硝子が、冷静に聞いた。
「何って、いいなー、とかそういう感情。いくら硝子だって、わからないわけじゃないだろ?」
「つまり、憧憬、もしくは、それに近い感情が灯に対して宇奈月にあったって言いたいわけ? 灯と宇奈月じゃ、それこそ祖父と孫ほどの年齢差があるんだよ」
「呪霊になってまで取り込まれたいなんていう変態だよ。どんな理由があったって、驚くことじゃないだろ」
「だからって、無理矢理過ぎないか、その理由」
ため息混じりに硝子は首を振った。
「じゃあさ、殺してやりたいくらいの感情ってどんな時に浮かぶと思う?」
五条くんが聞いてくる。
「ムカついたとき」
さらりと硝子が答える。
「怒ったときなのかなあ、結局」
と、続いたのは私。
「僕はさ、自分の理想と反した時だと思うんだよね。それが怒りにつながる。それが嫌悪や嫉妬なのか、それとも恋愛だったのか、感情の発端はそこまで問題じゃない」
とは五条くんだ。
「あ、べつに僕が一ノ瀬殺したかったとか、そう言うんじゃなくてね」
五条くんが続けた。冗談なのか、本気なのかわからなくて、私は苦笑いすら浮かべられずに頬を強張らせる。
「そうなれなかった自分への怒りなのか、そうあってくれなかった相手への怒りなのか。どちらにしても、そう言う感情を、自身でコントロール出来なくなって、相手に向けた結果に過ぎない」
硝子が、僅かに首を傾げている。
「それか仕事」
吐き捨てるように五条くんが言う。
「それが一番しっくりくるのも、嫌な話だな」
硝子がようやく首を縦に振ったが、今度は私が、
「仕事?」
と、一人首を傾げた。
五条くんと硝子が目を合わせる。それから、
「あー、今の無し」
と、二人して気怠げに声を合わせた。
(いやいやいやいや)
あまりに雑な誤魔化し方に、私は素早く二人の様子を窺った。
(そんな、普通の顔してなんなの?)
高専で過ごした5年余りの時間を思い出す。呪術師というものは、呪詛師というものは何か、私は時間をかけて学んできた。明るい世界でないことは理解している。けれども、我々呪術師の戦う対象はあくまで呪霊であり、人助けであり。
呪詛師の、ましてや殺しなどの任務はそうそうない話である。
少なくとも傑は私にそう教えた。当の本人が処刑対象になっている、というのは、皮肉な話ではあるけれど。
「まあ、一ノ瀬に情報の共有はしたことだし、今日はこの辺にしておこうか」
という五条くんの提案に、硝子が頷いた。
「今の時点じゃ予測しかできないからね、兎にも角にも、呪詛師の確保をしてもらわないと話になんないよ」
硝子が五条くんに向けてチクチクと言う。
学長に言ってよ。呟きながら五条くんは自分で自分の肩を揉んだ。調査は本来、補助監督の仕事でしょう。などとぼやいている。
やがて、五条くんは椅子から立ち上がると、
「帰ろ、送るよ」
と、私にむかって言うので
「忙しいでしょ、私、まだ電車あるし平気だよ」
と、遠慮したが、五条くんは
「平気。そのかわり飯付き合って」
と言うなり、まっ平なお腹を撫でたのであった。
「ファミレス久しぶり」
弾む声で、五条くんが言った。
平日21時のファミリーレストランは、思ったよりも人がいた。大半は仕事終わりだろう会社員とおぼしき人々で、残りは、学生であったり、見た目からは職業不詳な人であったりした。
入り口から程遠い、四人がけの席に通される。
間違いなく、この店内で一番見た目から生活が見えてこない人間であろう五条くんは、ぐったりとソファーの背にもたれかかった。投げ出されているのだろう脚がテーブルの下で僅かにぶつかる。相変わらず脚の長い人だ。
席につけばすかさず店員が水とおしぼりを持ってやってきた。注文が決まればベルを鳴らせという、決まりめいた言葉を言い終える前に、五条くんが口を開く。
「一ノ瀬決めた?」
メニューも見る前に五条くんが言う。
「え」
「まだ?」
「あ、じゃあオムライス」
私は慌てて、咄嗟に浮かんだものを口にした。
「よ、子ども舌。毎度オムライスってよく飽きないね。僕、チーズハンバーグとコンスープセット〜! あ、チョコレートパフェも食べよ。一ノ瀬はいる?」
よく喋るな。
テーブルに貼り付けられたデザートメニューに夢中になりながら五条くんが言った。
「大丈夫」
私は笑って首を横に振る。そう? と五条くんと笑い声に言った。
それから店員が別のテーブルに移るのを見送ったあとに、五条くんがさきほどの台詞を口にしたのであった。
「料亭とファミレスってちがう?」
五条くんの言葉に、行きの車中での話を思い出した私は、お坊ちゃん兼高級取りの五条くんのことだから、どうせ『いいところ』で食事をとっているのだろうと予想した。
べつにそこに僻みはない。
ただの興味、それだけである。
私も一度くらい食べてみたいなとは思うが、自分が週に何度も食べたくなるような味がそこにあるとも思えないのだ。
私が知らないだけで、もしかしたらあるのかもしれないけれど、知らないのだから問題はない。
問題が起きるとすれば、知ったあとに手に入らないことのほうがよっぽど辛いはずである、と私は思う。
手に入れられないものへの憧れより、一度手にしたものを失うほうがよっぽと辛い。
「ここのところの僕の食事といえば、コンビニ、ファーストフード頼りだよ」
五条くんは私の質問に対して、そんな風に答えた。
「休めてないの?」
「まあね、でもいつものことだよ」
不満を漏らすような口ぶりではなかった。眉間に皺が寄るでも、口を尖らせるわけでもない。かといって戯けるわけでもなく、さっぱりと五条くんは口にした。
そのことに、私は安心する。
何の裏もない世間話に違いない。
ということは、五条くんは本当に忙しくて、そんしてそんな彼の代わりに台所に立って料理を振る舞う女の子なんかはいないのだろう、という恋愛的な邪推による安心感、ではなくて、疲れきった彼が心まで疲弊しきってしまい、傑のあとを追うようなことがない、ということにである。
嘘。
本当は恋愛的なところもあるけれど。2対8。それくらいの割合で、五条くんの心の安定に、素直にほっとしている。
「はああ」
大きなため息だった。
「くそっ」
ついで出た悪態。
そのどちらとも、出したのは五条くんでも私でもない、通路を挟んで隣のテーブルに一人で座る男だった。男は20歳は年上だろう見た目をしていて、灰色のよれたスーツに紺色のネクタイを合わせていた。
「何ででねぇんだよ」
男はイライラとした声を出しながら、スマートフォンを耳に当てていた。
「一ノ瀬は?」
五条くんの声にはっとして、視線を男から向かいに座る五条くんへと移す。
「え、あー、ファミレス? あんまり来ないかな」
「硝子とはたまに会ってたんでしょ」
「うん、だいたい硝子の行きつけか、その辺のカフェとか」
へぇ。五条くんはまたさっぱりと答える。興味があるのかないのか微妙な声色であった。
店内に店員を呼ぶチャイムの音が鳴り響く。しばらくして店員がオムライスを運んできた。デミグラスソースの香りか湯気にのって漂ってくる。
五条くんが、カトラリーの入ったケースを差し出してくれた。
「お先にどーぞ」
「揃うの待つよ」
言いながら私はケースからスプーンを一つ取る。
「すぐ来るよ。あったかいうちに食べな」
「そう? ならお言葉に甘えて先にいただこうかな」
私はスプーンを持ち直し、小さくいただきますと呟いた。五条くんがそれに頷く。店内にまた、ピンポンと店員を呼ぶチャイムが鳴った。
「俺のまだなんだけど、こっちの方が先だったよね?」
チャイムを押したのは、隣のテーブルの男だったらしい。店員がやってくるなり、私を顎でさした男は店内のざわめきに負けんとばかりに大きな声で不平を口にした。すかさず店員は男に頭を下げ、謝罪を述べる。それでも男は腹の虫が治らないのか、
「いい加減な仕事してんじゃねえよ」
などと店員に向けて怒鳴り声をあげはじめる。
最悪。
私は男の態度に眉を顰めた。食欲が途端に萎えていくのを感じて、目の前の五条くんを見れば、五条くんは薄く笑って、
「もうくるよ」
と、耳打ちするような小さな声で私に告げた。
え、と、思えば、すぐに私からみて後方から別の店員が料理をワゴンに乗せて運んできた。おまたせ致しました。と男のテーブルに料理が並べられていく。僅か一分二分の差で喚き散らした男が、どんな顔をするのかと覗き見れば、男は未だ難しい顔をしていた。
店員が去るよりも前に、わざとらしくガチャガチャと音を立てて男はカトラリーケースの中で手を遊ばせた。
伝票をテーブルに置いた店員は、そのまま、私たちのテーブルにチーズハンバーグとコーンスープのセット、それからチョコレートパフェを並べた。鉄板の上で焦げたソースの匂いに、口の中に涎が湧いてくる。
「美味しそう」
楽しそうに五条くんが言う。つられて私の口角も緩んだ。チッとまた男が舌打ちをうつ。不愉快にも男に再び意識を奪われれば、くちゃくちゃと食べる音が聞こえた。
うわあ。
内心で呟いて、男を素早くぬすみ見た。男は相変わらず難しい顔である。
(まずそうに食べる人だな)
それに比べて、と、私は対面する五条くんを今度は上目遣いにぬすみ見た。薄く微笑みを携えながら、五条くんはナイフとフォークを使って器用にハンバーグにソースを絡め、溢れたチーズを掬っている。フォークに刺したハンバーグを持ち上げると、豪快に口を開いて、ハンバーグを口に放り込んだ。向かって左の頬が膨らむ。しばらく味わうように口を動かし、やがて、ごくんと喉仏を上下させると、長い舌を伸ばして口についたソースをぺろりと五条くんは舐めた。それから五条くんは、満足そうにまた薄く微笑みを浮かべ、次の一口にすすみはじめる。
(楽しそうに食べるよな、この人は)
美味しそうでも、お上品でもなく、楽しそう。五条くんの食事の作法について、ぴったりくるのはこの表現だと私は思っている。お上品と言うには豪快で、美味しそうというには彼は偏食であった。
五条くんなら、仮に本当にまずいものがでたとしても、それはそれで面白おかしく笑ってくれるんだろうな。
(いいよね、そういう人)(そういうところも好きだったな)
「ハンバーグ食べる」
湧き上がりそうになる淡い気持ちを、私がオムライスとともに飲み混んでいると、五条くんに聞かれた。
「あれ違う? 欲しいのかと思った」
クツクツと五条くんが笑う。私は慌てて首を小さく横に振った。
「ごめん」
「物欲しそうな顔してたよ」
「私、そんな」
「べつにいいのに」
「本当に違うんだってば」
「じゃあ僕がもらおっ」
すっと長い手が伸ばされ、五条くんのフォークが私のオムライスを掬った。
「あ!」
「おーいしーい」
五条くんがおちゃらけた調子で言うので、私は、もう、と口を窄めた。
「泥棒って言わないの?」
ニヤリと五条くんが笑う。取り返してもいいんだよ。五条くんが続ける。それは付き合っていた頃のお決まりの戯れ言だった。だいたいは、私がそこでムキになってもならなくても、最後は五条くんのペースにのまれて、抱き合ったりキスをしたりする流れになる。もちろん、そういった恋人同士の甘い時間になることを、私もわかっていなかったわけでないけれど。
でもそれも、もう昔のことだ。
揶揄ってくる五条くんを無視して私は、残りのオムライスを消費することに集中した。
「つれないなぁ」
などと五条くんが言ってもきても、私は決してムキになることはない。
(欲しくなんかない)
オムライスを口に運びながら、私は胸中で繰り返す。昔の可愛い一ノ瀬はどこ行っちゃったの? 五条くんが言っている。私はそれをフンとまた、無視をする。
しばし、沈黙が包んだ。隣の男の荒っぽい食事音が聞こえる。
「ねえ一ノ瀬。僕、まだ君に話していないことがある」
ゆっくりと五条くんが、神妙な顔で口を開いた。
「こないだ、伊地知が犬のフン踏んだんだよね」
「それご飯食べながら言う話?」
「笑ってんじゃん」
「笑わないよ、つまんない」
嘘である。
予想にしていなかった、くだらない話に、つい口角が緩んだ。
「車の中、めちゃくちゃ臭くて」
「まだ続くの?」
それからさ。五条くんは神妙な面持ちのまま話続ける。
「夜蛾せんせー、学長になったとたんグラサンつけ始めてさ」
「いいじゃんべつに」
「いや、似合ってればいいけど。ていうか似合ってないわけじゃないんだけど、もう見た目がさ、レスラー」
「んふふ、なにそれ」
「新入生びっくりしちゃうわけよ」
新入生、のあたりで、五条くんの神妙さも崩れて笑い声混じりになっていく。
「あとこないだ、久しぶりに昼間電車乗ったらさ、バスケの試合あったみたいで高校生いっぱいいて」
「うふふふふ。もう想像つくんだけと」
「あいつどこの学校ってめちゃくちゃ噂された」
「22歳なのに」
「もうね、でけぇ、でけぇと熱視線がすごいわけ」
「すごいね。逸材じゃん」
「そうなの。僕、ゴール下にいたらヤバいらしいよ」
「あははっ」
大した話じゃないのに、私はなんだか可笑しくて笑ってしまう。
さっきまでの神妙さが、きっと笑いの沸点を下げているんだな。
(ずるいなあ)
お皿の上には、オムライスが一口だけ残っている。五条くんがチョコレートパフェに取り掛かる。私もデザート頼もうかな。満杯なお腹で私は思う。
テーブルに貼られたスイーツメニューのほとんどに、マンゴーがのっていた。もうすぐ、本格的に夏が訪れようとしている。