神様の隣人 _ | ナノ

19

 そういえば、五条くんの浮気を疑ったのも、この頃だったかもしれない。
 明確な証拠があったわけではない。さらにいえば、疑わしい様子があったわけでも無かった。
 五条くんが私のことを、本心から大事にしてくれていたのはわかっていたし、会えない時間も本当に任務で忙しいということも知っていた。
 それでも、女の勘というかなんというか。一緒にいる時もそうでない時も、五条くんが別の誰かに想いを馳せているような気がしてならなかった。
 結局その別の誰かは、どこかの女の子ではなく、小さな男の子であったのだけれど、五条くんからそれを明かされるまで、私は五条くんの浮気の真偽を確かめるようなことはしなかった。
 嫉妬はあったのだ。見えない女の子の影に黒々とした気持ちが溢れて、溺れそうになることもあった。何度か問い詰めてしまおうかとも思った。でもそれと同時に、仕方ないな、とも私は思っていたのだった。
 仕方ない。
 今になって振り返ると、聴取を受けた日から、私と五条くんの選択肢の中にはいつも「仕方ない」という項目が入るようになっていたような気がする。
 そしてそれも、仕方ないことのように思えた。
 近すぎたのだ。私達はきっと。傑という存在に。
 傑の喪失を癒やすには、私はあまりに彼らと同じ時間を共有しすぎていた。傑の気配が濃すぎるのだ。私が五条くんを見ては、無意識に隣に傑を探したことがあるように、五条くんももしかしたら、私から傑の不在を感じとってしまっていたのかもしれない。
 そして、その喪失感を癒す別の誰かに出会えたのではないかと、私は当時、五条くんに対してそんな予想をたてていたのだった。

 他の女の影を疑う私の前に、五条くんが恵を連れてきたのは五年生になってすぐのことだった。
 恵に会ったときのことは、はっきりと覚えている。
 高専最後の一年は、本当に色々とあったのだけれど、その開幕ともいえるのが恵こと、伏黒恵との出会いだった。
 恵は、黒髪をツンツンと自由に伸ばしていて、子供ながらに整った容姿をしていた。着ている服は首元が伸びきっているのに、綺麗にアイロンがかけられていて、なんだかチグハグな印象を受けた。
 睨むように私を見上げてくる恵は、ぎゅっと、ランドセルの肩紐を小さな手で握っていた。
「一ノ瀬灯です、よろしくね」
 私から先に名乗った。膝を折って恵と目線を合わせると、恵は、
「伏黒恵」
 と、そっけなく名乗った。

 それから何度か、恵とは高専で会った。五条くんに色々と指導を受けているらしい。
 ある日、恵が一人でいたので、
「五条くんとうまく言ってる?」
 と聞いたら、
「ぜんぜん」
 と返された。それから恵は、ちょっとだけ首を傾げて、
「アンタくらいだろ、あの人とうまくいってんの」
 と、呆れたように言うので私は驚いた。
「そんなことないよ」
「でも、みんな言ってる」
「なんて?」
「むずかしい人だって」
 恵の言う「みんな」が誰を指すのかはわからないけれど、私は五条くんを「むずかしい」と思ったことは無かった。変わってるな、とは何度も思ったことがあるけど、大きな違和感を覚えたことはなかった。それが恋愛中特有の欲目によるものなのか、助けられた恩義によるものなのか、はたまた、人間同士の相性なのかはわからないけれど。
「悪い人じゃないんだよ」
 恵はきょとんとした表情を浮かべた。それから少し考えて、
「趣味、悪」
 と、ぷいと目線を逸らすのであった。
 恵は両手を複雑に絡み合わせて、影を地面にうつし始めた。それ以上この話を続けるのはやめて、私は恵のつくる影絵を眺めた。小さな手が小さな絵を作っていく。犬? そう。他には。あるけど、まだ早いって。早いとかあるの。今はまず基礎体力つけろってあの人が。影絵なのに? アンタ俺の術式知らないの。なら聞くけど、恵は私の術式知ってるの?
 
十種影法術。
 禪院家相伝のその術式を引き継いだのが、恵だと言う。
 御三家って本当に存在するんだね。という私の感想に五条くんは声を出して笑った。
「今度恵と一緒に、禪院家、連れてってあげようか」
 御三家という存在を、私はこれまで、五条くんしか知らなかった。
 五条くんも、あまり家の話を口にしないものだから、随分と遠い存在として、記憶の端に追いやってしまっていた。
 最後に御三家という存在を聞いたのは、五条くんが、結婚は嫌、と言い放ったときだったように思う。それなりにショッキングな台詞だったからか、それなりに色濃く記憶に残っていた。
「禪院家って、どんな感じのとこ」
 と、私が訊ねると、五条くんはピシャリと答えた。
「一ノ瀬は、知らなくていい場所」
 知らなくていい場所。私はおうむ返しにした。
「知らなくていい場所なのに、連れてってくれるの?」
 よくわからなくて私が聞き返すと、五条くんは、はっとして、
「あーごめん、それ嘘。冗談」
 と降参するみたいに、両手を顔の横に掲げた。
 なんだ。
 変な嘘つかないでよ、そう言いかけた私に被せるように、五条くんは、
「絶対連れてったりしないから、安心して」
 と、笑った。
「連れてかない?」
「うん、行かない」
「行ってみたくても?」
 五条くんは私に手を伸ばすと、硬い親指で頬をすり、と撫でた。
「怖い思いさせたくないの。わかって」
 私はそれに、うんと頷いたけれど、なんだがもやもやとした気持ちであった。

 恵の術式、それから、禪院家のことについて、五条くんはこんな風にも言っていた。
「むかーし、恵と同じ術式の禪院家の当主がさ、僕と同じ六眼持ちの無下限呪術使いを殺してるんだよね」
 正しくは相打ちなんだけど。と付け加えられた説明は、私にはどちらもそう変わりはないように思えたが、ともかく、その一件により百年以上五条家と禪院家は不仲であると五条くんは語り聞かせた。
「なのに、五条くんが、恵の面倒みるの」
 私が聞くと、五条くんは満足そうに頷いた。
「だから、僕が、面倒みるんだよ」
 この頃、五条くんには夢が出来ていた。呪術界をリセットしたい。五条くんは、ある日私にそう語った。五条くんの部屋のベッドで、腕枕をされているときだった。
 夢を語るような男だと思っていなかったから、初めて五条くんがそれを口にしたとき、私は内容よりも、その事象に驚いていた。
「そのために、強く聡い仲間をつくらないといけない」
 五条くんは続けた。
「だから、卒業後は教師になろうと思うんだよね」
「教師?」
「うん。むいてないのは、わかってるけど」
「そんなことないよ」
「そんなことあるでしょ」
 五条くんが笑った。私も少し笑った。
 くすくすとした笑いがひそまると、部屋は途端にシンと静まった。何か言った方がいいのかと思ったけれど、言葉が出てこなかった。なれるといいね、というのは違うだろう。先生になることは出来るのだから。呪術界の一掃も、たぶん五条くんなら出来てしまう。難しいのは、強く聡い仲間をつくる、という第三者に委ねたものくらいで、でもそれも、五条くんの手から離れた先にあるものだから、「なれるといいね」というのは的外れなような気がした。
(そう思うと、五条くんは一人ならなんでも出来るんだな)
 いつか言っていた「出来ないことがない」という発言を、私はそのとき思い返していた。
「一ノ瀬もやる?」
 静寂を裂いたのは五条くんだった。
「先生、一ノ瀬むいてるんじゃない? 恵と仲良くなるの早かったし」
 あれは、ただ舐められてるっていうか同等に扱われてるだけだと思う。
 そう言えば、また五条くんはクツクツと喉を震わせて笑った。それに私はまたしても、なんだかやましい気持ちになる。べつに嘘をついたわけではないのに。

「可哀想」
 私が恵に言ったのは、血を流す膝にこさえたジクジクとした傷が痛そうだったからだ。
「五条くんも、もうちょっと加減してくれてもいいのに」
 消毒液を恵の膝にふりかけながら、私がため息をつくと、
「もう十分されてる」
 と、恵はうつむきがちに呟いた。
 あのね。五条くんが本気なんて出したら大問題だよ。恵だからって話じゃないの。みんなそうなの。あの人、最強なんだから。という慰めなのか、ただの事実の羅列なのかわからないことを、私は恵に説いた。
「アンタも、勝てないの?」
 ぽつりと不思議そうに聞く恵に、私は思わず吹き出して笑った。当たり前じゃない、何言ってるの。と声を出して笑う私に、恵は拗ねた口調で言い訳を述べ始めた。
「だって、補助監督の人たちは、五条さんはアンタに勝てないって言ってたから」
 そういうことか、と、私はまたにんまりとする。恵にも子供らしい、言われた言葉をそのままの意味にとる、素直な部分があったことに、少しだけ安心した。
 でもそれは全く検討違いな話だった。まず、補助監督の話からして、違っている。
「五条くんに勝てないのは私の方だよ」
 恵の頭を撫でれば、鬱陶しそうにされる。
 最強だからだろ。さっき聞いた。二度も言うな、と言うかのように恵はツンケンと話を締めくくろうとした。
 うん。私は曖昧に頷いた。なんだかまたうまく言えない気持ちになる。高専に来てからの私は、こんなことばかりだ。
五条くんと私、喧嘩、出来るのかな。少し前までくだらない言い争いを何度も繰り返してきたはずなのに、私は自問していた。
 わからなかった。なに一つ、光景が思い浮かんでこなかった。

 小学校が夏休みに入ると、恵を高専で見かけることが増えた。
「お友達と遊ばなくていいの」
 と私が聞いたが、恵はそんなのいない、といつものごとく、そっけなく答えた。
(それは、結構問題なのでは)
 いじめとか、あるんだろうか。複雑な生い立ちを理由に、嫌な思いをしていたりするのだろうか。大人びた子供であるけれど、人に取り入るのがうまいとも思えない。素直に仲良くして、と言える無邪気さも、たぶんない。大丈夫かな、恵。そう思いながら、私は恵の様子をじっと窺った。
「話す程度の知り合いならいるけど」
 恵は私の心を読んだかのように言った。
「知り合い?」
「同じクラスの奴とか、津美紀の友達とか」
 それは恵の友達じゃないの。と、聞きかけたけれど、やめた。
(知り合い、か)
(確かにそうかも)
 恵の言葉をなぞって、私はそう納得してしまっていたからである。
 高専に入る前の友達で今もはっきりと友人と呼べる存在は、気づけば梢しかいなくなっている。

 ジュース、買ってあげようか。私が言うと、恵はアイスコーヒーを所望した。夜眠れなくなっちゃうよ、と私がいっても、ならねぇよ。と恵は聞かなかった。
 ミルクも砂糖もいれずに、恵は平然とした顔でアイスコーヒーを飲んでいた。隣で私はリンゴジュースを飲んだ。しばらく私達は黙って並んでいた。恵がぐっと上を向いて、アイスコーヒーを飲み干した。呪力を込めた手で、恵がコーヒーの缶を捻る。恵の片手に収まる程に小さく缶を捻ってから、恵は聞いた。
「アンタは、いま幸せ?」

「え、どうかしたの?」
 驚いて聞き返すと、恵は目を細めた。
「べつに何もないけど」
「やっぱり、学校でなんかあった?」
「やっぱりって何? だから何もないって」
 じゃあいったいどうしたんだ、と、私は恵をまじまじと見た。恵はいつも通りのツンとした顔をしている。
「津美紀は、どうしたら、幸せになれんのかなと思っただけ」
 いったいその言葉にこの小さな子供はどれだけの意味を込めているのだろうか。
 大人みたいなことを言いたいだけなのか、どれだけわかって言っているのか、恵から読み取るのは難しかった。
「恵は、何が幸せだと思うの」
 慎重に、私は訊ねた。
「アンタみたいな奴なんじゃないの」
「私?」
「男も仕事も、このままいけば金も家も地位だってアンタは全部手に入れるんだろ」
 恵は続ける。
「アンタみたいなのが、女の幸せなんだろ」
 きっぱりと、恵は言った。
「幸せ」
 対して私の声は、随分とぼんやりとしていたように思う。
 幸せ。口の中で何度か言ってみる。自分が何を言われて、何を発しようとしているのか、確かめる必要があった。それくらい、よくわからない言葉だった。
「恵の、幸せは?」
 そう私が聞くと、恵は小さく首を横にふった。
「俺のは、べつにいい」
 恵は続ける。
「津美紀が幸せになるなら、それでいい」
 この子は、本当のところ、何がわかっているんだろう。それとも、本当は全くなにもわかっていないのだろうか。
「津美紀ちゃんは一生、恵に幸せか判断されて生きていくの」
 驚いたように、恵が私を見た。私も私の言葉に驚いていた。恵に言うべきことではない。どこかではわかっていたはずなのに、一度開いてしまった蓋は外れたまま、言葉が溢れていた。
「この先一生、津美紀ちゃんは、恵のために幸せにならないといけないの」
 そうじゃない。恵が口を尖らせた。幸せになって欲しいってのは、悪いことじゃないだろ、と恵は続ける。それはそうだけど。そう答えながら、私は身体の内側が熱を失っていくのを感じていた。
「俺のためとか、誰かのためとか、そんなことは願ってない」
 意味は大事だよ。頭の中で、呟いてみる。途端、みぞおちの辺りがヒュッとして、私は手を握りしめた。蝉の鳴き声がうるさくて、私の思考の邪魔をする。
(助けて)
 誰への祈りかわからないまま、私はそう願っていた。急に怖くなって。気づいたときには後ろを振り返っても、高専はどこにも見えないところまで私の足は逃げ出していた。

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