神様の隣人 _ | ナノ

1

 梢とお酒を飲む日がくるなんて、思わなかった。
「そうね、私たち、はじめて会ったときは中学生だったものね」
 梢は微笑んでくるくるとグラスの中でワインを回した。キラキラと華奢なブレスレットが間接照明の光を反射している。
 あれからまた、二年の歳月が過ぎていた。忙しない二年間だった。
 私は高専を卒業した後、音楽系の短期大学に進学した。二年間学生生活が延長されると思えば、一年を待たずに就職活動が始まった。高専とは違う忙しさに追われながら、縁あって、楽器メーカーが経営する音楽教室の講師に採用された。この春から働き始めて、もうすぐ三ヶ月が経つ。
「職場に出会いはあった?」
 私は首を横に振る。この二年、新しい恋人は出来ていない。
「梢は?」
 訊ねれば、梢もまた私と同じようなリアクションをとった。それから大きなため息をつく。
「そもそも私、彼氏、欲しいとか無いのよね」
 あの学園の大学を卒業した梢も、私同様にこの春から新社会人となった。就職先は大手証券会社で世間からみればエリート街道を進んでいる梢であるが、恋愛の方はからっきしのようであった。そしてそのことを、梢は両親によく思われていないらしい。
「はやく家を継ぐに相応しい男と結婚して、女は妻として家庭を支えるべき、って本気で思ってるのよ、あの人たちは」
 疲れたように話す梢には、妹が一人いる。
「色々過ぎることもあるわ。でもね、べつに私はあの子に家を押しつけたいわけでも、親の期待を裏切りたいわけでもないの。ただ、そのためだけに誰かと恋人になるのが憚れるってだけで」
 というのが、両親の前時代的な考えに対する梢の言い分であった。
 ふと、ならば梢はどんな人となら恋人になるのだろうかと疑問に思った。
 そういえば、長く友人関係を築いているが、私は梢から「恋人」の話を聞いたことが無かった。思い返せば、恋人はおろか、恋愛感情を誰かに抱いている、というような話すら聞いたこともないかもしれない。
(もしかして、内緒にされてたのかな)
 気がつくと、ちょっとだけ寂しくなる。
 友達だからと、何でもかんでも打ち明ける必要はないとは、わかっているけれど。
「梢は、どんな人となら、付き合いたいの」
 梢はグラスに口をつけ、ゆっくりとワインを飲んでいる。
 うーん、と梢は答えるそぶりを見せたけれど、またワイングラスに口をつけた。私も梢を真似てグラスを持ち、サングリアで喉を潤した。
「友達が良いな」
 静かにワインを飲んでいた梢は、唐突にそう言った。
 友達? 私は聞き返した。
「うん。恋は、続けるには、苦し過ぎるから」
 苦しい。私は梢の言葉を繰り返した。梢は何も言わずにグラスを置くと、テーブルの上に並べられたフォークをとり白身魚のマリネに手を伸ばした。
 梢の言葉に、私は一瞬、過去に引きずられてしまいそうになる。
 苦し過ぎるほどの恋。
 そういう恋の乗り越え方を、私はまだ見つけられずに過ごしていた。私から願った別れだというのにだ。
「ねぇ、もしもこのまま私がずっと独り身だったとして、おばさんになっても、灯ちゃんたまにこうして遊んでくれる?」
 梢が困ったように笑いながら言った。
「うん、勿論。梢も私と遊んでね」
「勿論」
「よかった」
 私は残りのサングリアを一口に飲み干して、答えた。ふんわりとワインの香りが鼻にぬける。一気に飲んだから、頬がかっと熱くなった。

「おばあちゃんになっても、二人とも一人だったら、一緒に住もうか」
 酔い任せにそんなことを口にしたのは私だ。
 え? と聞き返す梢に、私は口元を緩める。
「同じ部屋じゃなくていいの。小さなマンションなんか買って、それぞれの部屋を持つの。たまにお互い部屋に招いて、ご飯を一緒に食べて、なんてことない話をして、夜にはそれぞれの部屋に戻って」
 つらつらと私が語ると、梢はくすりと笑いながら、
「楽しそう、寮みたいね」
 と答えた。
 そう、寮みたいなの。そう返しながら、私は傑も灰原くんもいた、一番賑やかだった頃の寮での生活を思い返していた。
(あの頃はもう戻ってはこないけれど)
「梢がいるなら、寂しくないね」
 私がそう言うと、梢は何も言わずに、もう一度ワイングラスに口をつけた。

 ふわふわとした足取りで店を出れば、十一時を過ぎていた。頬を赤くする私の隣で、梢はさっぱりとした表情をしている。
「お水買ってくるよ」
 梢は信号を一つ挟んだところにあるコンビニに目を向けながら、言った。大丈夫だよ、と私は言ったが首を横に振られる。
「すぐだから、ここにいて」
 梢がぽんぽんと私の頭を撫でる。
「ごめんね、ありがとう」
「どういたしまして。ちょっと待っててね」
 うん、と頷くと梢はもう一度笑って、小走りにコンビニへと向かった。
 甘やかされてるな。小さく私は呟く。
 私の周りに集まる人は、どうにもみんな、世話焼きの質があるらしい。硝子元気かな。久しく会っていない、もう一人の女友達を思い浮かべながら、私は道の端に寄ろうと足を後ろに一歩下げた。
「わ、あぶない」
 声と同時に、突然背を押された。振り返ると知らない女性が眉を上げて立っていた。派手な女性だった。金にちかい茶髪に、人工のものだろう濃く長い睫毛が目の周りを縁取っている。唇を染める赤は、私には縁のない色だと思った。
「あ、すいません」
 すぐに謝ったが、女性はさらに私をぐいぐいと押してくる。何なのこの人。戸惑いに眉を寄せれば、女性は、
「そこゲロあるよー、ちゃんと下もみないと、靴汚れちゃうよ」
 と、明るい声で言った。
 え! と私が慌てて下をみると、確かに誰かの吐瀉物がつい先程私が立っていた場所のすぐそばにあった。
「大丈夫、踏んで無かったよ。セーフセーフ」
 ケラケラと女性が笑う。
「あ、あの、すいません。ありがとうございました」
「いいよー、ミキさ、こないだ踏んじゃって。あれマジ落ち込んだから、お姉さんが同じ思いしなくてよかった」
 ミキ、と自分のことを呼んだ女性はそう言うと、
「ていうかお姉さん一人? この辺、ナンパとかキャッチ多いから、はやく帰った方がいいよ」
 と、笑みを顰め、真面目な表情で私に注意を促した。
「友達と来てて」
「友達?」
「今コンビニに」
「なら、戻ってくるまで、ミキ一緒にいてあげようか」
 さらりと、ミキは言った。え、と私は目を見開く。びっくりした。それから少し、警戒もした。自分の周りに世話焼きが集まるとは言ったが、流石に見ず知らずの人にここまで世話を焼かれることなど、そうそう無いことである。
「いや、大丈夫ですよ。すぐだし」
 寧ろ何かに巻き込まれるのではないか、と懸念を抱きながら私は早口にミキの誘いを断ったけれど、ミキはあっさりと私を解放した。
「ならいいけど、気をつけてね」
 さっぱりとしたミキの態度に、僅かに罪悪感が宿る。気遣いの礼を口にしようと、私が口を開いたのと、ミキが手を高く上げたのは同時だった。
「ありがとうございました」
「あ、悟こっち」
 そう口々に言葉を発したのも、ほとんど同時だった。

 途端に私は身を硬くした。「悟」。人のひしめく東京において、それほど、珍しくもない名前である。ましてや、見ず知らずの非術師だろう他人が呼ぶ名など、無関係と受け流すべきだろう。雑音を聞き流す。雑踏をかき分ける。都市で生きる上で最低限必要な能力である。そして私は、雑踏で何かと人にぶつかられる質の人間であるのだった。
「何してんの」
 降り注ぐ声に顔をあげると、そこには、この二年間一日だって忘れたことのない人が、記憶のままの姿で立っていた。

 五条くんの目はサングラスに隠されていた。
 お姉さん、助けてあげてたの。ミキがニコニコと五条くんに話しかける。
 えらいでしょ、ゲロ踏んじゃうとこだったんだよ。
 そう誇らしそうに笑いながら、ミキは五条くんの腕に自分の腕を絡めた。
 初夏のまだ湿り気の多い空気をふと感じる。梢、まだかな。私は思う。帰りたい。五条くんがミキの腕を外す。なんで会うかな、こんなとこで。
「一ノ瀬、酔ってんの? タクシー呼ぼうか」
 はっとして、私は首を横に振った。
「大丈夫だから」
 でも、と続ける五条くんから、慌てて一歩後退る。かくんと足首が変な方向をむいてバランスを崩しかけた。ださい、私。
「あーもー、全然大丈夫じゃないじゃん、おまえ酒強くないんだからさ、飲むのやめなよ」
 五条くんが、屈んで私に目線を合わせてくる。私は視線から逃げるように、深くうつむいた。
「知り合い?」
 ミキが聞く。
「ん、まあね」
 五条くんが答える。ミキの機嫌良さそうな声に、私はまた一歩後退る。五条くんは腰を屈めたまま、
「水は? てか、この時間にまさか一人じゃないよね?」
 と聞いた。反射的に私は首をまた横に振る。
「いらない。梢がいる」
「瀬戸さん?」
 うん、と、うつむいたまま頷けば、
「おまたせ灯ちゃん」
 と待ち望んだ声が聞こえてきて、私は顔をあげた。梢。小さく私は呼ぶ。梢は私の腕に、自分の腕を絡めると、
「久しぶり五条くん、すごい偶然ね」
 と軽やかに言った。
「悟、ミキ帰ろうか?」
 知り合いが集まったことに気づいたのだろうミキが、キョロキョロと私達に視線を巡らせながら、気遣わしげに言った。ああ、いや。五条くんが言葉を濁す。どうしようかな、と悩みの見える声。私はうつむいた拍子に垂れた髪を耳にかけ直しながら、五条くんの様子を気に留めていないふりを装った。絡む梢の腕が心なしか強くなる。それに甘えるように、私は僅かに梢へ身体を近づけた。
「お気遣いありがとう。でも私達もう、電車の時間だから。ここで失礼するわ」
 柔らかな声で梢が言う。
「そう?」
「ええ」
 にこりと梢は微笑むと、「ご機嫌よう」と言って、私に腕を絡めたまま足早にその場を離れた。
「あ」
 耳元で五条くんの声が聞こえた。つい顔を上げれば、至近距離で目があってしまった、ような気がした。真っ黒なサングラスの奥の蒼は私からは見えなかったけれど、たった一言のそれは、何度も繰り返し教室で聞いてきた五条くんの声だった。二人きりの部屋で聞く、少し掠れたものとは、ちがうそれ。
「じゃあね」
 私はすっと五条くんから目を逸らした。小走りに梢の隣に並ぶ。五条くんは、私たちを呼び止めることはしなかった。星のない空が広がっている。もうすぐ日付けもかわる時間だと言うのに、東京の夜空は、ぼんやりと明るく霞がかっているように見えた。街は未だ賑やかで、ときどき、人の出入りとともに店の中から音楽が外に漏れ出ている。
「私、余計なことしちゃったかな」
 梢が唐突に言った。
 ううん、と、私は首を横に振る。
「梢がいてよかった」
 私は言って、今度は私から梢の手を握った。一瞬、梢のブレスレットに手が当たり、ひんやりとした冷たさに酔いが遠のいた。
「それにしても、かっこよかったね」
 梢が私の手を握りかえす。変わらなくない? 答えると、ずっとかっこいいってことでしょ、と梢が笑った。朗らかで優しい笑い声につられて私も笑う。肩から力が抜けて、どうやら自分がずっと身を硬めていたことに、そこで初めて私は気がついた。
(何をこんなに、緊張しているんだか)
 帰宅後、シャワーもそこそこに、私は服だけを脱ぎ捨ててベッドに横になった。急激に眠気が襲ってきて、瞼が否応なく閉ざされていく。
 化粧だけでも。頭の隅ではそう思っているのに、身体が言うことを聞いてくれない。ミキは今頃、五条くんの前で化粧を落としているのだろうか。
 眠る二人の姿は、なぜだか高専の寮の部屋で想像された。もう考えたくないのに。邪念を振り落とすように私は枕に顔を埋める。
(もういいや、今日は、もういい)
 そう思って、私は顔にのせたままのメイクも、小さくバイブ音を鳴らすスマートフォンも、全て明日の自分に託して、その夜を終わりにすることに決めたのであった。
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