神様の隣人 _ | ナノ

14

 帳があけた。太陽が見えた。真夏の、一番高い位置にある、太陽を背にして五条くんは空中に立っていた。仁王立ちに地を眺めている。言い表しようのない五条くんの呪力に、安心よりも先に肌が泡立った。息が、詰まった。帳があけて開放的になった空間だというのに、辺りの空気が薄くなったような気分だった。それでも不思議と、呪力の枯れた身体は動いて、結界を保ち、私は五条くんから庇うように、梢の姿をした呪骸の前に立った。

 瞬きの間に地上に降りた五条くんが、サングラスを外しながら、トンと靴音を鳴らして私の前に立った。陽の光を反射させる白髪が目に眩しい。無事だね。五条くんが確かめるように言って、私の顔を覗き込むように腰を屈めた。それから、視線が私を通りこして背後に移る。すっと細められた目に、五条くんの大きな手で、気管をきゅうと閉められたような心持ちになった。
 ジリジリと焼きつけるような日差しの下で、背に冷たい汗がつたう。
 どんな呪霊や呪詛師よりも、本当は、五条くんが一番強くて、怖い。
 当たり前すぎて、考えることも無くなっていた事実を、私はこのとき、目の当たりにしていた。
「見つけたのは偶然?」
五条くんが聞いた。全てわかっていて、尋問するときの話し方だった。駅に降りたのは偶然。都合の悪いところを隠して事実だけを伝えれば、すぐに責めるような言葉が五条くんの口から出た。
「使うなって言ったよね、僕」
冷たい、ため息が降ってくる。
「追うなとも言った」
「うん」
私は素直に頷く。
「まあでも、ともかく無事でよかった。むしろよくやったよ、二年ぶりで、格上相手の呪い相手に完全封印! 僕の生徒にも結界術の指南をしてほしいくらい」
わざとらしく明るい声で五条くんは言う。
「ここから先は、僕に任せて。大丈夫だよ、僕、最強だから。パパって済ませて、デートにでも行こうか」
「五条くん」
「そこ、どいて」
「嫌だ」
「規定違反がどうなるか、わからない君じゃないだろう」
 脅すように言われた言葉に、足がすくんだ。それでも、私は足の指を懸命に踏ん張り、震えそうになる膝で真っ直ぐに立った。そんなことをしても五条くんの前では無駄なことくらい分かっていたけれど、抵抗をやめるわけにはいかなかった。呪骸は、梢だった。あまりにも梢の姿のままであった。
 どかない。
 なら僕は、君ごと殺さないといけない。
 頬を撫でる手が、するすると下りて、私の首に触れた。五条くんの大きな親指が、私の喉元をなぞる。実際に圧力をもって狭まった気管は、さっきまでとは比にならない程の息苦しさと恐怖を私に与えた。呪力など扱わなくとも、簡単に五条くんの指先は私の命を奪えるのだろう。対する私は呪力を手にこめていた。
 やりたきゃやれば。
 投げやりに五条くんが言った。
「それが、おまえの望みなら」
 突発的な感情が溢れだしていた。こんなことが私の望みなわけがない。勢いよく、呪力をこめた手を、私は五条くんに振り上げた。手は届いた。五条くんの手がはたかれ、私からあっさりと離れていった。五条くんは術式を使わなかったのだ。自分の弱さを見せつけられて、それにまた、怒りによく似た屈辱感が湧いてくる。
 苛立ちを覚えているのは、私だけでは無かった。
「助からないことくらい、おまえにだって、わかるだろ」
 五条くんが、怒鳴った。
「こんなもん守るために、命かけてどうすんだよ」
「梢より、大事なものなんてない」
 私もまた、声を荒げた。
「これのどこが瀬戸だよ」
 路地に五条くんの声が響いた。残響をかき消すように、街の音が遠く聞こえる。
 大袈裟に息をついて、五条くんは、静かに私に訊ねた。
「どうすんのこれ、ずっと、こんなとこに封じ込めておく気かよ」
 答えられなかった。
 しばらく俯けば、堪えきれずに、涙が出てきた。泣くのはずるいとわかっているのに、我慢しきれずに溢れた。自分をやめてしまいたくなるくらい、自分のことを嫌いになった。せめて嗚咽を漏らさないようにと唇を強く噛みしめたのは最後の意地だった。鼻の奥までツンとしてきて、余計に食いしばれば、口の中に血の味が広がった。
「一ノ瀬」
 責めるように、五条くんが呼ぶ。
「いつまで瀬戸の身体、あいつに弄ばせておくつもりだよ」

「五条くんが、私のこと助けてくれるって言ったんじゃん」
 言ってすぐに、唇がわなわなと震えた。
 う。と堪えたけれど、だめだった。嗚咽が漏れて、私はその場に膝をつき泣き沈んだ。一ノ瀬。五条くんが小さく呼ぶ。
「絶対、私のこと助けてくれるって言ったくせに」
「……」
「なんでもしてくれるって言ったくせに」
 八つ当たりだ。そんなことは沸いた頭ですら、わかっていた。人に、こんな酷いことを言ってはいけない。自分の不機嫌を他人に押し付けるようなことは、するべきてはない。
 それが好きな人なら、なおさらのことである。
「嘘つき」
 それなのに私は言ってしまうのだ。こういう面を残酷だと指されたのだろうか。きっと私は梢のようには一生なれない。
 街の喧騒の中に、どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。あの人は助かるだろうか。助かれば良い。こんなときなのに、どこかの誰かの無事を頭の隅で願っていた。もしかしたら、こんなときだからこそなのかもしれない。これ以上、誰かが死んだのなんだのと言った話を聞きたくなかった。世界を恨んでしまいそうだから。
 ブンと取り損ねた蠅頭が飛ぶ音がした。蝉の声も聞こえていた。
(神様)
 殺されてもいい、命でもなんでもあげる。だから梢を助けて。私はうずくまりながら祈った。
 祈っても、何も変わらなかった。
「ごめん、瀬戸も一ノ瀬も、僕にはもう助けられない」
 五条くんが言った。
 もう二度と、神様なんかに頼るものかと、また、八つ当たりをした。
「なんでもしてあげられると、思ってたんだ」
 五条くんの声に、息を吸い込み、腹筋に力をいれ、私は勢いよく顔をあげた。
「返して」
 全然涙は止まっていなくて、しゃくり上げながらしか喋れなかったけれど、五条くんには充分に伝わったようだった。
「なんでもしてくれるなら、梢を返して」
 ずっ、と鼻を啜る。喉に痰がまわった。泣き過ぎて頭が痛かった。
 生きていて欲しかった。
 そばにいて欲しかった。
 それだけのことが、何一つ、叶わない。
 大好きな親友の身体が、大嫌いな呪いに侵食されている。それでも。
「私じゃ、祓えないことくらい、見れば……見なくたってわかることじゃん」
 何も、してやれないくらい、私は弱かった。
「五条くんには出来るんでしょ。だったらやってよ」
「……」
「返して」
「うん」
 嫌だ、と全身が訴えていた。泣きすぎて、話なんて出来る状態じゃなかった。でも、もう、私が梢に出来ることなど、何も残っていなかった。
 覚悟なんて、安い言葉で、私の決意を現したくは無いけれど、私はこの瞬間、取り返しのつかない決定を下すことを決めていた。
「祓って」
 何も言わずに頷いて、五条くんがゆっくりと近づいてきた。膝をついて、指で涙を拭われる。
「最期に言い残したことは」
 五条くんの言葉に促されるように、私は五条くんに背を向けて、梢の姿をした呪骸と向き合った。
 狭い結界の中で、梢の身体が立ちすくんでいる。
「梢」
 名前を呼んだ瞬間、十年間の記憶が途端に頭の中に駆け巡った。あ、ああ。泣いてばかりではだめだと思えば思うほどに嗚咽が溢れてくる。
 ごめんね。ありがとう。ぐちゃぐちゃな表情で私は言った。愛してる。

 日が高い。細い路地なのに建物の影が短く、道は明るい。五条くん、お願いだから痛くしないでね。梢の姿を見ながら、私は出来るだけなんともない声を出して、お願いした。
「痛くしない。何も感じさせないよ」
 後ろから、五条くんが答えた。
 うん、よかった。私は言って、真っ直ぐに梢の姿を見つめた。祓って。そう願った私は、見届けることが罰だと思った。
 狡いことに、罰があることに、救われてもいた。
 けれど、五条くんの大きな手が、後ろから抱きしめるように私の目元を覆い隠した。
「ごめん。君に死体は見せられない」
(五条くんも、きっと、優しくない人なんだ)
 私は思う。五条くんと私は、きっと永遠に、傑にも梢にもなれないんだろう。そこからは一瞬で、私の結界は破られて、何かが、どさりと崩れ落ちる音がした。
「ごめん、瀬戸」
 五条くんの、堪えるような声が暗い視界の中でよく響いた。
 私は、梢の言葉を思い出していた。
「私、幼稚舎のころから五条くんのファンやってるから」

 ごめん。ごめんね、五条くん。
 唐突に理解した苦しみに、私は振り返って五条くんを抱きしめた。
 背中に腕をまわせば、五条くんが呟く。
「君は何も悪くない」
 いっそ、全部押しつけてくれればよかった。
 僕だって、辛いと拗ねてくれればよかった。
「傑のことはさ、僕なりに向き合ってるつもりだったんだ」
 五条くんが絞り出すように言った。
「僕こそごめんね、君にだけ、正論を押しつけて」
 五条くんは続ける。
「そのかわり、僕は、あの呪詛師をどんな手段を使っても、裁くから」
「私、五条くんに誰かを殺してほしくないよ」
「殺さないよ」
 五条くんは言う。君が今、死ぬより辛い思いをしてるんだから。


 迎えにきた伊地知くんの車に乗り込むまで、本当に、五条くんは何も見せてくれなかった。五条くんがどんな表情をしているのか、盗み見ようとしても、付け直された真っ黒なサングラスが邪魔をしていた。蝉がジージーと鳴いていた。こう暑い日は外に出るのも億劫になりますね。伊地知くんが場を取り繕うように言った。私は後部座席で隣に座る五条くんの手をぎゅうと強く握った。憎しみに五条くんが飲み込まれないようにと願いながら、私は胸の奥で呪詛師のことを憎く思っていた。私たちはこれから、どこに向かっていくのだろう。さっぱりとわからない。未来はいつも不確かで、裏切られてばっかりだ。
 車窓からぼんやりと外を眺めていれば、クレープの露店に並ぶ、学生服の集団を見つけた。楽しそうに笑い合っている。彼らはこれから、どこに帰っていくのだろう。あの呪詛師が今も息をする世界で。こんなにも誰かを憎く思う日が来るなんて思わなかった。



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