神様の隣人 _ | ナノ

11

 地下室を出て階段を登った私は、校舎とは別の施設に入った。学生時代、京都校との姉妹交流会のときにだけ入ったことのある屋敷の中は、バタバタと忙しなく人が駆け回る音が至る所から聞こえていた。
 駆け足で私の横を通り過ぎていく補助監督たちは、みんな黒のネクタイをだらしなく緩め首元を晒している。いつも身なりを整えている彼らの様子は、ネクタイの緩みの分だけ蓄積された疲労を表しているようで、頭が下がる思いだった。
 一番奥の部屋の襖を開ければ、いつもの面々がすでにそろっていた。
「こんだけの人間が寝ずに調べて、まだ見つかんないわけ」
 五条くんが足を崩しながら、棘のある口調で言った。
「言い方気をつけろよ」
 硝子が咎める。
「なにが? だって、どこにいるか探せって段階じゃないじゃん。補助監督が総出で連絡つかないほど、術師の人手不足が解消されてた記憶は僕には無いんだけど」
 五条くんの言い分に、夜蛾先生が腕組みをした。
「伊地知、あとどれくらい連絡がついてない?」
「はい。東京、京都あわせた現役、OB、OG全ての術師のうち安否の確認がとれていないのは残り2割程。うち大半は禪院、加茂家の方々です」
 伊地知くんは背筋をピンと伸ばして、テキパキと答えた。
「禪院と加茂ね」
「心当たりはあるか」
「無いですね。むしろそこは外していいと思います。慣らしで手を出すにはリスクが高すぎる。何より僕の家の者ならともかく、禪院と加茂に一ノ瀬との関わりはない」
 五条くんが口をへの字に曲げる。
「あの子供は?」
 思いついたように硝子が割って入った。
「なんだっけ。伏黒?」
「伏黒恵くんでしたら、昨日、お姉さんと合わせて無事を確認しております」
 伊地知くんがタブレットを片手に報告する。
 よかった。
 二年前、酷いことを言ってしまった以来顔を合わせていない子供の無事を確認して、私は肩から力を抜いた。
「現在、確認範囲を補助監督と東京管轄の窓にも広げております」
 伊地知くんの報告が続いた。
「現役の補助監督は」
「草薙さんは?」
 遮るように私は訊ねた。邪魔をするつもりは無かったが、気が急いて、言葉が飛び出していたのだ。私はあわてて口に手をやり、ごめんねと伊地知くんに伝えた。
「ご無事でしたよ」
 伊地知くんが微笑む。
 はあ、と私の口から大きな息が出た。
「よかった」
 正座のまま、手前に両手をついて俯く。
 私は畳に視線を落としながら、絞り出すように
「よかった」
 ともう一度繰り返した。

 これで、ふりだしに戻った。
 それに焦り、安堵する。
 君を悲しませる出来事が起こる。五条くんはそう言ったけれど、もう既に事は起きているのだと、嫌でも実感させられた。
 はやく襲われた人間を特定しなければならないのに、その人で無ければいいと願わずにはいられない。延々とそれを繰り返す。そしてその先に待ち受けるのは、もう助からない人間だけ。
(ああ、なんて嫌な世界)
 あんなにも綺麗に思えた世界だというのに。真髄を覗くように、畳の目を見下ろしながら、私は思っている。
「しかし、これでもう五条さんと一ノ瀬さんの共通の知人の方とは連絡が皆ついたことになります。もちろん無事で何よりではありますが」
 伊地知くんの口ぶりからして、残る殆どは私が高専在籍していた期間と被らない人ばかりなのだろう。もとより、私の交友関係など、ひどく狭いものでしかなかった。高専に限定すれば余計にだ。思い浮かぶ人間など、片手で数えられるほどしかいない。ここにいる面子と、七海くんと草薙さん。それから。
「傑は?」
 私の小さな呟きに、一斉に鋭い視線が集まった。
「100パーない」
 五条くんが断ち切るように言う。
「それこそ慣らしどころか、最終目標スキップして飛び越えてるようなもんだろ」
 呪物ならともかく今回は呪霊だ、奴を狙うにはリスクが高すぎる。夜蛾先生が五条くんに同意した。あいつだとしたら、呪詛師もとっくに死んでるだろうしね。硝子がのんびりとそれに続いた。
「ま、一ノ瀬が、そこしかいないって言いたい気持ちもわかるけどね」
 ボリボリと五条くんが頭を掻きながら言った。それきり面々の口から、次の候補者が出ることはなく、重い沈黙が輪の中に落ちるのを、私はただ黙ってみているしかなかった。

「お二人の高専以前のご学友、ということはないでしょうか」
 という伊地知くんの疑問に、五条くんと夜蛾先生が同時に首を横に振った。
 非術師に手を出すメリットが呪詛師にはないという。
「あくまで呪詛師の目的は術師の強化に関する実験だ。最低限、呪霊を認知できる人間じゃなきゃ材料として成り立たない」
 五条くんと私に近しいところ、という条件はおまけのようなものだ。もしかしたら、何らかの縛りを「五条くんと私」に関連してつけているかもしれないけれど、その前提は覆ることはないだろう。天与呪縛で呪霊が見えない奴が生き返ったなんていうなら……
「それはもう、あの呪詛師がどうこうできる話じゃないね。全く別の大問題だよ」
 五条くんは、渋い顔をして説明を締めくくった。
 一同は、また静まる。
 見慣れない補助監督が伊地知くんのもとにきた。耳打ちで何か告げると、伊地知くんはタブレットを眺め、また何かを耳打ちする。伊地知くんのやりとりが終えるのを待たずに、硝子が口を開いた。
「まあ、梢に関係なくてよかったじゃん」
 私は硝子の言葉に深く頷いた。夜蛾先生が、首を僅かに傾げる。それから
「一ノ瀬」
 と、五条くんが言う。

「ん?」
 私は聞き返した。
 五条くんは数秒うつむいていたが、すぐに、
「瀬戸さん、本当に何も言ってなかった?」
 と、聞いた。
 私は硝子と顔を合わせた。何を言われているのか、わからなかった。
「何もって、なに?」
「僕に会った日。それ以外でもいい。最近会って何話した?」
 捲し立てるように五条くんが聞いてくるので、私は気を圧されて、背を仰反らせた。
「なんでもいい、思い出せ」
「なんでもって、梢は」
「非術師と思うな」
「思うなってなんで? わけわかんないよ」
「じゃあ何でおまえは瀬戸と友達やってられたんだよ」
 五条くんが、詰め寄った。
「非術師嫌いのおまえの特別に、どうして瀬戸がなれた? あいつのこと、見えてるやつだと思ってたのは、誰だ」
「やめて!」
 私は叫んだ。
「悟」
 夜蛾先生が五条くんを咎める。ちゃんと説明しろ。夜蛾先生の声に応えるように、五条くんが口を開いた。
「瀬戸梢は非術師ですが、勘がよく、呪力の感知能力が非常に高い人間のように一見みられます。その鋭さは、窓などよりも遥かに上です。実際、宇奈月の顕現について、誰よりもはやく違和感を覚え、僕たちに通報したのは瀬戸梢です」
「本当なのか」
 夜蛾先生の視線が伊地知くんへと向いた。
「いえ、そんな記録はどこにも」
 伊地知くんが戸惑いがちに答える。
 あ、と私は思う。私のせいだ。
「書いてない」
「なぜ」
「あくまで彼女が優れているのは勘です。見えない人間では窓にもなれだろうと。報告を怠ったのは僕のミスです」
「違う」
 私は、今度は意図的に声を遮った。
「あれは、私が」
「違わない。僕の報告書だ」
 五条くんもまた、私の声を遮る。
「でも」
「責任問題は後でいい」
 ピシャリと夜蛾先生は私の言葉を断ち切った。それから、眉間に皺を寄せ、腕を組み直す。おまえ達がいてか。夜蛾先生は五条くんだけを見て確かめた。それは、五条くんと、ここにいない、もう一人の最強と呼ばれた男にだけに向けた問いかけだった。はい。それに現代最強となる男が静かに頷く。違う。私はまた首を横に振る。
「瀬戸梢とすぐに連絡をとれ。無事なら保護。連絡がつかない場合、彼女が呪われた可能性が高い。術師、補助監督、総出で探し出せ」
 夜蛾先生が、外に控える補助監督にまで届くような声で、指示を出した。硝子が私の背を摩った。私はその手を振り解くことも、縋ることも出来ずに、畳を抉るように指先を握りこんだ。嫌。私はまた首を横に振る。違う。こんなのは間違っている。
 だって梢は、非術師だ。
 術師は、非術師を守るものなのに。
 梢をこんな世界に関わらせたくなくて、頼んだことなのに。
「もし、呪いを内包していることが確認できた場合、即刻、祓え」
 何度目かの悲鳴だった。なんと叫んだのかも、口にできたのかも定かではなかった。
 指令を命ずるなり、夜蛾先生は立ち上がり部屋を後にした。伊地知くんをはじめとした、補助監督たちが、忙しなく走り出す。硝子が一度私の頭を撫でて、立った。頼んだよ。そう言って部屋を出て行く。
 取り残されて、私は畳に額をこするように、うずくまった。五条くんの気配がする。それが嫌でたまらない。

 私は握りしめた拳を畳に叩きつけた。
 裏切られたような気持ちだった。
 誰にというよりは、全てに。
 あらかじめ不幸が訪れることはわかっていた。でも、わかったつもりになっていただけだった。迫りくる絶望に、私は顔をあげることも出来なかった。
 どうして。
 浮かんでくるのはそんな感情ばかりだった。どうしてこんなことに。ついこないだ会ったばかりの泣きそうな笑顔を思い出して、私は握りしめる手に、さらに力をこめた。
「バイオリニストが、手を痛めるものじゃないよ」
 五条くんが優しく言った。穏やかな声は、今回ばかりは私の感情を逆撫でるようであった。
「ほっといて」
「出来ると思う?」
 私は答えなかった。黙っていれば五条くんが、握りしめた拳に触れた。指を一本一本、解くように掌を開かさせる。
「硝子に後で治してもらってね」
 開かれた手にピリピリとした痛みがあった。握りこんだ自分の爪で傷をつくったのかもしれない。痛みなど、なんの慰めにもならないな、と私は掌を五条くんから離して畳に擦り付けた。赤茶色の線ができる。血も、出ていたらしい。
「学長の言ったことは間違いじゃない。もし瀬戸さんが呪いを内包されていた場合、術師に出来ることは祓うだけだ」
「もういい。聞きたくない。出てって」
 拒絶を存分に含んだ口調で私は言った。五条くんは私の言葉など頓着せずに、口を開いた。
「受肉した場合の殆どが、器となった人間の記憶はない。あるのは呪いの性だけだ。それはもう瀬戸さんの皮を被ったただの呪いにすぎない」
 黙りこむ私に、五条くんは話し続ける。
「わかってると思うけど、君には呪骸も受肉体も取り込めないし、仮に取り込めたとして、宇奈月を介さずに、三級以上の呪霊を取り込んだら一ノ瀬は死ぬよ」
「それもいいかもね」
 五条くんが私の肩を掴んだ。勢いよく転がされ、視界が畳から、天井と私を見下ろす五条くんでいっぱいになる。
「呪いと心中するつもり? 僕はそんなことをさせるために君を手放したわけじゃ無い」
「ならどうすればいいの!」
 私は五条くんの手を跳ね除けた。
「祓えない、取り込めない、守れない。ならもうどうにもできないじゃない」
 視界が滲んだ。
 温い液体が目から耳に向けて垂れるのを感じる。泣きたくなんてないのに。泣いている場合じゃないのに。泣きたいのは、梢のほうなのに。
「梢だけ、いればよかったのに」
「だからこそ、祓ってやらないといけない」
 五条くんは教師みたいな口ぶりで私を諭した。
「それを五条くんが私に言うの?」
 私を見下ろす五条くんの目は、黒々とした硝子に隠されて何も見えなかった。何も見えなく、どんな表情を浮かべているのかも、よくわからなかった。
「傑を殺さなかったくせに」
 呪術師の仕事は人助けだ。なんてことを言い出したのは、いったいどこの誰なんだろう。
 私は、そんな綺麗事を口にした人間を憎らしく思った。
 そんな風に、この世界を肯定などしないで欲しかった。
 そんな風に、非術師を肯定などしないでほしかった。
「どこかの誰かの命のために、梢が祓われるの」
 もう涙も笑みも出てこなかった。
「だったらみんな、死ねばいい」
 口にすれば空虚だけが残った。五条くんは何も咎めなかった。私は腕で目元を隠した。梢を助けてあげる、そう五条くんが言ってくれるのではないかと、期待を捨てられてないでいた。五条くんが立ち上がる気配がする。少し頭を冷やしておいで、と五条くんが言うと、襖が開く音がした。五条くんの気配が消えて、部屋の外から、生温い風が吹きこんでくる。



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