神様の隣人 _ | ナノ

10

 薄暗い廊下に、コツコツと二つの靴音が鳴り響いた。
 ここ階段になってるから気をつけて。前を向いたまま話す五条くんに頷き、私は少し前を歩く彼の後を追う。あの後、聴取室を五条くんに引きずられるようにして出た私は、呪詛師に狙われた人間が特定できるまで、安全確保のために天元様の結界内からは出るな、という夜蛾先生からの言いつけにより、暫しの間高専からの外出を禁じられることとなった。
 それから12時間が経つ。現在もまだ、伊地知くんを始めとする補助監督が総出で関係者への連絡を行っているが、未だ被害者は特定されていない。
「今日は、高専に泊まっていきな」
 そう言った五条くんから提示された今晩の寝床の選択肢は二つだった。
「僕の部屋か、地下室。どっちがいい?」

 それで地下室へと向かっていた。聴取室よりも深く暗い奥底へと歩いていく。暗闇に目が慣れてくると、床に塗られたモルタルがひび割れているのが見えた。ある程度の月日を経て出来ただろうひび割れに、五年通っていてもまだ知らない場所があったのかと、不思議な気持ちであった。学生だった頃の私は、隅々まで高専の中を散策しつくしたと思っていた。もうどこにも行き場がなくなった。そう思ってバスに乗り込んだ。しかしそれは私の勝手な諦めであって、行くあてがないなんてことは、無かったのだ。教室と寮が高専の全てに思えていた。五条くんやクラスメイトの不在は、高専から誰もいなくなったような気になった。補助監督も他の術師もきっと探しにいけば、どこかにいたのに。森の奥には天元様だっているはずなのだ。でも、どの人も、私はいないもののように扱っていた。自分には無関係の人間に思っていたのだ。
 五条くんの足が止まった。
「とりあえず、今日はここ使って」
 そう言いながら、五条くんは、たどり着いた部屋の電気をつける。天井にぶら下げられたいくつもの裸電球が一斉に灯った。
「普通に、部屋だね」
 私が部屋を見渡すと、
「女の子が一晩過ごすに快適と言えるかはわからないけどね」
 五条くんは言った。
 地下室の中には、ソファーとテレビ、それからローテーブルが設置されていた。五条くんはソファーに腰掛けると、硬さを確かめるように、座面を手で何度か押し込んでみせる。ソファーがギシギシと軋んだ音を立てた。
「どう、いけそう?」
 五条くんが聞いた。呼び寄せるように、ぽんぽんとソファーの空いた場所を叩く。
 私は五条くんの隣に腰掛け、同じように座面を何度か押し込んだ。硬すぎず柔らかすぎない感触であった。
「うん、ぜんぜん平気」
「本当に? 僕がここ使うから、君はベッド使ってくれてもいいんだよ」
 五条くんは不満そうに言った。
「平気だって。むしろ、このソファーじゃ五条くんが寝れないでしょう」
 2シーターのソファーは、私が足を曲げて横になれるサイズだ。横になるのが長身の五条くんとなれば、随分と窮屈だろう。
「一晩くらい、男なんてどうとでもなるよ」
 五条くんは言い、足をローテーブルの上に乗せた。
 女だって一晩くらいどうとでもなるよ。私はそう思ったけれど口にはしなかった。たぶん、そういうことではないのだ。

「寝ていいよ」
 五条くんは言うと、ソファーから腰を上げて入り口の方へと歩いて行った。消すよ、の声とともに部屋が暗闇に包まれた。まだ目は冴えていたが、はやく今日という日を終わらせたくて、私はソファーに横になり瞼を閉ざした。
 頭を預けた場所には、五条くんの温度が残っていた。ああ、五条くんがいてくれて、よかったな、と私はぬるい温度に今日のことを思い返しながら思った。思ってから、泣き出しそうになった。イラついて、叫んで、暴れ出したくもなった。
 本当のところ、私は呪詛師の話の大半を理解できていなかった。それでも、いったい今、自分が何に傷つき苛立っているのかさえ分からないくらいに、呪詛師の全てに憤りを感じていた。
(あああ、もう)
 苛立ちに、窒息しそうだった。視界を閉ざせば、その分だけ苦しくなるような気がして目を開けても、灯りを消された部屋は何も見えなくて、視界は何も変わってくれない。
「一ノ瀬が寝るまで、僕ここにいていい?」
 唐突に、まだ部屋に残っていたらしい五条くんが、声をかけてきた。
「気が散るなら、階段の上でもいいからさ」
 早口に言葉が続く。断らせるつもりがないときの話し方だった。
「どうかしたの?」
 身を起こして聞いた。まだ暗闇になれない目は五条くんがどこにいるのか、声の方向からでしかわからない。何もないよ。離れたところから声が聞こえる。何もないよ。何もあるわけない。
「何もないなら、そんなこと言わないでしょ」
 五条くん、どこ。私は声の方を向いて聞いた。
 見えないの。こっち来て。続けて言えば、しばらくの沈黙のうちに、ここだよ。と五条くんの声が間近でした。目を凝らせば、目線の高さに白髪のシルエットがぼんやりと浮かんで見える。
「本当に何もないからさ。寝てていいよ」
 肩を押されて、起こした身体を横にさせられた。胸からお腹を隠すように、洋服だろう布を一枚かけられる。
「おやすみ」
 シルエットをみるに、どうやら五条くんはソファーを背に床に座っているらしかった。五条くん。私が呼びかけても五条くんは振り向かなかい。ただ静かに黙って、座り込んでいる。少しずつ暗闇に慣れた目が、五条くんの姿を捉えだしていた。それでも、背を向けているから、どんな表情をしているのかは窺えない。
「僕が、一人にしたくないだけなんだ」
 黙っていた五条くんは、突然口を開いて、そう言った。
 うん、と私は頷いた。苛立ちに尖った気持ちが角を丸めていく。五条くんがソファーにもたれかかった。そのまま少しだけ頭をソファーの座面に預けてくる。私はぶつからないように気をつけながら、ほんの少しだけ、五条くんの頭に顔を近づけた。

「呪いってさ、負のエネルギーが蓄積されたもの、なんだよね」
 しばらくの沈黙のうちに、口を開いたのは私だった。
「うん」
 五条くんは答えた。そっけない答えは、続く私の疑問を待っているように思えた。私は少し悩んでから、慎重に口を開いた。
「五条くんが、産まれたから強くなったって、どういうこと」
「世界に流れる力の均衡が崩れたんだ」
「均衡?」
「そう。僕、最強だから」
 五条くんは、いつのまにか一人になってしまった主語のまま、口癖のように、慣れたそぶりで答えた。同じ口調で、強い術師が産まれたことで、呪霊も術師も、種が進化を遂げた後のように、力の強いものが以降続けて産まれるようになったと、五条くんは話した。
「そんなの変だよ」
 私は否定する。
「呪いの全盛期は平安時代なんでしょ。強い術師が生まれることでまわりも強くなるなら、衰退なんてしてないじゃない」
「一理あるね。でも六眼、無下限の抱き合わせが産まれたのは、僕で400年ぶりなんだ」
 五条くんはたんたんと言う。
「力の波はあると僕は思っている。その上で、僕のせいでどうのこうのなんてものを全部背負う気はないよ」
「……うん」
「それでも僕に全てを背負わせたいやつは腐るほどいる。僕は稀少で貴重だから。子供の頃は懸賞金かけらたりもしてたよ」
「何それ」
「可哀想?」
 五条くんは笑った。
「僕にはそれが普通だったよ」

「僕と君じゃ、価値観がそもそもちがう。それはもう今ここで話したくらいで埋められないことは、君の方が僕よりわかってるでしょ」
 そんなこと言わないで、と私は言いかけて口を噤んだ。目の前に五条くんの頸がみえる。襟足が少し伸びている。整っていない伸ばしかけの襟足を、私は横たわったまま眺めた。どうかこの人が幸せになれますように。私は祈っていた。五条くんの頸を眺めて、傑を追いかけなかった日の背中を、いつも一人だった中学生のときの背中を思い出しては、祈らずにいられなかった。
「五条くんにとっての幸せってなに?」
 私は寝そべったまま五条くんに聞いた。
「いっぱい食べて、いっぱいセックスして、いっぱい寝るかな」
 それは。続く言葉を無くして、私は黙った。五条くんらしいのか、らしくないのか。人間の三大欲求と言われているそれらを満たすことを、五条くんが幸せとしてあげたことに、胸中で何かひっかかりを覚えていた。少なくとも、五条くんは、ゆっくりと眠ることを好む性質では無かったのではないか。
 口を閉ざす私に代わり、五条くんが、昔はさ、と話はじめた。
「食事も睡眠も術式を使うためのエネルギー確保のための手段で、セックスは術式を継ぐ生き物をつくるための手段だと思ってたんだよね」
 五条くんが苦笑した。珍しいと私は思う。
「さて」
 五条くんが、声を明るくした。
「そんな僕の幸せが、どうして、人間の三大欲求を満喫することに至ったのか」
「どうして?」
「……君に出会ったからだよ」
 五条くんはソファーに預けた頭を離した。
「脳を回すためだけの糖分を美味いと思ったのは、中学三年のとき。学校帰りに食べたコンビニのあんまんが初めてだった」
 五条くんがわずかにうつむいた。
「微睡みの心地よさも、手を繋ぐだけで笑えるくらい嬉しくなることも、セックスに性欲よりも満たされるものがあることがあることも、君の隣に立つまで僕は何も知らなかったんだ」
 そう言って、五条くんはゆっくりと振り向いた。すっかり暗闇になれた目は五条くんの顔を捉えている。私は目元を隠すサングラスに手をかけた。抵抗なく外れたサングラスの奥で、柔らかく笑う五条くんと目があった。
「睡眠も食事もセックスも、そういうものを楽しむことができるのはすごく贅沢だと僕は思うよ」
 五条くんは続ける。
「僕は君といるときに、初めて生きてることを実感できるんだ」

「僕といる限り、呪いは一生ついてまわる」
 五条くんは言った。うん。私が頷くと五条くんが擦り寄るように頭を寄せてくる。
「術師を辞める気はないし、夢を捨てる気もない。そんな僕に君が望むような幸せをあげることはできなかった。だから、僕は君を手放した」
「五条くんは何も悪くないよ」
 別れ際の台詞を私は繰り返した。五条くんは悪くない。それは誰が何と言おうと、私の中では真実であった。
 一ノ瀬、と言いながら五条くんが腰に腕を伸ばしてくる。
 お願い。五条くんが囁く。お願いがあるんだ。
「一ノ瀬、一ノ瀬が幸せなら、その相手が僕じゃなくてもいいよ。よくないけど。嫌だけど、我慢する」
 五条くんはそう言うと、寄せた身体を離して、もう一度私と目を合わせた。
「だから、誰でもいいから、誰かに助けてもらう準備だけはしといて」
 五条くんは言い終えるとぐっと唇を噛み締めた。泣き出してしまうのではないかと思う、そんな表情だった。それは、傑に離反を唆したのかと私に問い詰めたあと、夜蛾先生に咎められたときにそっくりな顔だった。不安そうに、歪んだ顔。
「呪詛師はもう受肉体をつくったあとだ。そいつは、もう助からない」
 どうしても? 五条くんから目を逸らさずに、私は聞いた。
「たぶん、絶対に」
 どっちつかずの答えを、五条くんは確信をもって言った。
「でもそれに、君の罪は何もないから」
 でも、私たちの側の人だって。
「どんな理由や原因であれ、君に罪はない。これは君が起こした事件ではないし、君の爺ちゃんと婆ちゃんが起こした事件でもない」
 うん、と私は曖昧に頷いた。五条くんも、深く頷いた。
「あと一度、きっと君を悲しませる出来事が起きると思う。でもお願い。一人で乗り越えようとしないで」
 わかった。ちゃんと頼るよ。五条くんに助けてって言う。私も今度はしっかりと、頷いた。
 空調が効いているのか、部屋が冷えてきていた。真夏だと言うのに肌寒さすら感じる。窓のない地下室は、蝉の声も聞こえなくて、季節を忘れてしまいそうになる。
(ねえ、傑、今どこにいるの)
 声に出さずに責めてみても、頭の中の傑は振り返ってくれもしない。
「助けるよ、絶対」
 私は無言で頷いた。五条くんは真面目な顔をして私を真っ直ぐに見つめている。
 きっと、この事件が終わりを迎えるとき、私と五条くんの恋は本当に終わりを迎えるのだろう。
 それで、長い年月をかけて思い出に昇華されていくのだ。
 学生服の若者を見て、あんな日もあったなと、いつか懐かしむ日が来るのだろう。
 あの頃、私の隣にはいつも神様がいてくれた。
でもそれは都合の良い勘違いだった。私が恋をしたのは、人間の男の子だったのだ。私が恋をしたのは、寂しがり屋の男の子だったのだ。
 そんなことを思い返しながら、記憶の中の男の子を胸に顰めて、私はきっと空を見上げたりするのだろう。そこには白く高い雲があったり、暗く重い雲があったりする。
 どうか彼が寂しい思いをしていませんように。
 そう願いながら、バイオリンを弾いたりもするかもしれない。
「好き」
 溢れそうになる言葉を、私も五条くんも、口にはしなかった。口をついて出てしまいそうになるのを懸命に堪えていた。今もどこかで苦しんでいる私たちの隣人を思えば、そんなことを口走ることはとても出来なかった。
 五条くんの腕に引き寄せられて、私はまた、五条くんの腕の中におさまった。
 五条くんの呼吸の音が微かに聞こえてくる。それに合わせるように、私は意識的に息を吸ったり吐いたりした。暗闇の中で、私は、自分がいま息をしていることを二年ぶりに実感していた。



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