神様の隣人 _ | ナノ

20

 風のない、夜だった。
 窓を開けてみても、夏のこもった空気がそこにあるだけで、部屋の中はむわりと湿度の高い熱を溜め込む一方だった。電気はまだ通っているようだったけれど、エアコンのリモコンが見つからなかった。夜なのに、蝉の声はまだ聞こえてくる。どこまで逃げても無駄だと、そう言われているような気になったのは、蝉のせいでは無いけれど。
「帰ろう、こんな暑い中いたら倒れちゃうよ」
 五条くんは言いながら、開け放した窓から入ってきた。ここが二階であることを全く感じさせない動作だった。ふわふわとした髪に、制服を着てサングラスをつけた、いつもの姿だった。
「何でここってわかったの」
 私が言うと、五条くんは小さく首を横に振った。
「逆。正直に言うと、一ノ瀬の行きそうなとこって言われても、ここくらいしか僕にはあてがなかっただけ」
 よっ、と言いながら五条くんが床に足をつける。
「変わらないね、ここは」
 五条くんはそう言うと、くるりと、お爺ちゃんの工房を見渡した。一枚板の作業台を大きな手でするりと撫でる。埃が積もっていたから、五条くんの手の跡を残すような線が出来た。
「落ち着く」
 五条くんがぽつりと言うなり、少し笑った。
「迎えにきといてなんだけど、ここにくると、どうしても帰りたくなくなるね」
 スツールを引いて五条くんが腰掛けた。試奏室と工房の境に立って、その様子を眺めていれば、
「そんなとこいないで、こっちおいで」
 と、五条くんが私を呼んだ。うん、と言いながら、五条くんの近くに立った。空いたスツールに腰掛けようとすると、埃がつくからと、五条くんの膝の上に向き合うように乗せられた。ぐっと五条くんの気配が濃く迫る。五条くん、と言いながら寄り添えば、五条くんは前髪ごし私の額に何度かキスをした。キスは額から瞼、それから頬へと移ろいでいった。私は五条くんのサングラスに手をかける。
「無い方がいい?」
 五条くんが聞いた。今は、と私が言うと五条くんはくすりと笑った。
「素直。かわいいね、一ノ瀬は」
 言いながら、五条くんは私の頬を撫でた。すりすりと、硬い親指が頬を滑る。そのうち指はまた唇に変わった。もどかしくて、首筋に腕を回せばようやく唇同士が触れ合った。きつく腕を絡めて、私の方から舌を挿し入れて絡めた。ちょっとだけ甘い味がする。
「積極的なのもいいけど、それ以上は、僕の我慢が無駄になるから」
「五条くん、我慢なんて、するの?」
「僕のことなんだと思ってるの? むしろ、我慢の男だよ、僕は」
「自由人なのに」
「自由なのは、一ノ瀬の方だよ」
「高専抜け出してきたから?」
「放課後、買い食いしてた頃から」
「そんなの、普通だよ」
「その普通が僕は羨ましかったし、一ノ瀬と出来て嬉しかった」
「私も、五条くんといて、楽しかったよ」
「……そっか」
「本当だよ」
 私は五条くんの胸に額をぎゅっと押しつけた。鼻の奥がツンとなったことにも、視界がうすらぼやけたことにも気づかれないように、気をつけて慎重に喋った。五条くんは私の腰に手を回している。

「何があったか、聞いてもいい?」
 五条くんの声色も慎重だった。
 うん、と私は頷いたけれど、べつにこれといった決定的な何かがあったわけではなくて、私は言い淀んだ。
「何が不満だったの?」
 そんな私に五条くんは、そう聞き直した。
「不満なんて、そんな」
 私は返す。
「いいよ遠慮しなくて。僕ならだいたいの願いに、融通はきくよ」
 五条くんは、流れるように話した。もとから、そう答えることを用意していたときの、口調だった。
 私は、傑がいなくなってから、五条くんに甘やかされることに、妙なモヤモヤを抱くようになってしまっていた。
 いっそ、言うことを聞けと、抑えつけてくれた楽なのに。
 五条くんの胸の中で、私は思う。
 そう、楽だったのだ。言われたことを言われた通りにしていればよかった。勉強もバイオリンも、任務も。教科書や楽譜を見れば、正解が載っていた。任務に出れば、五条くんと傑がいつも導いてくれていた。
(でも)
 私は、今一度、自分に言い聞かせる。
(でも、幸せは自分でならないといけないから)
「別れて欲しいの」
 どうして。五条くんが聞いた。それはやっぱり、元から用意されていた口調だった。
 五条くんはいつから、この日が来ることを、わかっていたのだろう。
「私だけが、五条くんに甘えてるのはだめなんだよ。そんなの五条くんがいないと生きていけなくなっちゃう」
「それの何がだめなの? 僕が全部守るよ。好きじゃなくなったって言うなら、べつに神様だろうがなんだろうが、何だっていい。一ノ瀬がいてくれるなら、僕はなんだってしてあげるよ」
「それって、普通の生活?」
 五条くんが息をのんだ。
「自由がないだけなんじゃないの」
 じわじわと五条くんの顔が歪んでいく。
 そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「ごめんね、五条くんは、何も悪くないの」
 今度は私が、五条くんの頬を指で撫でた。すべすべの肌はまるで作り物のようとすら思える。
 構成する一つ一つの組織すら、この人は完璧で綺麗なのだろう。
「神様でもいいなんて、言わないで」
 五条くんが、首を横に振る。
「強く聡い仲間をつくるんでしょう? 五条くんだけが特別じゃ、もうだめなんだって言ってたじゃない」
 僕は。五条くんは何か反論しようとした。けれど言葉をとめて、ふっと力を緩めた。
(仕方ない)
 もしかしたら、そう思ったのかもしれない。
 しばらく五条くんは私の首筋に顔を埋めていた。やがて、小さくため息をつくと、
「術師は」
 とだけ訊ねた。
「卒業まではちゃんと続ける。でも、そこまでにしようと思う」
「……非術師は嫌い?」
「何度でも言うけど、梢は好きだよ、私」
 でもそれだけだった。
 梢を守るためなら頑張れるけれど、他の非術師、もとい、他人のために私はきっと頑張れない。そしてそれは呪術界に対しても同じことであった。
「ごめんね。呪術界全体のこととか、私にはよくわからない」
「うん」
「五条くんの夢が叶えばいいと思う。でも私は、術師でも非術師のためでもなく、私のためにバイオリンが弾きたくてここに来たから」
「そうだね。そうだった」
「強くなれるかは自信ないけど、ちゃんと自分で考えられるようにはなりたいと思うよ。助ける人も助ける理由も、何が自分の幸せなのかも。私いつもわからないばっかりだったから」
「そんなことないよ」
 五条くんが言う。
「そんなことあるよ」
 私が言う。
 五条くんが笑った。私もくすりと笑った。
「帰ろうか」
「帰ろうね」
 もう一度抱きしめあって、よそよそしいキスをした。工房を出てからは、私たちはもう、手を繋がなかった。


「いい写真」
 硝子が一眼レフの液晶を覗いて、満足そうに言った。見せて。とのんびりとした声で言いながら、五条くんが硝子に近づく。ねぇ、このサングラスちょっといまいちじゃない? 昨日のにすればよかった。昨日と違うのそれ。全然違うでしょ。わっかんねー。
 五条くんと別れて半年が過ぎた。
 クラスメイトとしての距離感を、私たちは保っていた。
 友人なのか、知人なのか。
 それとも他人なのか。
 曖昧なカテゴリーの中を私たちは行ったり来たりしながら、この半年の間を新しい関係性で過ごしている。
「五条さん、そろそろお時間です」
 五条くんの多忙さは変わらなかった。術師の人手不足は相変わらずだし、新入生が増えたところで、五条くんより強い術師は現れない。結局最後は、みんな彼に頼りきりのままである。
(いずれ、祟りが起きるんじゃないかしら)
 呪術界について、私は恨みがましくも、そんなことを思っている。
「一ノ瀬、途中まで乗ってく? 荷物多いでしょ」
 キャリーケースとバイオリンを車から引きずり下ろして、私は新宿駅のロータリーに降りたった。
 呪霊の気配が肌をさす。禍々しいそれに、ぶるりと背が一度震えた。
 新宿駅は平日問わず人でごった返している。柱の影には恐らく任務と無関係な蠅頭の群れが湧いている。長距離バスの運転手の肩にも。今すれ違った女性は、なかなかの大きさの呪霊を背負っていた。
 全員が全員ではないけれど、無数に人があつまれば同じように呪霊も湧いて、憑き、祓われる。
「一ノ瀬、指、たてて」
 五条くんは、人差し指と中指を揃え立てて、私に見せる。同じように真似てみれば、ニコリと笑った。
「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
 しっかりと私は唱えた。あたり一体にドーム状に帳がはられる。小慣れたもんだね。五条くんは薄く笑った。それから、私のバイオリンを指さして、
「ついでだし、全部、出してっていいよ」
 と、言った。
「これからは、ちゃんと自分で祓うんだよ」
 五条くんは続ける。
「うん」
 私は頷いた。
「触りたくないとか言って、祓うのサボってたら、また昔みたいになるからね」
「うん、気をつける」
「どうしてもってときは、いつでも呼んでいいから」
「うん、ありがとう」
「心配だよ」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「誰に教わったと思ってんの」
 呪霊の気配が濃くなり、ざわめきが聞こえた。見える人間が何人かいるようだった。私と五条くんは気配の先を眺めて、ほとんど同時に頷いた。五条くんがまるで階段を昇るように、空へと駆け上がっていく。私はバイオリンをケースから取り出し、五条くんにむけて、呪いの言葉を呟いた。放たれた呪いが五条くんへと向かっていく。
 その一瞬、五条くんと目が合った。
 僅かに五条くんの口が動く。行かないで。そう口が動いたような気がしたけれど、随分と高くに立つ五条くんの声は私の耳には届かなかった。
「憐れみを」
 帳の中を、暗闇を裂くように、赤い閃光が瞬いた。目が焼けそうな程の強い光に、私はくらくらとする。彼の放つ光はなんて美しいことだろう。どうかこれからの日をあの人が幸せに暮らせますように、そう祈りながら私は帳の境界を潜りぬけた。
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