神様の隣人 _ | ナノ

18

 久しぶりに、教室に入った。
 桜が咲いて暫く経つというのに、今日はよく冷えた。学ランの下に着こんだセーターの袖を私は引っ張って、出来るだけ手を隠した。そういうことを良くするものだから、飛び出したセーターの袖は、ヘナヘナと伸びていてみすぼらしかった。新しく買おうかなと、いつもなら思うが、今日でもう最後だと思うとそのみすぼらしさも、なんだか懐かしいものの象徴に思えてくる。五年生の三月末日。学生最後の日を私たちは迎えていた。
 せっかくだから、写真を撮ろうと言ったのは、意外なことに硝子だった。
「ほら、二人並んで」
 仕事用に新調したと言う一眼レフを硝子が構える。
「撮ろっか、せっかくだし」
 五条くんが言った。
「そうだね、せっかくだし」
 私も言った。
 教室の窓側に二人肩を並べる。逆光じゃない? という五条くんに、平気平気、と硝子が答える。
「撮るよ」
 硝子が高らかに声を上げる。
 はい、チーズ。
 パシャリと一瞬、光が瞬く。

「おかえりなさい」
「ただいま」
 傑と新宿で会った日、高専に戻ってから、私と五条くんがした唯一の会話はそれだった。
 もっとイライラしていたり、わかりやすく沈んだりしているかと思ったけれど、五条くんの声は低く平坦で、静かだった。
 何か嫌なことがあると五条くんは静かになるのかもしれない。だんまりと、殻にこもるように部屋へと戻って行った五条くんの背中を目で追いながら私はそんなことを思っていた。
 それから何日もせずに、私は初めて事情聴取というものに呼び出された。
 五条くんの一言が動いた、という訳では無くて、あの事件が起こる前に最後に傑と会ったのが私だったそうで、そしてそれが、どうにも上層部には良い印象を与えなかったらしい。
「あくまで状況把握だ」
 夜蛾先生はそう理由をつけた。苦虫を噛み潰したような顔に私はなんだか申し訳ない気持ちになった。私は何も悪くない。傑はそう言っていたけれど、どこか私には夜蛾先生に対して、やましい気持ちがあった。
 傑を離反させたのは私。という傲慢な思い上がりがあったわけではないけれど。
「仕方ないじゃん」
 私が、聴取をうけることについて五条くんはそう言っていた。
 寮の共有スペースで、硝子に言い訳するように言ったのを、盗み聴いたのだ。
 仕方ない。
 五条くんの言葉を私は声に出さずに繰り返した。
(私が疑われるのは、仕方ないことなのかな)
 自室へと続く廊下を歩きながら、私は心の中でそんなことを考えていた。
(もし私のせい、ってことになったら、傑は戻ってこれたりするのかな)
 ということも。
 自暴自棄だったわけじゃないけれど、諦めみたいなものは正直あった。それが被害妄想を多分に含んだものだということはわかっていたけれど、でもちょっぴり、五条くんの本音にそんな願いが混じっているのではないか。と私は思うわけである。
 五条くんの一番は傑。
 私が一番目を逸らしていたかったこと。
 けれど、本当は内心で一番気にしていて、ずっと嫉妬を覚えていたことでもあった。
(傑の馬鹿)
 いつもより乱暴に自室の扉を開ける。
(傑の方がよっぽど特別なくせに)
 非術師なんて放っておけばいいじゃん。私は呟き、ばったりとベッドの上に倒れ伏せた。

 次に五条くんに会ったのは、事情聴取が終わり、上層部の人たちが揃う部屋を後にしてすぐのことだった。
 部屋の前で五条くんは、聴取が終わるのを待っていてくれたようだった。部屋から出てきた私を見つけるなり、五条くんは駆け寄ってきて、その勢いのままに私のことをきつく抱きしめた。
 ガタガタと身体が震えていた。震えていたのは、五条くんなのか、私なのか、それとも二人ともだったのかはよくわからなかった。何された。絞り出すような声で五条くんに聞かれたけれど、私はただ、首を横に振りながら泣くとこしか出来なかった。
「なんも」
「何も無いわけないだろ」
「何も、聞いてもらえなかった」
 聴取という名目のそれは、いざ蓋を開けてみれば、私は何一つ質問されることも、こちらから発言することも許されずに、ただ初めて会う上層部の人に囲まれながら恐怖に縮こまるだけの時間だった。彼らは私と傑に何があったかなど、一切の興味がなかったのだ。ただ、傑を取り逃がしたことで、誰にこの事件の責任をとらせひとまず収束とさせるのか、そして、その誰かを担うに私がそぐわしいかを判断したいだけであった。
「怖かった」
 こういうとき、私は「私のせいにしたら」なんて自己犠牲的なことを考えられる人間ではないらしい。
「殺されちゃうかと思った」
 あの人たちにとって、私はケージの中のネズミか、その辺りの蠅頭と変わらなかった。もしかしたら、それ以下の、何か無機物と同じような扱いだったかもしれない。命があるものとして、扱ってもらえる気が全くしなかった。
 私の命を奪うことに、あの人たちは何の疑いも持っていなかったのだ。
「させないよ、そんなこと」
 五条くんはそう言うけれど。
 私は身体の震えが止まらなかった。誰よりも強くて、大好きな人の腕の中だと言うのに、不安にのみこまれたままだった。
「でも、五条くんは、私が傑を唆してたらいいって」
 泣き声に、私は呟く。
「何言ってんの」
 叫びながら、五条くんが勢いよく私を引き剥がした。眉を上げて、私の顔を真っ直ぐと見下ろしてくる。
 何でそんな話になるの。もう一度、今度は力なく五条くんは繰り返した。
「だから仕方ないなんて、言うんじゃないの」
「聞いてたの?」
「私の代わりに傑が戻って来たら」
「もういい、わかったから黙って」
 はあ、と、五条くんは長く深いため息をつくと、もう一度私を抱きしめ直した。ぐりぐりと私のつむじに鼻を押し付けるように、五条くんは顔を寄せてくる。
「ごめん……僕のせいだね」
 五条くんは言った。それから、私の背中をゆっくりと撫でた。
「ないから、絶対。そんなこと思うわけ無い。だからお願い、もう二度と言わないで」
 五条くんが祈るように言った。ごめんね。私が言うと、五条くんは首を横に振って、僕もごめんね。と言った。
 本部を抜けて外に出ると、外は思ったより寒くて、月が浮かんでいた。
 五条くんの「仕方がない」の意図は、一度面会をさせて私を無罪にしておいた方が後々になって言いがかりをつけられるよりマシだと思った、ということらしい。五条くんは、寮までの帰り道、私の手を引きながらポツポツと話した。
「でも、こんな怖がらせるなら、上の連中になんか会わせるべきじゃなかった」
 握られた指先にこもる力が強まるのを感じながら、私は空を見上げ歩いた。
 空にぽつりと浮かんだ月は、触れたら血が出そうな程に、細く鋭利な形をしていた。

 三年生の冬から、四年生の終わりまで、その頃に関する記憶が、私は随分と朧気だった。
 記憶が曖昧になるくらい、穏やかで儚い時間だったとも言えるのかもしれない。
 なんとなく覚えていることといえば、事情聴取の後あたりから、五条くんの私に対する態度が少しずつ変わっていたことだろうか。少し過保護ともいえるくらい、五条くんは私に甘やかな言葉や態度を使うようになっていた。
 傑がいなくなってから、五条くんの一人称は「俺」から「僕」に変わった。年上と話す機会も増えるし、年下にも怖がられにくいし、というのが教えてくれた変化の理由だった。一人称が変わると同時に少しだけ言葉遣いが丸くなった。そうすると、次は態度もどこか柔らかくなっていった。
 しかし、私への態度の変化は、言葉遣いの変化の延長によるものでは無かったと私は思っている。
「すごい大切なの。一ノ瀬が」
 五条くんはそんなことを、よく口にするようになっていた。そういえば、この頃には五条くんはもう、ふざけて私の足を蹴るようなことも、軽口で私を弄るようなことも無くなっていたように思う。これを大切にされていると言うべきなのか。五条くんは、まるで私を壊れ物のように扱っているように見えた。慎重に、傷つけないように、丁寧に優しく私に接した。理由なく繰り広げられるお姫様のような扱いは、ぶっきらぼうに扱われるよりも、よっぽど私の何かをすり減らした。

 私の何かをすり減らすもの。
 そのうちの一つに、草薙さんの存在もあった。
 あの事情聴取の続きの話である。結末から言うと、上層部が定めた責任のいく先は、私ではなく、草薙さんに向けられた。
 知らされたのは任務帰りの車中のことだ。三年生の終わり、桜が花を開き始めていた。
「死刑にならなかったんですから、大温情というものです」
 草薙さんは、刑に対してそんな風に言った。
(そんなわけないじゃないですか)
 私は思う。
「悪いのは草薙さんじゃなくて、傑です」
 草薙さんに言い渡された刑は、監督不届による解雇通達であった。傑にあの任務を与えたのが草薙さんであったことが理由である。通常であれば、補助監督が術師の責任をとるなどありえない、異例の厳罰であった。
 上に申し立てることは出来ただろう。けれど草薙さんはそれをしなかった。
「彼は守られるべき子供だった。それを最強やら、特級やらと言って忘れたのは私です」
 車の窓から神社が見えた。見えたのはほんの僅かな時間だけで、すぐに通り過ぎた。車はビュンビュンと景色を置いてけぼりにして、高専へと続く道を走っていく。
「ですが一ノ瀬さん。私も、ただ黙って刑を受け入れたわけではございません」
 といいますと? 私は聞いた。草薙さんがニコリと笑う。よくぞ聞いてくださいました、そう言った顔をしている。
「内緒です」
 なんですかそれ。
「でもちょっと、言ってやりました」
 言った?
「随分とあの方々は、五条さんに目をかけていらっしゃるようでしたので」
 五条くん、ですか?
 草薙さんは頷く。恐れておりますよ、五条悟という存在を失うことも、彼が力を獲得するということも。草薙さんは神妙に言った。
「どういうことですか」
「これは補助監督内では、もう皆が知った話ではあるのですが」
 と前置きをしてから、こんなことを話してくれた。

 傑がいなくなってから、五条くんはさらに忙しくなっていた。
 本来ならば五条くんと傑が分担して行うはずであった任務が全て五条くんに委ねられたからである。
 特級術師は実質機能していたのは五条くんと傑の二人しかいなかった。だからそれは、致し方ないことだった。少なくとも表向きは、そう見えていた。
 けれど、それは同時に、そもそも特級などという存在は、五条くんと傑がなるまでは高専では機能していなかった。ということの現れでもあった。
 つまり、特級にしか許されない任務などは明確には存在しないのである。術師の任務は階級ごとに振り分けられる。特級呪霊などそう現れる存在ではない。それなのに、五条くんが多忙を極めているのは、ひとえに、一級術師でも対応可能な任務も全て彼に振り分けられているからであった。
 それが補助監督内で管理できる範囲であればまだよかった。けれど補助監督がどれだけスケジュールを調整しようと、上からの直々の任務にまでは介入することは出来なかった。
「上から直々なんて、あるんですか」
 訊ねると、草薙さんは少し悩んでから、はい。と頷いた。
 本当に大事な任務というものは、その詳細も、真意も我々のようなところには降りてこないものです。草薙さんは、考え顔に言った。
 気づいた時には、あらゆる任務を上層部は五条くんに押し付けていた。それはまるで高専への忠誠心をはかるかのようにみえたと、草薙さんは言う。
 そして恐らく、私への事情聴取もその一つだろうと。
 五条くんの判断は正しかった。草薙さんはそう肯定する。聴取の前に乗り込んでいたら、恐らく、五条さんにとっても一ノ瀬さんにとっても言いがかりをつける余地を与えることになっていたでしょう。最悪、一ノ瀬さんが五条さんを高専に繋ぎ止めるための道具のように扱われていたかもしれない。真面目な声で言われて、私は身をすくめた。
 事情聴取の翌日、五条くんは上層部のもとに向かった。
 どんな話をしたのか、そこのところは、私も草薙さんも知ったところではない。以降も、五条くんのスケジュールはぎっしりと埋め尽くされていった。学生一人に充てるような任務の量では無いのは誰が見ても明らかで、草薙さんは、五条くんが傑の二の舞になることを恐れた。
「だから、言ってやりました」
 草薙さんは、今度は笑わずに、静かに言った。
 車が高専の敷地にはいる。桜並木を抜けて,エントランスの前にゆっくりと停止した。
「一ノ瀬さん、私は夏油さんへの償いや五条さんへの忠誠、ましてや、あなたの身代わりなどのために、ここを去るわけではありません。自分の満足のためだけに辞めることを決めたのです。どうか、それだけは誤解されませんよう」
 はい。草薙さんの言葉にしっかりと頷いて、私は車を降りた。風が吹く。白い花びらが、ひらひらと降り注いでくる。

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