神様の隣人 _ | ナノ

8

 五条くんと別れて、硝子と一緒に高専を出た。
「おにぎり二個も食べといて、ご飯いけるの」
 と、硝子が笑った。
「だって、硝子は昼から飲むでしょ」
 そして硝子は、酒を愉しむ程度にしか食べ物をつままない。だから私はおにぎりを食べてきたのである。と、私はもっともぶった口ぶりで説いた。
「とか言って、灯、夜に飲んでもお茶漬けとか食べるじゃん」
 呆れたように硝子が笑う。硝子とのご飯はさ、個人プレーできるからいいよね。私が言うと、
「個人プレー」
 と硝子は愉快そうに繰り返した。

 硝子の行きつけだと言う居酒屋に入った。いつも硝子に連れていってもらう店とは、違う店だった。梅酒の水割りを頼んで、ちびちびと口つける。昼から飲むって贅沢だよな。硝子はひと息にビールをあけて、言った。何度見ても飲みっぷりの良い人である。それでいて、ぷはあ! とコマーシャルのような豪快さを硝子は出さない。水でも飲むかのように、静かに酒を飲むのだ。そして不思議とその様はどこか色気を放っている。
「よかったの? 私を選んで」
 成人を超えた今も、硝子とお酒を飲むとき私はなんだかいけないことをしているような気持ちになる。
 いけないこと。それは例えば、五条くんと初めてキスをした翌日、両親と顔を合わせたときや、初めてのセックスのあとに、傑と廊下で会ったときの気まづさと、よく似ていた。
 このまま食べられちゃうんじゃないか、そして、それを拒まめないのではないか。お酒で唇を濡らした硝子はそんな艶やかさを纏っている。
 一方の私は、たぶん、そういう女としての色気というものを、あまり持ち合わせていない。微笑みひとつで吸い込まれるような美貌も、転がされしまいたくなるような手管も、ない。
「いいもなにも、硝子とご飯行くために、私は来たんだけど」
「もっと上手く使ってくれてもいいのに」
 硝子は唇のはしを持ち上げる。
「何が言いたいの」
 私が首を傾げると、硝子は笑った。
「もう少し狡くても罰は当たんないよ」
 背を丸めて、覗くように私を上目遣いに覗いてくる。
「どうせ私は、手練も手管もないですよ」
 私はまた、ちびちびとグラスに口をつけた。
「そうすぐ拗ねるなよ。かまいたくなる」
 硝子の細い指先が頬にふれる。食べちゃうよ。と囁きながら、硝子はいつのまにか頬に流れていた私の髪を人差し指ですくい、耳元へと戻した。耳殻にあたった指先に私が咄嗟に肩をすくめれば、ああ、ごめんね。と艶やかな声がして耳に熱がかっと集まる。
「耳、苦手?」
「ち、違う。そういうんじゃないけど」
「けどドキドキしちゃったんだ」
「悪酔い」
「心外だな。これしきで私が酔うと?」
 すっと、硝子が顔を近づけてくる。咄嗟に私が身を後ろに引けば、
「いいね。狼狽える灯は好きだよ。せっかく昼からのめる酒だ、美味く飲もう」
 と硝子はクツクツと笑った。かと思えば、あっさりと私に寄せた身をひいて、今度は店の主人と旬の魚の話をし始める。
 魔性の女だ。簡単に翻弄される自分に、苦い気持ちになる。だかしかし、不思議なことに、どれだけ転がされようと、私は硝子の気質が嫌いじゃなく、むしろ好感を抱いていた。
「ねぇ硝子、だし巻きたまご、頼んでもいい?」
 店の人と盛り上がる硝子に、小さく、耳打ちをする。
 私たちは、居酒屋のカウンター席に二人並んで座っていた。硝子の行きつけに二人でいくときは、だいたいカウンターに通さられるのだ。どの店のおじさま達も、だいたい硝子に入れ込んでいて、店主は硝子とお喋りがしたくて仕方ないのである。硝子は、ん? と身を寄せながら私の持つメニューを覗きこんだ。これ、と私はメニューを指さす。硝子が、いいけど、甘いの食べたければ、お寿司の玉子を切ってもらえるよ。と教えてくれた。

「どーぞ」
 店の人が、厚焼き玉子を切って出してくれた。
「お姉さん唐揚げと、それから、メロンソーダもあるからね」
 店の人はカラカラと笑いながら言う。
 メロンソーダ。私はおうむ返しに呟く。
 なぜ唐突に、そんなものを勧められたのか、わからなかった。
(もしかして、すっごい、子供扱いされてる? 私)
 そう思えば、甘い玉子焼きをねだったことが、急に恥ずかしく思えて、私は身を縮こませた。壁に並ぶ日本酒の瓶、旬の魚の話、空いたジョッキグラス。まさに大人の大衆酒場といった場所で、メロンソーダを勧められる成人女性。それはなんだか、とても惨めなのではないか。
「大丈夫です」
 私は言って、梅酒のグラスに口をつけた。硝子は悠然と冷酒を飲んでいる。いかにも大人の女がそこにいる。
「玉子と唐揚げに、メロンソーダは、ここでいつも、五条が頼むんだ」
 おかわり、と酒を頼みながら、さりげなく硝子が言った。
「似たような味覚のやつを連れていくから、食べれそうなもの見繕っといて欲しいって、主人に前に伝えておいたんだよ」
 硝子は流し目に私を見た。
「次に拗ねたら、五条に言えないこと、しようか」
 ぶんぶんと私は首を大袈裟に横にふった。残念。魔性の女が言っている。ため息をつき、私はグラスを置いた。氷がカランと音をたてる。その氷は、薄く、透明に溶けつつあった。

「相変わらずかっこいい、というか、セクシーね、硝子さん」
 梢が言った。
 アイスティーを持つ手首には、いつもの華奢なブレスレットがついている。
「同期が二人なんて聞くと少なく感じるけれど、五条くんと硝子さんなら、二人で40人分くらい濃縮されてそう」
 本当はもう一人、一人で20人分くらい賄えそうなのがいるんだけどね。なんてことは言えるわけもなく、私は豆乳ラテを流し込んだ。
 五条くんが倒れてからはや一週間。どこからか蝉が鳴き始め、ジリジリと焦がしつけるような強い日差しがアスファルトを照りつけている。
「一度会ってみたいわ」
 梢が呟いた。どこか思い馳せるような口ぶりである。
「きっと素敵な人なんでしょうね」
 ふふふ、と梢は微笑む。その笑い方もまた大人の女のそれだと私は思った。梢のもつそれは、硝子の蠱惑的な妖艶さとはまた違う、可憐な響きをしているように感じる。
「あ、ねぇ。そういえば、セクシーと、キュートどっちが好きなの? ってあるじゃない。あれって、分別できないものだと思わない?」
 梢が聞いてくる。
「そう? 硝子なんてセクシー振り切ってると思うけど」
 私は首を捻る。
「その振り切ったときに初めてうまれるのが、もう一方の魅力だと思うの」
 梢が、前のめりに言った。
「セクシーな人が、たまに可愛くなるから、キュートって良いものでしょう」

 なるほど。と、えー。が合わさった、どっちつかずの感情に、私は悩まされている。
「言いたいことは、なんとなくわかるけど」
 私は、うーん、と深く唸る。
「セクシーとキュートが対極なものだとして、その真ん中にいる人って、どっちも。じゃなくて、どっちつかず。じゃない」
 梢は左右の人差し指を立てて、説明をはじめる。
 数直線上で、プラスとマイナスに振り切れるとき、真ん中はゼロになる。つまり、振り切れない人間は、セクシーでもキュートでもどっちでもない、というのが梢の論らしい。
「でも、世の中には、どちらの面をもつ人がいるのよ」
 はあ、と、梢はため息をついた。不平等を嘆くような憤りを含んだ息が吐き出される。
 梢はもう一度、アイスティーを含み、唇を濡らすと、
「想像してみて、たまに可愛くなる、家入硝子さん」
 と、重たい口調で言って、
「振り切れた人間だけが、どちらの魅力も持つことが許されるのよ。そう言う人が、男でも女でも、なんでも、魅力的でモテるのよね、きっと」
 たまに可愛くなる硝子。という存在が上手く浮かばない中で、私は、梢には言えないもう一人の同級生の姿が自然と浮かんでいた。
「なんとなくわかるかも」
 傑はどちらに振り切れていた、というわけでは無かったようにも思うけれど、どちらに振り切れることも出来そうな人だと思った。
「結局、振り切るというか、自分のキャラクターを確立した人間ってのは強いのよね。ただでさえ魅力があるのに、違う一面を見せれば、それがギャップとして映えるんだもの」
 梢が述べる。
(振り切る、ねぇ)
 頭の中で、私はしみじみと思う。そして、
(硝子がセクシーなら、キュートは誰だろう)
と、思い浮かべてみたくなる。

 梢。
 歌姫先輩。
 冥さん……は、セクシーだから、違う。
 一人一人、頭の中に並べてみる。みな何となくどちらかに分けられるものの、梢のいう、振り切ってた人。となると、たしかに早々見つからないものであった。
 キュートに振り切っている人。
 ハツラツとしていて、可愛らしく、柔らかな空気の女の子。
 少女性の強い女の子が、私の中での、キュートのイメージだ。
 唐突に一人の女の姿が頭に浮かんだ。
「ミキさん」
 五条くんと再会した日に、彼の腕をとった女性は、まさにそのイメージにぴったりであった。

「え?」
 梢が首を傾げた。だれ? と目が訊ねてくる。
 少し悩んで、私は、
「梢と飲んだ時に、五条くんといた人」
 と、素直に打ち明けた。
「ああ、あの人」
 梢は、すぐには思い浮かばなかったようで、少し間をあけてから言った。
「あの二人ってお付き合いしてるの」
 率直に梢が聞いた。
「えっ、や、知らない」
 私は口ごもる。
 そんなこと聞けるわけがなかった。
「でも。灯ちゃんは五条くんが、まだ好きでしょう?」
 五条くんが今も好き。当たり前のように梢は言ったが、その気持ちを、口に出したことは硝子の前でも、梢の前でも実の所、私は一度も無い。
「それで、五条くんも灯ちゃんが、まだ好きなのよね、きっと」
 ましてや、五条くんの部屋でのあらましなど、誰にも話したりなんてしてないなかった。
「どうしてわかるの?」
 否定するべきだったのかもしれないが、つい馬鹿正直に訊ねると、梢は
「なんとなく」
 と、困ったように笑った。

「五条くんと会った日、なんだかこのまま、灯ちゃんに会えなくなっちゃうような気がしたの」
 梢が言い出す。
「そんなこと」
「わかってる。でも。すごくね、遠いところに離れていっちゃうような気になったの」
「遠いところ」
 私は梢の言葉を繰り返す。五条くんの世界。昔、私自身がそう呼んだ場所のことを思っていた。
「私、前に、彼氏が欲しいとは思わないって言ったでしょう」
 梢は静かに言った。
 恋人になりたいと、思う人はいない。だけど、好きな人がいるの。職場に出会いは無かったけれど、学園にはあったわ。
「私は、そこで全部、持ちうる運を使い果たしたのね。きっと」
 ストローでグラスの中を混ぜながら、梢は、うっとりとため息をつく。
「私、本当に、大好きだったのよ」
 運命の出会いは二つあったという。
「私の好きな人は、私の好きな人のことが好きだったの」
 気づいたときは、二人の人に同時に失恋した気持ちだったわ。
 梢は、続けた。だけど二人の恋は叶うって、私すぐにわかったの。だってね。
「だって私、灯ちゃんが初めて五条くんを見つけたときも、五条くんが灯ちゃんに恋した瞬間も、どっちも側で見てきたんだもの」
(梢の好きは、どういう、好きなの?)
 梢の話を聞き終えて、私は、正直なところ困惑していた。
 好きな人。そう告げた梢の眼差しは、友達と呼ぶにはあまりにも色めいた熱がこもっているように見えてならなかったからである。
(五条くんは、梢の憧れ)
(なら、私は?)
 五条くんと私への想いが同じ形だとは思わなかった。
(私が五条くんに思うものと、同じなのかな)
 次にそう思ったけれど、そうじゃないとも思った。
 恋。友情。憧憬。そのどれもがそうで、そのどれも違うのだ。
 きっと梢の好きの中には、その全部まじっていて、たぶん他の、もしかしたら嫌いとか、そう言う感情もごちゃ混ぜに存在している。
 好きというのはそう言うものだ。
 簡単に一言でまとめられるほど、簡潔な感情なんかじゃない。
 それは私が一番よく、知っている。
 そしてそんな私に、名もなき感情を持っていてもよいと、泣きそうに笑って教えてくれた人は梢だったではないか。ならば、私が梢に返せる答えなど決まっている。
「私も梢が好きだよ」
「……ありがとう」
「私の幸運も、全部、あの学園で使い切ったんだと思う」
 梢は何も言わずに、首を横にふった。
「私、どうしても好きになれないものがあるの。今も。」
 ミンミンと、蝉が鳴きだす。梢のアイスティーのグラスは汗をかいていて、こぼれた水滴が、紙のコースターに吸い込まれいく。
「梢だけは、いつも変わらず、特別のままいてくれる」
 梢と、目があった。深い茶色の瞳が揺れている。
「ずっと、特別だよ」
 私は自分に出来る一番誠実な声で言った。隣の席に座る若い男女が、ちらりと、こちらを好機の目で見た気配がしたけれど、気になどしなかった。
「べつに、ずっと、じゃなくたって、もう十分だよ」
「でも、ずっと、だよ」
 ふふっ、と、梢は力の抜けたように笑った。
「そうね。おばあちゃんになっても、私達、親友だものね」
 親友。
 その言葉を、梢と私が使うのは、初めてのことだった。
「うん、親友」
 私は答える。梢は照れ臭そうに笑いながら、誤魔化すように、アイスティーに口をつけた。大して減っていかない梢のグラスに気づかないふりをして、私も豆乳ラテに口をつける。
 ほんのりとした苦味が、今は不思議と心地よい。美味しいね。梢が言い、そうだね。と私は答えて、また来ようよ、と梢を誘う。騒がしい蝉の声が、私達を世界から切り離してくれる。
 次はどこに行こうか。
 デパートのアフタヌーンティーとか。
 いいね、スイーツビュッフェも行きたい。
 五条くんも、誘う?
 えー、なんで。
 一緒に食べようって、約束、結局叶ってないから。
 でも、五条くんいると、うるさいよ。
 いいじゃない、賑やかで。
 誘うだけ誘おうか。
 問い詰めてやりましょうよ、ミキさんのこと。
 それはちょっと、私が、スイーツどころじゃなくなるから、やめて。
 向かい合いながら、私たちは、クスクスと笑いあう。中学生の放課後に戻ったような気持ちだった。廊下の隅で、なんてことない話をヒソヒソと二人の秘密にしたあの日々。愛おしい梢との時間が、今も変わらずにあることに、私は胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
 アフタヌーンティーは私が誘うから、それまで、待っててくれる。梢が聞いた。勿論。私ははっきりと答えた。変わらない親愛と、応えられない恋情が、ラテの中のミルクとコーヒーみたいに、ぐるぐると溶けあっている。
私は一息に、残りのラテを飲みこんだ。
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