神様の隣人 _ | ナノ

17

 駅ビルを出てすぐに、携帯電話が鳴った。
 表示されたのは、硝子の名前だった。
「タバコ終わった?」
 一服終えたら連絡するね、との約束だったので、きっとその電話だろうと思っていた。けれども、どうやら私の予想は外れたらしい。
「まだ吸ってる」
 硝子は、少し笑いながら答えた。
 ならいったい何の用だろうと、私はひとり電話を片手に首を傾げた。何か買い忘れたものでもあっただろうか。
 出てきたばかりの駅ビルを振り返る。硝子が好きそうな服の店はないけどな。それとも、コーヒーかな。あ、靴下とか。
 呑気なことばかりが頭に浮かんだ。それは、硝子が普段私にあまり任務の話をしないことが理由だろう。実は誰よりも死に近い場所にいる硝子は、仕事の話を私に聞かせなかった。彼女もまた、私のことを何かから守るような態度をとっていたのだ。
 幼い私は、どれだけ彼らから守られていたのか、例に漏れず、全く理解していなかったのだけれど。
「さっき夏油がいたよ」
 たんたんと硝子が言った。
「え?」
「運試しだって」
「まって、わかんない。どういうこと?」
「私もわからないよ。なんかこれから、非術師のいない世界を作るんだって」
「非術師って……なにそれ」
「バカだよねぇ」
 動揺を見せることなく硝子は話した。混乱している私の方が間違えみたいだ。まるで、いつも通り、昼飯買いに言ったよ、なんて連絡と同じテンションで硝子は喋り続けた。
「え、あ、五条くんには」
「もう言った」
「そっ……か」
「灯、今どこいる」
「え、駅ビル出たとこ」
「迎え行くから、そこいて」
「話があるから、ゆっくりでいいよ」
 突然耳に飛び込んできた声に、私はびっくりして叫び声をあげた。ひどいな、と耳元でその声は笑う。
「傑?」
 振り向けば、傑は、私から取り上げた携帯電話を「はい」と差し出してきた。通話は切られていて、待ち受け画面に戻っている。
 何やってんの。そう言って、私は傑の服を両手で掴んだ。伸びるからやめてくれないか。と傑はさして止める気のない、甘い声で私を静止する。 
 下げられた眉と細まった目はあまりにいつも通りだった。傑は五条くんにもう会ったのだろうか。そして、五条くんの前でもいつもと同じ顔を見せたのだろうか。

 傑は、私の手をそっと服から離した。
 新宿駅前の雑踏の中で、私は傑にだけ意識の全てを注ぐように集中した。呪力の薄い残穢を探るときのように、一つだって傑から発せられる情報を見逃さないようにして、真っ直ぐに見つめた。
「なんで」
 離された手を私はかたく握りしめる。
「改宗だよ」
「改宗?」
「そう、信じる教えを変えたんだ」
 たんたんと、傑は説明を始めた。
 弱者共存が如何に術師にとって悪影響であるかということ。非術師という存在が術師にとって無価値であること。術師だけの世界をつくりたい。それが傑の大義であり、これからの生き方であるということ。
「非術師のために私はもう生きられない」
 傑は感情をこの一瞬でどこかに置いてきてしまったかのように、抑揚なく話した。
 なんで。そんなのおかしいよ。傑は違うじゃん。首を横に振り続けながら、私は傑の言葉ひとつひとつを否定した。
「だって、傑が非術師を守れって私に教えたんだよ」
 私は小さく叫んだ。
「人の信条は変わる。それは灯が一番わかってくれるだろ」
 傑は続ける。
「決めたからには、あとはもう進むだけだ。それが砂漠の果てであろうとも」
 真っ直ぐな声だった。覚悟の現れなのか、それとも、傑という人間の質、なのだろうか。しゃんと真っ直ぐ伸びた背中を彷彿とさせる声だった。きっと何度も傑はその声で五条くんを安心させてきたのだろう。私にはとても出せやしない誠実で甘い、その声で。
 私は歯を食いしばった。
 それから、砂漠の果てという言葉を思った。
 一つの舞台が浮かぶ。
 オペラ「タイス」。その歌劇の終幕は砂漠を越えた先にあった。
「私のせい?」
 声が震えた。目と鼻の奥がツンとして、それからじわりと熱くなる。泣いてはいけないと、私は必死に涙を堪えた。
泣くよりも話すべきことがあったし、何より、今、傑の前で泣いていいのは、私ではないと思ったからだ。
「灯は何も悪くない。慰めで言っているわけじゃない、君は何も悪くないし、私が思想を変えたきっかけですらもない」
 傑は宥めるように、私の肩を抱いた。
「タイスの最後は悲劇だよ」
「それでも私は、私に出来ることをするだけさ」
 私は傑の胸元に頭を預け、すすり上げた。左肩にのっていた傑の手が離れて、私の頭をそっと撫でる。

「非術師のいない世界って何」
 傑の胸元から顔をあげて、私が聞くと、
「着いてきてはダメだよ」
 と、傑は言った。
「灯は悟のものだから」
 と続く。
 私がそれに腑に落ちない表情を見せれば、傑は首を小さく横に振った。それから、
「よく聞いて。灯」
 と言って私の頬を両手で包み、高い位置にある傑の目と目を合わせるように私の首をもたげさせた。
「君は悟の側を離れてはいけない。それが君の幸せだからだ」
 真面目に傑は私に言い聞かせる。
「愛してるんだ、灯」
「愛」という言葉を贈られたのは初めてのことだった。五条くんからすらも無い。五条くんと私は恋人同士であったが、贈り合う言葉はいつも「好き」や「大好き」といった幼いもので、どれだけ背伸びをしても「大切」という言葉に、思いの全てをのせることしか出来ないでいた。17歳の五条くんと私にとって、「愛」なんて言葉は、背伸びして使うにはあまりに小っ恥ずかしい、大人の蜜語でしかなかったのだ。
「君を困らせたいわけじゃない。ましてや、どうこうしたいとも思っていない。悟と君が思い合うような感情と、私のものは違うんだ」
 頷きもせず、私はただ黙って聞いていた。
 傑はそれを、私が納得いっていないと捉えたようであった。
「言葉を変えようか。私はね灯、君に憧れたんだ。君は私の幸福の象徴で、奇跡だった。信仰と呼んでも構わないほどに」
 信仰。私は小さく繰り返した。
 脳裏に浮かんだ人の姿に、私の頭はようやく働きをみせてくる。
「それは、違うよ」
 私は口を開いた。
 信仰というのは、私のような人間に寄せられるものではない。
 五条くんへ抱いた私の思いを、私なんかへの気持ちと同じ列に並べて欲しくなかった。
「私、傑に守ってもらってばっかりで、何も傑のためにしたことなんてない」
「そんなことはない」
 傑は言い切った。
「君のいる世界はいつも綺麗だった」
(違う、それは私じゃない)
はっきりと思った。だから、私もまた断言した。
「それは、傑の隣に五条くんがいたからだよ」

「灯は悟になりたいと思ったことがあるか」
 私の一言に対し、傑は全く違う角度からそんなことを問いてきた。予想していなかった言葉に、私はつい口を閉ざし忘れ、え? と力なく傑に問い返していた。傑は私の間抜けな表情には無関心に、依然と真面目な顔つきで、同じ台詞を繰り返した。
「ない……けど」
「悟ならば出来る、ということが、この世にはあまりにある。それでも君は一度も悟の力に焦がれなかったのか」
 確認するように傑は、言葉端を変えて同じことを聞いてきた。私はそれに、素直に頷く。
「だから君は、悟の隣にいられるんだろう」
 傑は言った。勉強会のときのような、教え聞かす口調であった。
「君は悟と並ぶにふさわしい、この世に一人の存在だ」
 教師然とした口調で傑は続ける。
「私の信仰を否定するのは構わないが、君の信仰のために君の価値を下げることだけはやめてくれ」
 傑はそう締めくくると、私から一歩離れた。
「君の幸せを心から祈るよ」
 傑が言う。
「いやだよ、行かないで」
 私の言葉に、傑は首を横に振ることも、別れの言葉をかけることもせず、ただ静かに踵を返して、雑踏の中へと姿を消していってしまった。
 
 傑の姿を見失うと、途端に街の喧騒が戻ってきた。
灯、と私を呼ぶ硝子の声を、耳が拾った。振り返ると珍しく焦った表情をした硝子が小走りに駆け寄ってくる。
「硝子」
 私も名前を呼んで、歩みよった。硝子がそっと私の手を取る。
「帰ろう」
 硝子は優しい声で言った。
「いいね」
 慰めるような表情で、私の顔をのぞいてくる。
 私はそれに小さく頷いた。
 硝子と手を繋いで、高専に帰るべく駅へと向かった。指先を絡め直しながら、私はおもむろに口を開く。少しだけ緊張して、声が音になるまで、頭で思うより一拍遅れた。
「私の幸せって、五条くんといることだと思う?」
 なにそれ。硝子は鼻で笑った。
「夏油に言われたの?」
「ん、まあ、うん」
「前も言ったかもだけどさ、別に私は灯がどっちを選んでもいいし、どっちも選んだって別にいいんだけど」
 硝子のいう「前」を私はちゃんと覚えていた。
 五条くんが、他の女の子と付き合うのは嫌だな。
 私は思う。ということは、やはり傑の言葉に間違いは無いということなのだろうか。
「でもさ」
 硝子は軽やかに言った。
「どっちも選ばなくても、いいと思ってるよ」
 え、と、私は思わず足を止めてしまう。
 一歩先を歩いていた硝子が、振り返った。
 五条といて楽しいなら五条といればいいし、夏油の話に乗りたいなら、勧めないけどそれはそれじゃん。別に非術師嫌いでも五条のこと好きでいてもいいし、逆にどっちも違うならどっちも違うでいい。と硝子は澄ました顔でさらっと言ってのける。
「灯は灯の好きにすればいいんだよ」
 話は終わりと、硝子は私の手を緩く引いてまた歩き始めた。
「好きなように」
 私は小さく硝子の言葉を繰り返す。
 新宿駅は人でごった返していた。
 きっとここにいる殆どの人間が呪いを見ることができない。さらには祓えて、かつ、生まれ持って術式を授かった人間などもしかしたら私しかいないのかもしれない。
 あまりに彼等は無力だ。
 そんな彼等の中に、好きなように生きている人間はどれほどいるのだろう。
 最強。
 では逆に、それだけの力が、もしもこの手にあったとして、それは好きに生きることに繋がるのだろうか。
思わず私は、その力の使い方を考えはじめた。
 私は呪いに怯えることなく祓うだろうか。非術師を気持ち悪いと一掃するだろうか。
 答えはあまりに明白だった。
 どうやら私はどこまでも、傑のように誠実には生きられないらしい。
「ねぇ硝子、今日さ、五条くん帰ったら機嫌悪いと思う?」
「最悪だろうね。過去最悪なんじゃない」
 硝子が笑って答える。
「やだなぁ」
「ほっときなよ。そのうち吹っ切れるでしょ」
「……それはそれで、寂しいね」
 私はぽつりと嘆いた。すると硝子は繋いだ手を握りなおしながら、
「それでも、そうやってくしか無いんだよ」
 と、振り向くことなく、大人びた声で言うのであった。
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