しぶりで、自然と頬が緩んだ。
 ふふっ、と向かい合いながら笑えば、五条くんは、はっとした表情を一瞬してから、眉間に皺を寄せた。
「何、笑ってんの」
 五条くんが拗ねた。私はさらに、笑った。
「ごめん、可愛かったから」
「僕、さっきから、ずっと真面目に話してるんだけど」
「うん。私も、真面目に答えてるよ」
「そんなの」
 そんなの、と言いながら、五条くんは私を抱きしめた。
 きつく、痛みを覚えるくらいに、強い抱擁だった。
「いるよ」
 五条くんが呟いた。
「家なんかいらないし、家族になれなくてもいい。毎回違う場所であって、会うたび、君に嫌いだって振られてもいい。僕は君の側にいる」
 そう言いながら、五条くんは鼻先を私の首筋に埋めた。
「会うたびには、振らないよ」
 私は五条くんの背中に手を添えながら、答える。宥めるように背中をさすれば、ぐりぐりと五条くんが顔を擦り寄せてくる。
「五条くん」
「うん」
 頷く声がくぐもっている。吐息が首筋にあたってくすぐったい。
「じゃあ」
「うん」
「もう一度、私と付き合ってくれる?」
 は? と五条くんが飛び起きるように、がばりと私から離れて顔を上げた。突然のことに、今度は私がぽかんとする。何。と聞けば、こっちのセリフだよ。と五条くんが怒鳴る。付き合ってくれるって何、僕はもう、付き合ってるって思ってたんだけど。どうして一ノ瀬は、いつもそうなの。僕のこと好きで仕方ないくせに。こないだしたキスは一体なんだったわけ。
 勢いよく五条くんが早口で捲し立てる。興奮からか、色素の薄い肌が、耳まで赤く染まっている。
 いや、それは。あまりの勢いに圧されながら、どうにか言い訳を口にしようとすらば、「なに?」と間髪入れずに五条くんが問いただされる。
「ほら」
「ほら?」
「その」
「その?」
「人工呼吸みたいな」
「あ゛? 何言ってんの」
「何言ってるんだろうね。ごめん」
「ごめんって」
 五条くんが、へなへなとテーブルに顔を突っ伏した。私は、黙って五条くんの頭を撫でている。
 人工呼吸、ね。ぐずぐずと五条くんが伏せたまま喋っている。いいよ、もうなんでも。ぐずぐずと五条くんは言う。
 してよ。首をまげて、伏せた姿勢のまま五条くんが私の方に顔を向けた。ほら、はやく。助けて。
「君がいないと、息ができない」
 五条くんが、急かす。
「出来てるよ」
 と、私は答えた。
「五条くんは、一人なら、なんでも出来るんだよ」
 確認するように、私は五条くんの頭を撫でる。
「そんなことないよ。一人じゃ教わった曲すら弾けない。キスも」
 五条くんが答える。五条くんの顔に、静かに私の形をした影がかかった。


 バイオリンを担ぐ背中を丸めて、私は早歩きに廊下を歩いていた。
(お金あるんだから、全館冷暖房完備にして欲しい)
 自分を自分で抱きしめるように、腕をさすりながら、私は一刻も早く暖をとるべく、歩く足をさらに早めた。ヒュー、ヒューと窓の桟から風が漏れる音がする。忌々しい気持ちで音の先をみれば、ガラス窓には水滴のような、白い結晶がてんてんとついている。雪だ。
 あれから五か月が過ぎだ。
 私は、もう一度呪術師として高専に籍を置くことにした。これからの、自分の生き方をゆっくりと考えてのことだった。意外にも、私の決定に五条くんは難色を示した。たぶん、理由が「呪いとして梢を祓ったなら、他も祓わないといけない気がするんだよ」だったことが気に入らないのだ。
「振った人間に、振られた人間の気持ちなんてわからないよ」
 と、一時期、五条くんはよく言っていた。最近は、ようやくその頻度も減ってきて、
「このまま、先生にもなっちゃえば」
 なんてことも、言ってくるようになった。
「今はまだ、辞めようとは、考えてないかな」
 私はそう答えている。
 バイオリン教室の講師業も、続けていた。
 正社員としてではなく、パート勤務の扱いで今も置いてもらっているのだ。
 バイオリンが好きな人たちが、上達して、好きなように音を鳴らせるようになる過程に携わることが出来る。というのは、呪術師では味わえないやりがいである。
「それこそ、教職をすべきだと思うけど」
 五条くんは言う。
「仕方ないか。君が育てたいのは、術師でなくバイオリニストなんだもんね」
 この五ヶ月の間に、夢も出来た。
「お金貯めたら、自分の教室を開きたいの」
 というものである。お金なら僕が出してあげるよ、と五条くんは言うが、自分の夢くらい自分で叶えたいと言って、私は投資を断っている。
 その代わりといってはなんだが、私は五条くんから、お爺ちゃんの工房を譲り受けた。
「えっ、本当に買う気なの?」
 流されたと思っていた話題が、掘り返されたときは驚いた。
「言ったでしょ。渡したいものがあるって」
 結局、不動産を仲介して、おじいちゃんの工房は五条くんのものとなった。一階の店舗スペースを居住スペースへと改装し、二階の工房と試奏室は修繕のみでほとんど残される予定らしい。
「思い出があるからね」
 ドアだけは変えるけど。と天井までのハイドアのカタログに目を光らせながら五条くんは、楽しそうに笑っていた。
 そして今。
 他の部屋よりも分厚い扉を押し開ける。引き戸ばかりの高専の学舎で、ドアノブを押すのはこの部屋くらいかもしれない。
 冬の空のような鈍色の扉を開けると、氷のようなピアノの音と、暖房のぬるい温度が部屋から漏れでてきた。
「なんか、上手くなってる気がする」
 という私の言葉に、五条くんは得意げな顔をみせて、鍵盤から指を離した。
「僕だって、もう十年以上弾いてるからね」
(十年か)
 過ぎた時の長さに、ほう、と私は息をつく。
 十年前。私はまだ中学一年生だった。
 思い返せば、私が五条くんを初めてみたのは、中等部の入学式の日のことだ。
 緊張しながら、知らない人ばかりの校舎を一人で歩いているときだった。あのときは、呪霊を呪霊と呼ぶことすら知らなかった。ただ絶対に、得体の知れないそれが、見えていることを誰かに知られてはいけない。そう思って、必死に世界の端に潜む汚れから目を逸らしていた。
 呪霊がいない方に、いない方にと視線を移して、その先にいたのが、真っ白な男の子だった。
 太陽の光すら拒むように、白髪にあたる日の光がキラキラと反射して瞬いていた。
「五条くんの周りは、いつも綺麗だね」
 五条くんは、汚れない。汚れに触れさせることもしない。手を触れなくとも、呪いを祓うことができる。
「すごい」
 特級呪術師。現代最強。そう謳われる人に対して、私は今、しみじみとその凄さを感じていた。
「一ノ瀬だって、すごいよ」
 ぽつりと五条くんが言った。
「君の方が、僕よりずっと綺麗だ」
 まさか。私は笑う。
 本当だよ。五条くんが真面目に言い返す。そりゃあ、僕は顔も声も指の先までパーフェクトなナイスガイで、祓う姿すらカッコいいかもしれないけど。でも。
 でも君はさ。
「叫びも、血も、破壊も。何もなく、ただ、バイオリンの音色だけがそこにあるんだ」
 五条くんが、優しく微笑む。
「君ほどきれいに、この世の穢れを飲み込む人は他にいない」
 年末年始を終えたこの時期は、呪霊の動きが活発になる。学園にも、新宿にも、どこかにいる傑のとこにも、きっと今日も呪霊が湧いては世界の隅を汚している。
 取りこぼした命が、五条くんと私の間をこれからもいくつも通り過ぎて行くのだろう。
 それでも。
(何を持っていくかは、もう、決めたから)
「君のほうが、僕よりよっぽど、神聖だった」
 うっとりとした口ぶりで五条くんは、話を続けた。
「あのころ僕は、神様から、どうやって君を奪ってやろうか考えてばかりいたよ」
 しっかりとした足つきで、私はピアノの前に腰かける五条くんに近づいた。すぐ隣に立って、自分より低い位置にある顔からサングラスをゆっくりと外す。五条くん、好き。そう告げれば、五条くんはクツクツと喉を鳴らして笑った。
「地獄におちるかな、僕」
「五条くんが連れてってくれるなら、私、地獄でもいいよ」
 どちらともなく手を重ねて、隙間なく指を絡めていく。この距離にいてくれるなら、なんだってしてあげる。小さく私が五条くんに向かって囁けば、五条くんは、厄介な呪いだね、と笑ってみせた。
 空からはしんしんと雪が降っている。雪は、積もることなく、地面につくなり溶けていく。なんと静かな世界だろう。ねえ、ピアノ弾いて。五条くんにそうねだりながら、私はバイオリンのケースを開いた。



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