神様の隣人 _ | ナノ

16

 細い煙がたなびいていた。
 傑とベンチに横並びに座りながら、私は空を見上げていた。細い煙は、青空を横切り、やがて積乱雲の中に吸収されていくように姿を消していってしまった。
 天国の入り口は雲の中にあるのだろうか。碌に天の存在を信じてもいないのに、惚けた考えが頭を過ぎった。
 空が広い。オフィスビルの隙間から覗くものでも、高専の森の木の隙間をかいくぐるような空でもなく、悠然と広がる青空だった。お爺ちゃんの工房にあった絵も、こんな空を描いていた気がする。あれは確かブーダンのレプリカだった。青い空と白い雲。誰かさんを思い浮かべる色の組み合わせは、不思議と横に座る、傑の方が似合っている。澄んでいて、穏やかで、それでいて、いつ荒らぶるように夕立が訪れるかわからない。
 どうして傑といるのか、不思議だった。傑が隣にいることに、居心地の悪さは無い。ただ不思議で、新鮮な心持ちであった。時間が経ったとはいえ、私は傑とは何度も隣り合って時間を過ごしてきたはずなのに。それなのに、今、こうして並んで座って、傑とはどう言う人だっただろうと考えてしまっている。あの頃。私は傑をどう捉えていたんだっけ。思い返してみる。思い出せない。恐らく、傑といるとき、私は傑のことを大して考えていなかった。ぼんやりとした印象という枠から、その奥にいる、五条くんのことを見つけることばかりしていた。
 私といるときの梢は、どうだったっだろう。
 梢といるときの私は、どうだったっけ。
 傑が口を開いた。
「悟と別れたんだって」
「それ、今かな。私、葬儀中なんだけど」
 傑の方に顔をやれば、同じように私へと顔を向けた傑が、すぐにフンと顔をそらした。ツンとした傑の態度に私は呆然と口を開け広げた。
「何でそんな、怒ってるの」
「怒るさ、私があれだけ言って聞かせたのに。君は何も聞いていなかった」
 傑は、低い声で言う。
「傑が勝手にいなくなるからじゃん」
 つられて、私までも、拗ねた声が出た。
「私は関係ないだろう」
「私にはね。五条くんにはあるじゃん」
「悟から別れようって?」
「それは」
 私の言葉が詰まると、傑が視線だけで私を責めてくる。
 はあ。責めないでよ。私が項垂れると、傑はぐしゃぐしゃと大きな犬でも撫でるように私の頭を撫でた。
「灯は、どうしてわざわざ苦労する道を行くかな」
 私が出したものよりも、うんと深く傑がため息をついた。
「お父さんみたいな話し方するね」
「うちの子達のほうが、よっぽど君より、手がかからないよ」
 え、と私は声を上げた。子供、いるの? 私は驚いたが、傑は平然とした表情であった。子供じゃなくて、家族だよ。傑は飄々と言ってのける。
 なんでも、傑は今、女の子を二人面倒みているらしい。
 そんなことを私に話しても良いのかと聞けば、灯が内緒にしてればいい。と傑は目を細めて笑った。夏油傑というのは、こんな風に笑う男だっただろうか。私は傑の笑顔に少しだけ首を捻った。こんな男だったような気もするし、随分と変わってしまったようにもみえる。
 もしくは、変わろうとしている最中にも見える。

 ペットボトルに口をつければ、ゴクリと喉が鳴った。身体中の熱を冷やすように、冷えた温度が喉を通るのを感じる。
「生き返る」
 と私が呟けば、
「火葬場でその台詞を聞くとは思わなかったな」
 と愉快そうに言い、それから途端に真面目な顔をすると、術骸のことは災難だったね、と未だ煙がのぼる空を見上げた。
「非術師だよ」
 私もまた、空を見上げる。
「苦しんでるのは君で、君は、術師だ」
 傑は答える。それは用意していたかのように、スラスラと淀みない答えだった。

「傑はさ、モテるじゃん」
 ペットボトルを両手で弄りながら、私は言った。
「なんだい、藪から棒に」
 傑が僅かに構える。
「好きって言ってくれた人全員を、同じように好きになれたわけじゃないでしょ」
 まあ、そうだね。傑が答える。
「でも、友達としては、好きってとき、なんて答えるのが正しいと思う?」
「正しいというのは、どう言う意味で?」
 傑が聞き返した。
「関係を継続する意味か、それとも、後を引きづらせないための意味かで、答えは変わるだろう」
 傑は続ける。
「どちらにしても、損得の話しか私には出来ないよ」
 私は視線を空から傑へと戻した。
「私が一番誠実でありたいと思う人は、私のことに興味がないからね」
 傑もまた、じっと私の目を見つめた。しばし、視線が重なる。先に逸らしたのは、私だ。
「どうこうしたいわけじゃないって、言った」
「変わらないよ。これは、恋じゃない。憧憬だ」
「憧憬」という言葉に、私は居住まいを正した。
 五条くんと梢と私。宇奈月と祖父母。似ているような、全く違うような、私にもよくわからない、それぞれの三角関係。「恋じゃない、憧憬」という言葉を、分別して使う傑はどう解くのだろうか。
「憧れだから、私と友達になったの?」
 一歩踏み込んで訊ねれば、傑が首を傾げた。ん? と甘い声が耳に届く。
 この続きを話してもよいものか、私は少し悩んで、逸らした視線を傑に戻した。ぴたりと重なる視線は優しく、話してごらんと促してくる。
「友達がいいって、言われたことがあるの」
 ぽつぽつと促されるままに、私は喋りはじめる。
 その声は我ながら、幼い声をしていた。

 宇奈月は祖母になりたいくらいに、祖母のことが好きだったのかもしれないこと。
 祖父が宇奈月を友と呼んだこと。
 梢もまた、五条くんになりたいくらいに、五条くんに憧れていたこと。
 それでいて、私のことを、好きだと言ってくれたこと。
 梢の好きは、友達でいい、と言われたこと。
 それから、いつまでも終われない、五条くんと私の関係の曖昧さについて。
 傑は口を挟むことなく、でも、優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれていた。ときどき、言葉を詰まらせても、傑は静かに話の続きを待ってくれた。
「憧れが恋になると、いつか、憎しみに変わるものなら、それならずっと友達の方がいいのかなって」
 私がそう、言葉を区切ると、傑はそこで初めて首を横に振った。
「友愛と恋情は不可逆だよ。一度、混じってしまえば、戻れない。うまくやり過ごす奴もいるが、悟や君のような人間は無理だろうね」
「五条くんと私?」
「二人とも、よく似てる」
「そんなことないと思うけど」
「寂しがりで、甘えん坊」
 言いながら傑が指先で私の顎裏を擽った。こそばゆい感覚にぐっと顎をひけば、クツクツと傑が笑う。
「友達なんて言葉じゃ、満足できないだろう、君たちは」
 私が顔を背けても、傑はしつこく指を動かし続けた。やめて、くすぐったい。私は言うが、傑は聞く耳を持たずに、話続ける。
「選んだ人間にしか気を持たせることすら許さない。それ以外の人間なんて、視界にすら入っていない」
 うちの子供達も昔はそうだったよ。傑が言った。好きなオモチャにばかり夢中で、他のものを与えても見向きもせず、要らないと放り投げるんだ。可哀想だろ、と言っても、何が悪いのかわかっていない。代わりのオモチャはいくつもあるのに、気に入りのそれがないと、嫌だ悲しいと泣き続ける。
 そう言うと、傑の手が止まった。私は口を開けなかった。黙ったまま視線を重ねていれば、傑が笑った。
「愛おしいよ、とても」

「はやく、灯は悟と家族をつくったらどうだい」
 傑の言葉に、私は一瞬顔を歪めた。傑は私の表情に頓着せずに揚々と話続ける。
「自分で作る家族も良いものだよ。きっと、あの寂しん坊を君なら受け止めてあげられるし、悟なら君を受け止めてくれる」
 二人なら幸せな家庭がつくれるはずだよ。優しい声で、傑は言った。
 ペットボトルの蓋にある柄を、真上からぼんやりと眺めながら、そうなのかな、と私は自分の中に語りかけてみる。
「五条悟が種となり、一ノ瀬灯が胎となる」
 呪詛師の意地悪な言葉とともに、呪霊と化した宇奈月や呪骸にされた梢の姿が頭によぎる。
 家族。
 頭の中に浮かぶのは、父と母と祖父の姿だ。
 そこに、私と五条くん。それから、二人の子供が加わるのだとしたら。
「新しい家で、一番最初に傑が赤ちゃん抱っこするの」
 それはもう、遠い夢物語だ。
「ごめん、瀬戸」
 耳に残る掠れた声だけが、私の現実なのだ。ならば。
「作れないよ呪いしか。私たち、梢のこと殺してるんだもん」
「瀬戸梢を殺したのは君でも悟でもない」
「それでもだよ」
 断言する傑に、私は肩をすくめた。
「それでも、梢の姿が焼き付いて、離れないんだよ」
 中身は呪いでも。あれが梢の死体を弄んだだけのモノであっても。縋りつきたくなるほどに、あれは梢の姿のままだった。
「ねぇ、傑。私たちは、何のために呪霊を祓わず、取り込めるのかな」
「連れていくつもりだったのか」
「寂しがりだから。私も」
 誤魔化すように、私は笑った。
 呪いでもいいから、離れたくない。
 それは、五条くんにはもう言えない、私の諦めきれない本音だった。
 自分で自分の手首を揉むように握る。細い金属の冷えた温度が掌にじんわりと伝わって体温と同化していく。
「君の細腕には、重すぎるだろう」
 傑が言った。
「せめて、悟と分け合うべきだ」
 私は首を横に振る。
「梢との思い出は私だけのものだし、それに、五条くんにも、五条くんだけの梢の思い出があるんだよね」
 私が二人に出会うずっと前からの付き合いだ。一見、他人のように振る舞う二人にも、きっと、私の知らない時間が流れていたことだろう。
 それになにより、
「五条くん、梢のことそんな好きじゃないし」
 言えば、傑が一瞬、ポカンと口を開いた。それからすぐに笑い声をあげる。
「ふふふ。なんだ、わかってるんだ」
「わかる、っていうか、なんていうか」
 ううん。と私は唸る。
 嫌い。なんてことを、私の前で五条くんは口にしたことはない。それに、たぶん嫌いというわけでもないのだ。むしろ、好感を抱いている。だから、嫌い。五条くんの梢への気持ちは、そんな複雑怪奇な形をとっているような気がしてならない。もしくは、瞬間的に好きと嫌いが反転しているような、常に好きと嫌いが共存しているような。どちらにせよ、非常に難儀なもののはずである。
 少なくとも私は、傑のことを、そう、思っている。
「それでも私は灯のことを愛しているよ」
 笑いながら傑は言った。
 そういうとこなの、と私は口を尖らせる。
「私のことが一番大事みたいなこと言いながら、傑は、簡単に五条くんの一番を私の前から奪っていくじゃん」
「奪っていくじゃん」の「じゃん」に、思いの外力が入ってしまった。幼さを演じるどころか、もはや、ただの子供になっている。
 傑がますます、笑った。
 クツクツと笑いながら、肩が小刻みに震えている。しばらく笑い声は続いたが、やがて傑が話出すとともに、笑い声は終息した。
「相手に許さないものを持ちながら、自分は全てを許されたがる傲慢さがある限り、君たちの不満は永遠に続くんだろうね」
 うるさいな、インチキ坊主。わかりきったことを責められ、すっかり子供な私は、悪態をつく。そうすれば傑は、
「教祖だよ」
 と訂正しながら、微笑んだ。傑は、こんな風に笑うんだったっけ。またしても新鮮な気持ちで、私は傑を見つめる。やっぱり不思議。手の中のペットボトルはすっかり、私の温度と同化していた。蝉が「ジッ」と鳴いたのを最後に、鳴き声を止めた。別の木へと移り飛んだのだろう。蝉の声が遠くなる。

「ねえ。傑、半分、持っててくれない」
 私が言えば、傑が眉を上げた。
「私は猿の死を惜しむ気はないよ」
「猿じゃないし。梢のことでもないよ」
 上目遣いに、私は傑に向かって言った。小さく傑が首を傾げる。そこに私の様子を窺うような雰囲気は感じられなかった。あくまで、顔色を窺っているのは私のほうで、傑は、私が話を続けるのを静かに、ゆっくりと待ってくれている。
「一人じゃ持ちきれないの。でも、梢を置いていきたくない」
 うん、と傑が微かに頷く。
「傑のこと、半分置いていってもいい?」
 小さく傑が息をのんだ。細い眉がもちあがる。それからすぐにゆっくりと細く長い息を吐いた。持ち上がった肩が下がると同時に眉がさがり、気の抜けた笑い顔を傑がみせる。
 傑だ。
 はっきりと思った。途端に懐かしさが込み上げてくる。そうだ、傑はこんな風に笑う人だった。
「とっくに全部、捨てたと思っていたよ」
 傑が私を甘やかす。
「いいさ。半分なんて言わずに、全て置いていってごらん」
「ごめんね」
「謝ることじゃない。君と私はそれでいい」
 言いながら、傑は私の頭を軽く撫でた。大丈夫、大丈夫。と優しく囁きながら、大きな掌が私の頭を撫でていく。
 傑、一緒にきてよ。灯の頼みでも、それは無理だ。ぐずぐずと言う私に、傑は笑う。
「大丈夫」
 大丈夫、とまた言いながら、傑はこれで終いとばかりに、ぽんと私の頭に触れると頭を撫でる手を止めた。
「灯はすごいんだから」
 するりと、撫でていた手が頬にすべれば、両手で頬を包み込まれた。
 真っ直ぐに視線が合わされる。
「どうして我々が呪霊を取り込むのか。きっとその答えは私も君も、宇奈月も違うだろう。けれども、君と同じく呪霊を取り込む術師として、私は君の術式を特別なものだと思っているよ」
「特級も産めるかもしれないから?」
「馬鹿だな。呪霊の強さなんかで、君の価値が測れるものか」
 む、と傑が眉を顰めた。頬に添えられた手に力がはいり、私は間抜けにも、口を蛸のように尖らせる羽目になる。
「灯は」
 と言いかけて、傑は話すのをやめた。
 ちょうど、私のワンピースのポケットから、スマートフォンがバイブ音を低く鳴らしたからだ。恐らく着信だろう、長く鳴り続けるそれを止めようにも、傑の手が離れないので、動けない。数秒そのままでいれば、やがてバイブは止まった。
「悟かな」
「たぶん」
 間抜けな顔のまま、私は答えた。
「急ごうか。そうだな、百聞は一見にしかずだ」
 そういうなり、傑は頬に添えた手を、ぐいと自分の顔へと引き寄せた。近すぎて、傑の顔がぼやけている。唇に乾いた温もりが触れた。驚いて傑を引き剥がそうとすれば、傑は手を私の腰にまわし、唇に濡れたものが這い、ぬるりとそれが口内に侵入してくる。
 私はありったけの力で、傑の肩を押した。絡み合わせてくる舌に、顔を思い切り背ければ、あっさりと傑が私から身を離す。
「どう? わかったかな?」
 は? と私は怒鳴った。何が。ってか、何? 意味わかんない。何してんの。
 早口に捲し立てると傑が笑う。クククと笑うたびに、傑の喉仏が揺れるのがみえた。
「わからなかったなら、いいさ」
 愉快そうに傑が言う。

「じゃあね」
 ベンチから立ち上がると、あっさりとした口ぶりで傑が言った。パンと一度袈裟をはたいて、ヘラリとした笑みを浮かべる。
 まじで、ほんと、何しにきたの。私は項垂れながら、傑に聞いた。
 会えて嬉しかったよ。胡散臭い笑顔で傑は言う。せっかく会えたんだ、そんな嫌な顔をしないでくれないか。
 誰のせいだと、と私が恨み言をいえば、初めてでもあるまいし。と傑が呆れてみせた。ジリジリとした太陽が私たちを照らしている。
 初めてだよ。
 悟と散々してるだろう。
 五条くんだけだったのに。
 ハハ、それは悪いことをしたかな。
 全然、思ってないでしょ。
 べつに感情の伴うものじゃない。人工呼吸とでも思えばいいさ。
 どんな理屈よ、ばか。
 私もベンチから立ち上がり、ポケットの中を探った。取り出したスマートフォンの画面には、予想通り、五条くんからの着信を知らせる通知が残されている。五条悟という見慣れた文字に、妙な罪悪感を抱きながら、私は舌打ちをした。
 傑が、何も言わずに歩き始める。その背中は大きくて真っ直ぐだ。
「傑」
 呼びかければ、足がとまる。
「家族、いるんだよね」
「一人じゃないんだよね」
「ちゃんと食べて、ちゃんと、寝るんだよ」
 続けざまに、無言の背中に話しかければ、へにゃりと眉を下げた、困ったような笑顔が、振り向いた。
「さよなら」
傑がいう。
「さよなら」
私も、応える。

 火葬場の廊下を、早歩きに私は進んだ。
 外の真夏の暑さから一転して、廊下はエアコンが効いていて、かいた汗を冷やしていく。
 控室の近くまでくれば、見覚えのある人たちが、ぞろぞろと部屋から出てきたところだった。眺めていれば、背丈に合わない扉から、頭を屈ませて、五条くんが現れる。
「終わったって」
 私を見つけるなり、五条くんは言った。
「そっか」
「うん。行こう」
 行列の最後尾から、少し離れて私たちは歩いた。前を小さな男の子が、母親らしき女性に手を引かれながら歩いている。
 おかあさん、どこいくの。子供が母親を見上げながら聞いている。いまから、梢ちゃんの骨を拾いにいくんだよ。母親が小さな声で答える。梢ちゃん、燃えちゃったから? うん。ふーん。なら、もう天国ついたかな。そうね、ついたかもね。神様、会えてるといいね。
 その夜、五条くんと私は、私の部屋で食事をとった。テレビやスマートフォンを弄りつつ、ぐたぐだと時間を過ごし、狭いベッドで身を縮めながら朝を迎えた。朝食はパンケーキで、いつもより大きくバターを切ってのせた。五条くんは、これでもかと、蜂蜜をかけていた。ふやけちゃうよ、と言えばこれが美味しいのだと五条くんは言っていた。本当かどうかは知らないが、2年ぶりの彼とのキスは確かに甘く、美味しい気がした。




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